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第25話 旧夢《きゅうむ》

太陽がすでに傾きかけていた。


林の光が一枚ずつがれ、空気もつられて冷えていく。


二人は森の最も静かな奥へ沈んでいった。


開けた空き地。雑草が低く伏せ、影が四方からゆっくりと這い寄ってくる。


「このあたりでいいでしょう」


セレイナが何気なく手を一振りした。


空気がかすかに震えた。


見えない「まく」が周囲から垂れ下りた。光がわずかにゆがみ、音が外と隔絶かくぜつされる。


「これは……」


イノが周囲を見回し、警戒した。


「また何かするのか?」


セレイナは答えなかった。


無表情のまま、イノを見ている。


「抜きなさい」


イノが一瞬止まり、従った。


夜闌やらんさやを離れた。


刀身がかすかに鳴った。


「刀を教えてくれるのか?!」


「……自分で学びなさい」


セレイナの声は軽い。


空気がもう一寸冷えた。


イノの眉が寄った。本能的に、何かがおかしいと感じた。


セレイナが右手を伸ばした。


だが何かが——この瞬間、「鳴った」。


意識の奥底から。耳を通さず、直接意識をつかんだ。


ほんの数秒。


だがイノは、永遠の夢を経たような気がした。


次の瞬間——


陽の光が、完全に消えた。


林の温度が一息で真冬に落ちた。


イノの産毛うぶげが総立ちになった。体が本能で危険を察知している。


視線が地面に落ちた。


影がうごめいている。


闇がり、糸を引き、絡み合い、液化した夜のように、一寸ずつ形を成していく。


人の形。


破れた外套がいとう。壁のように広い肩。手に巨剣きょけんが垂れている。無音。


影の中に立っていた。審判者しんぱんしゃのようでもあり、処刑人しょけいにんのようでもあった。


イノの心臓が暴れた。掌が汗で滑る。


「イノ・ストヴォーク」


セレイナの声が耳元で低くささやいた。


「これが、あなたの師」


「倒しなさい」


「冗……冗談だろ——?!」


イノの声が裏返った。


黒影がゆっくりと頭を上げた。


外套の中には何もない。


なのに、視線がある。


イノにはあの力が蠢くのが「見えた」。純粋な殺意。黒い風となり、彼を包囲している。


確信した。食頭魔クラニウム・デーモンなど比較にならない。


次元が違う。


窒息するような威圧に、膝が勝手に震え始めた。


頭に残ったのは、一つだけ。


(逃げろ!)


——————


「あの者は、かつて最も高い玉座ぎょくざに座っていた」


セレイナがわずかに首をかしげた。表情は淡い。


「この剣で、数えきれぬ首を落とした」


ひと呼吸。


「己の欲のために、魂を差し出した」


黒影は動かなかった。ただ立っている。


「今はもう、自分の名すら覚えていない」


セレイナの目が伏せられた。声がほとんど夜と溶け合っている。


(待て——魂……?)


イノの瞳孔が縮んだ。


「じゃあ俺とあんたの契約も——」


セレイナが彼を見た。


「——同じなのか?」


彼女が笑った。浅く。


「ええ」


「あなたもいずれ、あの者と同じになる」


「聞いてない——!!!」


イノの叫びが林に炸裂した。


あの夜の囁きを覚えている。


あの言葉。夢のような、詩のような。


あれは運命が差し伸べた手だと思った。


セレイナはイノを見ていた。


何も説明しなかった。


「……全部、嘘だったのか?」


イノが歯を食いしばった。


「嘘?」


セレイナがわずかに首を傾げた。


「望んだものは、与える」


「あなたが自分で選んだことよ」


イノが頭を下げた。


胸の中で燃えているのは、怒りではなかった。


恥だった。


あの夜を思い出した。あの取るに足らない執着と、軽率な選択を。


手が震え始めた。


自分への嫌悪。


「……そういうことか」


呟いた。


「俺は、てっきり……」


(てっきり——運命がやっと、一度だけ味方してくれたのかと。)


口の端が動いた。笑おうとしたらしい。


笑えなかった。


睫毛まつげがかすかに震え、鼻の奥がくなった。


(本気で信じたんだ、俺は。)


目がゆっくりと落ち、手の中の刀を見つめた。


「……だまされやすかっただけか」


突然低く、ひと声笑った。


ゆっくりと息を吐いた。


(もういい。)


(この世に、誰かを救いたいと思う人間なんかいない。)


イノが目を閉じた。


開いた。


「わかった」


声がとても平らだった。


「じゃあ俺がなればいい」


「いつか——もう一人の"俺"を、救える人間に」


イノが顔を上げた。刀に月光が映っている。


(たった一度でいい。)


夜闌が掌の中でかすかに震えた。


イノが黒影を見据え、口の端を上げた。


「とんでもない武器を持たせてくれたな!」


セレイナが眉を上げた。腕を組み、唇の端に深いが浮かんだ。


(まだ怖い。死ぬほど怖い。)


長く息を吐いた。


次の瞬間——


前へ踏み出した。


枯葉が舞い、風が耳元ではじけた。


夜闌が真っ直ぐ黒影に突き込まれる——


黒影が剣を上げた。


軽く。


ひとね。


刀のきっさきがたやすくらされた。


(違う——力が、ない?)


