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第30話 壁際《かべぎわ》I

グランソワ学院 庭園 夕暮れ


小さな花壇かだんの一角が、不自然なほど静かだった。


ユリアンが長椅子ながいすに座り、脚を組んでいた。姿勢は緩く、靴の先に泥がひとつ。


リオンがその足元にひざまずいていた。頭が深く下がっている。


「ヴィセス」


「……はい、殿下」


「お前は」


ユリアンが靴の先をわずかに上げた。あの泥が、リオンの目の前で止まった。


「父親の姓が、礼儀を省いてくれるとでも思ったか?」


リオンは答えなかった。


ユリアンは待っていた。


リオンが膝を一歩前に送り、手を伸ばした。指の腹で、あの泥を一点ずつ拭き取った。


ユリアンがそれを見て、軽く「ん」と鳴らした。


目を上げ、金色の夕光を見た。


「血統は特権ではない。義務だ。正しい相手の前で、正しい姿勢で頭を下げること」


次の瞬間、組んでいた靴の先が、リオンの頬の横にそっと触れた。


「ヴィセス、俺が呼んだの、聞こえたか?」


リオンの唇が動いた。


「……聞こえ、ました、殿下」


「慌ててもいい。怖がってもいい」


靴先の力が、少しずつ増した。


「だが俺をいないもの扱いするな」


ユリアンが横を向き、かたわらの老人に静かに言った。


「前から言ってるだろう、学院の規律は見直すべきだと。兄上は聞かないが」


老人がわずかに身を折った。


「殿下、院規は国王と教会の共同裁定でございます」


「だからこういうことになる」


ユリアンが目をリオンに戻した。


「『クラニウム狩り』か……」


靴先がさらに半寸沈んだ。


「少し名が売れたくらいで、口の利き方を忘れたかと思った」


「滅相もございません」


ユリアンがしばらく見ていた。


「今日で俺に会うのは何度目だ?」


リオンが一瞬止まった。


「二……三度目です、殿下」


「そうか?」


ユリアンが頷いた。


「一度だけ言っておく」


それからユリアンが足を引いた。


「下がれ」


「はい、殿下」


リオンは素早く立ち上がったが、目は上げなかった。背を向け、去っていった。

その背が遠ざかってから、老人が低く言った。


「殿下、あの者はヴィセス伯爵のご子息です」


「知ってる」


ユリアンが気怠けだるく応じた。


「では殿下は、なぜ……?」


ユリアンが顎を手に載せ、空の光を眺めた。


「今年から、悪魔学が正式に課程に入っただろう?」


老人の眉がわずかに動いた。


「はい、殿下」


「ヴィセス家も面白いことをする」


ユリアンがゆっくり言った。


「何もわからない役立たずを、表に押し出すとは」


首を傾げた。


「あの爺さん、気が触れたか?」


老人は答えなかった。ユリアンも待たなかった。


顎から手を外した。


「まあいい。余興として眺めよう」


——————


リオンが一人、回廊かいろうを歩いていた。


頬の横にまだしびれが残っている。袖口がしわになるほど握りしめていた。


背後から、だるそうな声がした。


「リオン若」


リオンが振り返った。目が血走っている。


「終わったのか?」


ダノスが影にもたれていた。


「失敗した」


「何だと?!」


「お前——何と言った?!」


ダノスが耳の穴をほじった。


「失敗した、と言った」


「仕留める寸前で」


顎を上げた。


「標的が消えた」


「やる気がないなら最初から言え!」


リオンの声が震えていた。


「僕を馬鹿にしてるのか? 消えた?」


ダノスがしばらくリオンを見た。


首を振った。


「若、俺が値切りをしてるとでも?」


リオンが歯を噛んだ。


「お前が何者だろうと、逃がしたなんて認めない」


ダノスがひと声笑った。


「あのパン屋の小僧は『逃げた』んじゃない。俺の目の前で消えたんだ。気配ごと、きれいに断たれた」


「痕跡も残さずにな」


ダノスが軽く鼻を鳴らした。


「若、あいつが本当にただのパン屋の小僧なら——背後にもっと厄介なものがいるってことだ」


リオンの顔が鉄のように暗くなった。


最初に浮かんだのは、イレーナの名を出すことだった。


だが言いかけて、止めた。


誰よりわかっている。


ダノスは自分が使えるこまではない。


「……姉上がお前を寄越した」


ダノスが肩をすくめた。


「若、信じるも信じないもご自由に」


言い終わると、すっと体を起こした。


リオンがダノスをにらんだ。目がわっている。


「これで終わりのつもりか」


ダノスが一歩踏み出しかけ、止まった。


「一つだけ忠告しておく」


「この世には、若が手を出せない相手がいる」


それだけ言って、ダノスの影が回廊の奥の闇に溶けた。


リオンはその場に立ち尽くした。


長い間。


胸が激しく上下していたが、音は押し殺していた。


やがて、ゆっくりと頭を下げた。


——————


三階の書庫しょこは、眠くなるほど静かだった。


ロウェンが窓辺にもたれ、膝の上に本を開いていた。逆さまに。


