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カラパン 喋るパンダは着ぐるみではない  作者: 在江
第五章 五倫十起の巻
34/50

ヒナ紀元前

 「大分、顔色が良くなってきた」


 ヒナと同居して数ヶ月経った。

 毎日風呂に入って石鹸で全身を洗い、ベッドで眠り、毎食とはいかないものの、新鮮な野菜を人間向きに調理して食べ、タンパク質も程よく摂取し続けた結果である。


 俺自身、外見の変化は意識できないが、旅をしていた頃に比べ、体調が良くなったと感じる。


 「編み物の腕前も上がったね」


 単純に編むだけならば、話をしながら手を止めずにいられるくらいにはなった。


 「そろそろ、この国の歴史を話しておこう」


 ヒナは、書棚から本を二冊出してきた。いずれも、この世界で製本されたものだ。

 紙の質、何よりも手書きであるところから、すぐにわかる。活字を作ろうと思ったこともあるが、印刷するほどの需要がない、と感じて止めたそうだ。欲しければ、筆写で間に合う。


 「覚書と、それを後からまとめた一応の歴史書だ。歴史書の方は、王宮に一冊と、ホァンホァンも持っている」


 「写したんですか?」


 「そう。ホァンホァンが王宮の分も」


 「それはそれは」


 大変だったろう、とノートのコピーを取るのも面倒臭かった俺は思う。


 「俺も書き写した方がいいですか?」


 「いや。お前は私の話を聞いてくれ。全部聞き終えたら、この本を貸そう。その上で書き写すかどうか好きに決めなさい」


 俺は編み物の手を止めた。すると、ヒナが手を振った。


 「編みながらでいい。それも練習だ」


 「そうですか」


 編み物を再開する。ヒナは、二冊を机の上に並べて、両方開いた。


 「私はコンガイシだった」


 唐突に出てきた単語に、国の歴史を聞くつもりでいた俺は不意を食らった。


 「そこからですか」


 礼儀を忘れ、思わず突っ込む。


 「ああ。必要な話だ」


 彼女は本を見ずに話し始めた。



 私の名前は、佐上緋奈、さがみひな、という。婚外子だった。認知もされていない。

 物心ついた頃には、母は愛人ですらなかった。だから、父の素性は全く知らない。


 母は夜の仕事をしていて、しかも、なかなかやり手らしかった。

 男の気配を私に感じさせず、それでいて不自由のない生活をさせてくれた。

 と言っても、奢侈(しゃし)に流れるのではなく、大人になってから振り返っても、堅実な生活をしていたと思う。


 これには、通いの女性も大きく関わっていた。

 後で知ったところによると、母と同じ業界で働き、やむを得ない事情で引退した年上の友人だったらしい。


 彼女は、私にとって、生活サイクルがすれ違い気味の母に代わる存在であった。

 私が大学に合格するまでの間に、一人で一通りの家事をこなせるよう、少しずつ教えてくれた。


 彼女は私の面倒を見るだけでなく、家事全般を担ってくれていたのだが、それらは勿論、適正な報酬と引き換えの仕事だった。その仕事は私が大学生になったのを区切りとして終了した。


 母は相変わらず夜の仕事を続けていた。ただ歳を取った分、仕事の中身が変わったのか減ったのか、家にいる時間が増えたようだった。


 というのも、今度は私の方が家にいる時間が少なくなったせいで、母と生活サイクルが合わない状態は変わらなかったのだ。


 私は学業に勤しんでいた。手に職をつけるべし、とは母代わりの女性からも、たまにしか会わない母からも、幼い頃から説かれており、身に染み込んでいた。

 始めから博士号を取るつもりで大学生活を送り、当然大学院へ進んだ。


 ところで、私の専攻は文系理系で分けると理系に当たる。

 理系の研究室にはよくあることだが、指導を仰ぐ教官に卒論のテーマから就職先まで世話になる。


 例えば文系だと「こういうことを卒論のテーマとして考えています」「それなら、こういうアプローチの方が主題を明確にできるよ」というやりとりが、理系では「君はこれこれのこういう部分について研究しなさい」となる。


 その代わり、OB探しから始める必要もなく、顔の広い教官なら、顔合わせで就職が決まることもある。

 大体は、所属する研究室からの推薦、という形で行き先が決まる。


 ああ。これは、私のいた頃の話だ。君の時代には、変わっているかもしれないね。


 話を戻そう。その頃は、指導教官に見捨てられたら、就職どころか学部の卒業さえ危うくなった。

 言いなりになれ、とまでは言い切れない。ただ、逆らわれて面白がる教官など、滅多にいない。


 厄介なことに、機嫌を損ねないよう注意を払って過ごしても、教官の嗜好や都合で目論見(もくろみ)が外れることも頻繁にあった。


 理系には女性が少ない。大学の学部、大学院、専門を活かせる就職先、と研究に励んで先へ進むほど、女性の姿が見えなくなった。

 そして、共に研究を進める仲間も、就職を斡旋(あっせん)する教官も、斡旋される先の幹部も、軒並み男性だった。


 男性の集団に女性が紛れ込み、男性と同じレベルで働き始めると、何が起こるか。

 女性を排除することで、男性同士の連帯感を高めるようになる。


 排除は、文字通りの仲間外れとは限らない。揶揄(やゆ)の対象にして、その他の成員よりも下の地位に(おとし)めることも含まれる。

 何か目立つこと、あるいは単に気に入らないことがあれば、人の存在ごと否定したり、性を使って利を得たと吹聴したりした。


 彼らは、それらを全て冗談と認識していた。本気で。

 失言や失態、犯罪に当たる行為でさえも、相手が同じ集団に属する異性という理由で、冗談にできた。


 そして冗談を理解しない相手は見下して良い、と判断した。

 見下して良い相手だから、何をしても許される‥‥と、ある種悪循環が成り立っていた。


 科学者の端くれなのに、こうした日常的な差別については、論理がまるで通じない。ただ勉強するだけのために、女性であるというだけで、余計な神経を使わなければならなかった。