イノが驚き、強引に体勢を戻し、反手で受けようとした。


遅い。


——ドン。


衝撃が腕に叩き込まれ、腕全体がしびれた。


膝がつきかけた。


イノが転がり、地面が顔をかすめた。


次の一撃が落ちた。


轟——。


さっき立っていた場所が、砕けた。


「……くそ……」


息が全部狂った。汗が額から垂れる。


まだ立て直せていない。


「準備運動は終わったでしょう?」


セレイナが淡く言った。


「ちょっと本気を出させてあげる」


「——何?」


イノが反応する前に、黒影が消えた。


(消えた?)


次の瞬間。


もう目の前にいた。


近すぎる。


刀が上がらない。


嗤——。


刃先が頬を掠めた。血の粒が飛んだ。


「——っ!」


灼けるように痛い。


(冗談だろ——こんなもの、勝てるわけがない!)


風圧がもう落ちてくる。


イノが必死に刀を上げた。


受ける。


退く。


転がる。


全部、本能でしのいでいる。考える暇がない。


ドン——!


ガン——!


裂ける音——。


金属がぶつかるたびに、体に新しい傷が刻まれた。


肩。腰。太腿。腕。


傷が一本、また一本、裂けていく。


血が止まらない。


足掻あがいても、無意味だ」


声が四方から押し寄せてきた。黒影が一歩ずつ迫る。


「お前はここで死ぬ」


ドン——!


また吹き飛ばされた。視界が暗転する。


だが次の瞬間——


傷口にあの灼熱しゃくねつが走った。裂けた筋肉が縫い合わされ、皮膚が少しずつふさがっていく。


イノが叫びながら跳び起きた。


「なら、まだ終わってねえ——!」


横薙よこなぎ。


一歩踏み出した瞬間、脚が崩れた。力が一気に抜ける。


(違う——体力は、戻ってない!)


直後、黒影の拳が叩きつけられた。


轟——!


イノの体が吹き飛び、木の枝が折れ、地面に重く落ちた。


息が散った。


一瞬、何も聞こえなくなった。


心臓の音だけ。


ドン。


ドン。


ドン。


地面に転がったまま、あえいでいた。


見えない。目の前が真っ暗だった。


黒影がゆっくりと歩いてきた。巨剣を高くかかげている。


剣面にイノの無様ぶざまな姿が映っていた。


呼吸が、一瞬止まった。


(くそったれ——)


「冗談じゃねえ——!」


イノがえ、転がって落ちてくる剣をかわし、夜闌に手を伸ばした。


指がつかに触れた瞬間、冷気が腕を駆け上がった。


(わかってる。)


イノが立ち上がった。


(遅い。すきだらけ。俺は何もわかっちゃいない。)


息はまだ乱れている。足元も定まらない。


(全部わかってる!)


黒影が迫った。


速い。


圧が顔に貼りつくほど近い。


イノの体が、無意識にあの構えを取っていた。


(また——これか。)


歯を噛み締めた。


「……死ね」


手首を返した。


何年も塀の陰で盗み見て覚えた、あの不格好な刀の型が——消えた。


力の流れが途切れた。


拍子ひょうしが崩れた。


イノが勢いよく体を起こし、長い叫びとともに、黒影に斬りかかった。


「死ねえぇ!!!」


この瞬間、夜闌が指の中でわずかに熱を帯びた。刀身が光り始め、冷たい殺意が潮のように鋒から広がった。


黒影は慌てない。


巨剣を軽く撥ね、攻めを流し、反転して蹴りをイノの腹に叩き込んだ。


「ぐ——っ!」


イノの体が再び地面に叩きつけられた。刀が手を離れ、数歩先に転がった。


仰向けに倒れたまま、それでも前を見つめていた。


黒影が巨剣を振りかぶり、最後の一撃を落とそうとした。


「そこまで」


セレイナがゆっくりと手を打った。


黒影の動きが、瞬時に止まった。


次の瞬間——溶けた。


地面に沈み、跡形もなく消えた。


イノの傷がふたたび塞がっていった。


だが彼は動かなかった。


目を開けたまま、夜空を見上げていた。

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