指先がぱらぱらとページの端をめくっている。夕光が高窓から斜めに落ち、肩の上に載っていた。


「真っ昼間から屋根の上で焼肉か? 俺の分はあるのか?」


横から、女の声が落ちてきた。淡い。


「門番の分はない」


ロウェンがようやく首を傾け、フラカが立っているのを見た。


「ロウェン、ちゃんと門番をしないで、ここで何をしてるの?」


「仕事中だ」


ロウェンが本を少し持ち上げ、真面目な顔をした。


「ここの本も管理が必要だからな」


フラカが逆さまのページをちらりと見て、眉をわずかに上げた。


「図書管理員が熱心すぎて、字を逆さまに読んでるの?」


ロウェンが咳払いし、素早く本を正した。


「わからないだろう。これは『別の角度から問題を見る』というやつだ」


「これ以上サボるなら」


フラカが淡々と言った。


「勤務簿に報告する」


「やめてくれ」


ロウェンが即座に両手を上げた。


「これだって『学習』じゃないか」


フラカが低く鼻を鳴らした。


ロウェンが本の背で軽く卓の縁を叩き、「好きにしろ」とばかりに。


フラカの力が少し抜けた。


ロウェンがページの角を指した。


「なあ」


「この『還らぬ王アルドリック』……結局どこに行ったんだ?」


フラカの目が、ロウェンの本を持つ指に落ちた。関節が綺麗で、細長く、力が入っていない。


一瞬頬が赤くなり、すぐに鼻で笑った。


「知るわけないでしょ。行方不明。どこの家でも知ってる話よ」


フラカが顎を上げた。


「王室のやることだもの、十中八九でっち上げよ。死体は宮殿の床下にでも埋まってるんじゃない?」


自分で言って自分でも呆れたのか、短く笑った。


「ははっ」


ロウェンが目を上げた。


「お前、本当に言うな」


フラカが肩をすくめた。


「どうせ本気で答えを聞きたいわけじゃないでしょ」


ロウェンは答えなかった。


目が本の中の挿絵さしえに戻った。


騎士が列を組み、戦馬が蹄を上げ、甲冑の王が最前に立つ。堂々たる姿。


だがロウェンの視線は王冠に留まらなかった。


王の手にある、一つの指輪。


墨の線の中では小さな点にすぎない。だが画師が、極めて細い影でわざわざ枠線を入れていた。


指先が無意識にページの端をこすった。


「……まさかな」


「何?」


フラカが首をかしげた。


ロウェンが本を閉じ、掌の中で軽く叩いてから、立ち上がって書架に戻した。


動きがさっきより明らかに速い。


フラカがじっと見ている。


「あんたと一緒にいたあの人は?」


「だから待ってるんだろ」


ロウェンがさらりと返した。


「わかってて訊いてるだろ。そういうの、好きじゃない」


フラカの耳の付け根が赤くなった。すぐに目をらした。


「訊いただけよ。職務だから」


ロウェンはそのまま外へ歩いた。


フラカが後ろに半歩ついていく。口はまだ止まらない。


「何、あんたの『門』が恋しくなった?」


ロウェンは答えず、建物の外に出て石段の縁に立った。


夕光の中の拱門アーチ、回廊、渡り廊下の影を、一寸ずつ目で追った。


「こんな偶然があるかな……」


ラカが眉をひそめた。


「何、誰かのラブレターでも失くしたの? それとも本の読みすぎで頭がおかしくなった?」


ロウェンが急に振り向いた。


「フラカ、今この帝国に、物を収納できる遺器いきはいくつある?」


「収納?」


フラカが何か馬鹿げたことを聞いたような顔をした。


「そんなものあるわけないでしょ」


「一つもないのか?」


ロウェンが食い下がった。


矮人ドワーフの遺物とか、どこかの大魔導士のとか、一つも?」


「あったらどれだけ楽か……」


フラカが眉をひそめた。


適当にあしらおうとしたが、ロウェンの表情がふざけているように見えなかったので、真面目に考えた。


「少なくとも私は聞いたことがない」


ロウェンは遠くの回廊を見ていた。


階段口から斜めに差した光の中で、イノの指にあった指輪が——一瞬、光った。


フラカがわざとらしく「あっ」と声を上げた。


「終わった、本当に読みすぎで頭がいかれたのね」


「まさか天下統一でも夢見てるの? ははは——」


ロウェンがようやく彼女を見た。


「お前は本当にうるさいな」


ちょうどそのとき、石段の下から急な足音がした。


レオネルが息を切らせて外から戻ってきた。服の裾が乱れている。


顔を上げ、ロウェンを見た。丸い顔の肉がぶるりと震えた。


「レオネル?」


ロウェンは、レオネルがまだ上の階にいると思っていた。


レオネルが何か言おうとしたが、次の瞬間、視線がロウェンの横のフラカに触れた。


残っていた血の気が「すっ」と引いた。


挨拶も声にならず、手を振って逃げるように建物の中に消えた。


ロウェンがその場で止まった。


「……あいつ、そんなにお前が怖いのか?」


フラカが冷たく笑った。


「あの脂身を油に煮てやらなかっただけ、感謝してほしいくらいよ」

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