第24話 夜咬《やがみ》
訓練場所 午後
力の鍛錬を終えたばかりのイノが、四肢を投げ出して草の上に仰向けに寝転がっていた。
息が荒い。
「さあ、起きなさい」
片腕をつこうとした瞬間——目の前を黒い影が走った。
一頭の狼が、イノの前に降り立った。
いや、狼と呼ぶには足りない。
全身の毛が夜の金属のような光沢を帯び、四肢は細長く、関節がくっきりと浮いている。耳は後ろに伏せられ、体は低く、静かだった。
最も目を引くのは——終始閉じられたままの両の目。
イノが口を開きかけたとき、セレイナの声が聞こえた。
「夜咬」
その悪魔がゆっくりと頭を持ち上げ、尾をひと撫でし、セレイナの足元に伏せた。
イノが瞬いた。
「……食頭魔よりずっとかっこいいな」
「あなたのことも珍しがってるわよ」
セレイナが夜咬の頭を軽く撫で、身を屈めて何か囁いた。
次の瞬間——夜咬が跳ね上がり、イノに飛びかかった。
「うおっ!?」
イノ反転して全力で走った。
「そっちの『珍しがる』かよ!?」
夜咬が無音で迫る。脚が地面を滑るように。
「こんなもん放して——誰かに見られたらどうすんだ!」
イノの声が林の中で風に千切れ、遠ざかっていく。
セレイナはその場に立ち、一人と一匹の影が木立の奥に消えるのを見送った。
——————
風が、耳の後ろを掠めた。
足が地面を蹴る瞬間、落ち葉から埃が舞い上がり、迷わず前方の灌木に飛び込んだ。
林の風が肌を切る。木の根、岩、草地——足裏が次々と切り替わる。呼吸のリズムがだんだん整い、額の汗は滴り落ちる前に風に蒸発していった。
(こいつ……本気で俺を食う気だ!)
だがその殺気が、頭を逆に冴えさせていく。
身を低くして枝を潜り、倒木を翻って越えた。草の葉が手の甲を擦り、指先が岩の隙間を掴んで蹴り上がる。蔓が垂れてくれば掴んで振った。
坂、乱石、落ち葉——すべての地形が読める。
だが——
夜咬の気配が、消えた。
静かすぎる。
イノが急停止し、横に跳んで傾いた幹に飛びつき、上まで登って影の中に潜んだ。
木の上にしゃがみ、息を殺し、耳を澄ました。
(この訓練の目的は何だ? 速さか? 反応か? それとも——)
陽が枝葉の隙間から斑に落ちている。
光と影の境界に隠れ、目が地面のすべてを追った。
(待てよ……あいつ、周りの鳥を一羽も驚かせてない……? どこにいる?)
極めて細い風が、背後を掠めた。
イノが振り返った。
枝葉がわずかに揺れている。何もいない。
(まずい!)
反射で正面に向き直った。
夜咬が、目の前にいた。
いつ現れたのかわからない。四肢で枝に立っている。
目は閉じたまま。
なのに——じっと見つめられている感覚。
「くそっ——!」
本能で体をひねり、逆さに垂れ下がった。咬みつきをぎりぎりで躱す。
夜咬が空を噛んだ。
手を離し、下の枝で衝撃を殺して回転し、地面に着くなり転がって逃げた。砕けた葉が飛び散る。再び全力疾走。
夜咬が一瞬止まった。
イノが避けるとは思わなかったようだった。
口が無音で開き——次の瞬間、体が漆黒の線になった。
「パン」と音がして、その線が閃いた——
イノの真正面に出現した。
「な——!」
夜咬がもう飛びかかっている。
肩に牙が食い込んだ。
「うあああ——っ!」
血が噴き、イノは叩きつけられた。砂埃が舞い、骨まで達する痛み。
(痛い、痛い! 骨が砕ける——)
「離……せ……」
夜咬の体が一瞬、固まった。
口を離し、唇の血を舐めた。
イノは地面に潰れ、血が止まらず、全身が震えている。
夜咬が鼻先を血の跡に近づけて嗅いだ。だがそれ以上は踏み出さなかった。
イノの心臓が激しく鳴っている。意識がゆっくり戻ってくる。
夜咬がゆるりと一歩退き、前足を収め、首をわずかに傾げた。