 こうした環境で、私は理不尽に耐えて、どうにか博士課程まで進むことができた。

 当時は悪の巣窟(そうくつ)のように思っていたが、振り返ってみれば、私の指導教官は、まだマシな方だった。


 噂では、日常的に物理的なセクハラ、学外ですれば犯罪になるような行為をされたり、単位や卒論を認めてもらうために体を差し出させたりする教官もいたからだ。


 私の指導教官は、男尊女卑な考えの持ち主ではあったが、教え子の研究成果を理性的に判断できる人間だった。

 実に、幸運だった。そのまま進めば、私は博士号を取得し、仮に就職先を斡旋してもらえなかったとしても、自力で探すことができただろう。


 (つまず)きのきっかけは、母の急死だった。


 死後に知ったところでは、大分前から闘病していた。

 私にとっては突然でも、本人はいつ死んでもいいように、色々準備した上のことだった。


 何かあった時の連絡先、という番号にかけると、ビジネスパートナーだという女性が部下を連れて現れて、葬式の手配やら相続手続きの手伝いやら、何もかもやってくれた。

 母の仕事はその女性が引き継いで、利益配分として、私には現金が振り込まれた。


 仕事のことはよくわからないが、彼女は公平にしてくれたと思う。

 母の仕事を引き継ぐかどうか、というところから私の意向を聞いてくれたし、引き継ぎを放棄した分の利益として何故この金額なのかという説明もしてくれた。


 母は自分に死亡保険金をかけていたのだが、その受け取り手続きや、相続税の手続きまで助けてくれた。

 なお、子ども時代に通っていた母の友人は、既に鬼籍にあることも、彼女から教えられた。


 母の死で呆然としていた私の頭には、ほとんど入って来なかったが、こうした事どもを通じ彼女の真摯な姿勢は伝わった。

 彼女がいなかったら、私はより早く、別な原因で壊れていただろう。


 ところで、私の二年後輩に、女性が一人入った。学部にはもう少し増えるが、大学院まで進学する女性となると、大体数年に一人の割合だった。


 私が院へ進学した時には、博士課程を終えたポスドクに一人いて、その後企業の研究所へ就職したので女性は私一人、という状態がずっと続いていた。


 久々となる新入女性の存在は新鮮だった。私だけでなく、周囲の男子学生にとっても同様だ。

 その年頃の二歳は格段の差だった。しかも、元々愛想に乏しく男性陣の中で目立たないよう振る舞っていた私と対照的に、後輩は明るく気が利き、つまり、率先して雑用をこなすようなタイプだった。


 私が嫌々雑用をしていた訳ではないのだが、新人の後輩がすべき仕事以上に、女性だからというだけで割り振られる、彼らが無意識のうちに男にかしずかせる細々とした用向きを断ってきたのを、彼女の代でまた復活させてしまったのだ。


 彼女が好き好んでする分には構わない。男社会の中で生き抜くため、女がよく使う方法だ。

 ただ、私を巻き込まないで欲しかった。彼女の対応に慣れた男子学生たちは、手伝わない私を批判した。


 後輩いじめなどと言われ、仕方なく手伝うと、いつの間にか私ばかりが担当する羽目に陥った。

 その変化を、彼らは無意識のうちに自然な流れとして受け入れた。私には、それをまた意識化するところからやり直す気力がなかった。


 私の場合、学費も生活費も心配する必要がなかった。

 研究に専念できる恵まれた境遇の筈の私でも、当人がすべき雑用のあれこれを押し付けられ、思うように物事が進まない苛立ちを感じるようになっていた。


 母が死んだのは、そういう状況にあった頃だった。

 病院へ付き添う段階から、もう助かりそうにない、と分かった。母の関係者は、仕事仲間への一報で済んだ。


 私の方は全て大学関係者で、教授以下教官に事情を説明することから、先輩や同輩にゼミの発表する順番を代わってもらったり、頼まれていた講義の下準備の代行を依頼したり、事務局へ色々問い合わせをしたり、とあちこちへ連絡を取った。


 自分を忙しく保つことで、母を失った後の不安や恐れ、母を亡くした悲しみ、衝撃から身を守ろうとしたのだと思う。

 二年下の女性の後輩にも、当分大学へ顔を出せない旨、連絡を入れた。

 近頃では全て私がすることになっていた細々とした仕事。それを、始めた彼女に返すつもりだった。


 「わかりました先輩」


 周りに誰もいない場所なのか、電話の向こうがやけに静かだったのを覚えている。

 彼女の受け答えは、いつも聞くより低めの声だった。


 大学を休んでいたのは、忌引を含む二週間程度だった。不在のお詫びと復帰の報告に書類の提出手続きで事務局なども含めて一通り巡り、合間に授業にも出席した。

 そうして、私の研究論文の続きを書くべく、共用パソコンに保管してあるデータファイルを開いた。

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