何かを確かめるように。
イノは肩を押さえ、歯を食いしばっていた。
息を吸いながら罵った。
「おい……本気か? お前さっきの一口——」
夜咬が首を反対側に傾けた。
耳がぴくりと動いた。
不意にもう一歩近づき、鼻先が傷口に触れそうなほど寄った。
「来るな——お前、おとなしいふりするなよ!」
イノが後ずさった。片手でまだ傷口を押さえている。
しばらく見つめ合った。
「……お前なあ……」
——————
少し離れた木陰で、セレイナが苔の生えた石に寄りかかっていた。
指先で薄紫の蝶を数羽、遊ばせている。羽根がかすかな光を帯びて、生き物のようだが、影も温度もない。
蝶がセレイナの指の周りをひと巡りし、掌に戻った。
夜咬が林から飛び出してきた。四肢が翻り、影のようにセレイナの足元に伏せた。
セレイナが眉をわずかに上げた。
「……あんなに早く終わらせないでって言ったでしょう?」
夜咬が頭を伏せた。
セレイナが目を上げ、林の中からゆっくり歩いてくるイノを見た。
肩を押さえ、顔が白い。
「肩ごと持っていかれたかと思ったわ」
セレイナの声は淡く、からかいすら混じっている。
イノの目が「その口調、聞こえてるからな」と言っていた。
「本気で咬んだんだぞ!」
見覚えのある灼熱が肩を焼いている。傷口を見ると、縁がゆっくりと塞がっていた。
「こんな訓練があるか!」
「おかしいわね……」
セレイナが目を落とし、蝶の影が掌に溶けるのを見ている。
「だろ!? ちゃんと言ってやってくれ」
「普通なら腕ごと引き千切られるはずなのに——」
セレイナがゆるりと夜咬に目をやった。
「この子の肉、そんなにまずかった?」
イノが口をぱくぱくさせた。
「……」
夜咬が耳を動かし、セレイナを見て、イノを見て、最後に頭を前足の間に埋めた。
セレイナがちらりと横の草地を見て、軽く顎を上げた。
「そこに座りなさい。お疲れさま。少し休んで」
イノが肩を揉みながら座った。
夜咬がゆっくり起き上がり、二歩近づいて、イノの膝の横で止まった。
「おい……来るな……頼むからおとなしくしてくれ」
イノが身を引いた。
夜咬はそれ以上動かなかった。呼吸が穏やかだった。
セレイナの指先に絡んでいた蝶を、イノがぼんやり見つめた。
「あれは何?」
「魔力で作った小さなおもちゃ」
セレイナは顔を上げなかった。
「暇つぶし」
「ちょうどいい」
イノが少し身を乗り出した。
「先生、今から魔法を少し教えてくれないか?」
セレイナが指を上げると、蝶がふっと散った。
軽くからかう声。
「イノ、あなたにその資格があるかどうか、まだわからないのよ」
「資格?」
イノが目を丸くした。
「やっぱり騙してたのか?」
セレイナが彼を見た。表情は淡い。
「あのとき、本当のことを言えばよかった?」
イノが言葉に詰まり、頭を掻くしかなかった。
「凡土の魔法の核は"言葉"」
「言葉?」
「あなたたち人間はいつもそれを細かく分けたがる」
首をわずかに傾げた。
「感覚、容量、精神、魂……」
ひと拍。
「私には教えられない」
「は? 自分は使えるくせに教えられないってどういうことだよ! 言い訳だろ!」
セレイナの表情は変わらなかった。
淡く一言。
「人間のやり方は、わからない」
「じゃあ——」
「来なさい」
セレイナがイノを遮り、手を差し出した。
「手を出して」
イノが手を振った。
「わかった」
セレイナが眉を上げた。
「精霊の魔法をひとつ教える。試してみましょう」
左手を差し出した。
「手を乗せて」
「詠唱が純粋であるほど、強くなるはず」
「ん」
イノが頷き、右手をセレイナの掌に置いた。
冷たく柔らかい感触が伝わった瞬間、心が少しふわりとした。
「聞いてる?」
セレイナがさりげなく釘を刺した。
「聞いてる聞いてる!」
慌てて意識を戻した。
「それで——なんで言葉がそんなに大事なんだ? あと、さっきから『凡土』って何だ?」
「あとで。まず資格があるか見る」
セレイナが低く、精霊語を詠唱した。
「火の精よ、わが息に従い、わが心をもって、わが心の炎を映せ」
掌に、柔らかな火が灯った。
「この炎から感じ取りなさい」
イノが火を凝視した。
顔が真っ赤になるほど力んでいる。
自分が何をしているのかまるでわからないが、「感じ取っている」ふりだけは懸命にしていた。
「真似して唱えなさい」
「精霊魔法は精霊語じゃないと駄目なのか?」
イノが眉をひそめたが、言われた通りにした。
だがどう真似ても、正しい音節が出ない。舌を噛みそうになりながら、でたらめな音が漏れる。
頭を掻いた。言葉の意味はわかる。だが口がついてこない。
「どうしてこういうところだけ馬鹿なの?」
セレイナが少し苛立っていた。
「精霊語なんかできるわけないだろ!」
イノが悔しそうに反論し、何度か試み、全部失敗した。
「唱えなくていいってことにならないか?」
「ならない」
セレイナがきっぱり断った。
イノは仕方なく目を閉じ、あの音節を頭の中で何度か繰り返した。
ふいに——掌が熱くなった。
指の隙間から、かすかな火の穂が揺らめき出た。
セレイナの目が、鋭く縮んだ。
あの火がセレイナの瞳の奥で跳ね、眉がわずかに寄った。だがすぐには口を開かなかった。
「え? まだ唱えてないんだけど」
「ありえない……」
セレイナがイノの掌を凝視した。
「……もう一度」
火が再び上がった。
「心の中で唱えたのね?」
「そうだよ——口に出さなくても使えたんだ! ほら、唱えなくていいじゃん!」
イノが手を振ると、もうひとつ火の穂が跳ねた。
前より明らかに強い。
炎の奥に、かすかな青白い電光が一瞬走った。一瞬で消えた。
「詠唱を飛ばした」
セレイナの目が複雑だった。
「何?」
イノが聞き取れなかった。
「何でもない」
セレイナが淡く笑った。
「凡土というのは、あなたと私が立っているこの地のこと。帝国も、東方の禹焕国も、全部」
「あなたには確かに才がある」
セレイナが立ち上がり、外套の埃を払った。
「ただし、体が仕上がるまでは教えない」
イノが見上げた。数秒待った。
やはり訊かずにいられなかった。
「それで……なんで言葉なんだ?」
セレイナが少し止まった。
説明したくなさそうだったが、最後に低く言った。
「魔法の源は、造物主にあるから」
「は? 俺、今ノルマの力を使ったのか?!」
セレイナの表情が冷えた。
「ノルマなんていないって言ったでしょう?」
「あ、うん……は?! 俺、今、神の力を使ったのか?!」
セレイナが長く息を吐き、眉間を揉んだ。
顔に「頭が痛い」と書いてあった。
「そう理解して構わない」
「じゃあ言葉と何の関係が?」
「言葉は鍵。本質は、造物主の"原語"を模倣すること」
「じゃあ……精霊語は?」
「すべての言語は同じ起点から生まれた。ただ、あなたたちがその源をとうに忘れただけ」
イノがまだ追おうとしたとき、セレイナはもう立ち上がっていた。
「では、ついてきなさい」
声はいつも通り。だが目は、もう林の奥を向いていた。
同時に、さりげなく指先をひと振りした。
夜咬が音もなく起き上がった。黒い霧が体を包み、地面に沈むように消えた。
地面は元のまま。塵ひとつ動いていない。
セレイナは振り返らず、林に歩み入った。
声だけが、夜の色を帯びて届いた。
「突っ立ってないで」
「え? どこに行くんだ?」
「訓練はまだ終わっていない」
セレイナの姿が、林の影に消えた。
イノは——ついていくしかなかった。




