第2話 測らせてくれ
彼は志賀さんといった。名前を聞き出せたのは、縁側を挟んで三十分ほど押し問答を続けたあとだった。
「志賀です」
「……佐倉、澪です」
「澪さん」
志賀さんは短く復唱すると、それきり口を噤んで、手元の黒い機械の画面に視線を落とした。
青く光る液晶には、細かなデジタル数字と、左右にピコピコと揺れる針のような目盛りが表示されている。ギターのチューニングに使うクリップチューナーとは比べものにならない、重厚で専門的な機材だった。
「……一音ずつ、測るんですか」
私が畳の上で膝を抱えながら訊ねると、彼は顔も上げずに頷いた。
「八十八鍵、全部」
「全部?」
「一晩じゃ終わりません。三日、もらえますか」
三日。
私は薄暗い居間の窓から、外の庭を見つめた。
雑草の伸びた庭の向こう、赤く染まった夕空の下に、街並みが広がっている。
十二月二十六日の解体工事まで、あと百六日。この家がショベルカーで粉々に砕かれるまでの日数が、胸の奥で砂時計のようにサラサラと音を立てていた。
「いいですけど……」
「条件が二つあります」
志賀さんは機械から視線を外し、まっすぐに私の目を見た。
その瞳は異様に澄んでいて、底に硬い光が沈んでいた。私は無意識に肩をすくめて身構える。
怪しい不審者だとは思っていなかった。思っていなかったけれど、この半年、私は「親切な顔をした人たち」に、何度も大切なものを削り取られてきた。合唱コンクールの葵も、部室の部長も、みんなやさしい声で、私を枠の外へ追いやった。条件、という言葉の冷たさに、背筋が粟立つ。
「ひとつ。僕が測っているあいだ、絶対に歌わないでください」
「……え」
拍子抜けして、間の抜けた声が出た。
「声の周波数が混ざると、弦の正確な振動数が拾えないんで。機械が狂う」
「あ……そういうこと」
「もうひとつ。このピアノのこと、学校の誰にも言わないでください」
「どうしてですか」
志賀さんは、青い画面の電源ボタンを長押しして切った。暗くなった部屋に、カチリと硬質なプラスチックの音が響く。
「まだ、何が起きているのか分からないからです。世の中の人間は、分からないものを、先に『面白い変なもの』として消費する。面白がらせたら、たぶん壊れます」
面白がらせる。
その一言が、私の胸の柔らかいところを強く突いた。
放課後の部室で浴びた、あの屈託のない笑い声が蘇る。――浮いてる、浮いてる。
あの笑いは、私の曲を嘲笑っていたわけじゃない。ただ、規格外のオモチャを見つけて面白がっていただけだ。悪意がないからこそ、誰にも止められず、私の歌は宙吊りにされた。
「……わかりました。言いません」
私が小さく答えると、志賀さんはほっとしたように、わずかに息を吐いた。
縁側から吹き込んできた秋の夜風が、二人のあいだをすり抜けていく。
「あの、志賀さんは……どうしてこの家の前を通ってたんですか」
「予備校が、この坂の下なんです」
「そうなんですか」
「毎晩、十時過ぎに通ってました」
毎晩。
私は祖母の家のカーテンを見上げた。祖母が施設に入ってから、この部屋に明かりがついた夜なんて一度もなかったはずだ。
「明かり、ついてませんでしたよね?」
「ええ」
志賀さんは少し視線を泳がせ、それから、言葉を選ぶようにぽつりと言った。
「でも、外灯の光で……ピアノの形の影が、遮光カーテンに映ってました。それだけ見て、帰ってました」
その言い方があまりにも静かで、まるで祈りのように聞こえて、私はそれ以上何も訊けなくなった。
◆
腹の虫が鳴った私を見かねたのか、志賀さんは「コンビニに行きましょう」と立ち上がった。
坂の下にあるオレンジ色の看板のコンビニで、彼は中華まんのケースを指差し、肉まんを二つ買った。茶色い紙袋から取り出した熱々のひとつを、無言で私に押しつけてくる。
「測るのは俺の都合なんで」
「……私、手伝えないんですか」
「手伝ってもらいます。記録を書いてください。僕が数値を読み上げるので、ノートに書き留める役です」
「書くだけ?」
「書くのが、いちばん大変です。集中力が要る」
志賀さんは肉まんを両手で二つに割った。白い湯気が夜の冷気の中にフワッと立ち上り、甘い肉の匂いが鼻をくすぐる。
彼の手は、指がすらりと長かった。爪は深爪一歩手前まで短く切り揃えられていて、親指と人差し指の付け根に、固そうなペンだこがある。
無駄のない、清潔な手だった。
「志賀さんって、ピアノ弾くんですか」
何気なく尋ねた瞬間、志賀さんの手がピタリと止まった。
肉まんを口元に運ぼうとした姿勢のまま、数秒間、彫像のように動かない。
やがて、彼は視線を落としたまま、肉まんを小さく一口かじり、喉の奥へ押し込むようにして言った。
「……弾けません」
拒絶の壁が、二人のあいだにストンと落ちてきたような声だった。
「あ、ごめんなさい……」
「いえ」
それきり、会話は途切れた。
坂道を登り直すあいだ、聞こえるのは志賀さんが押す自転車のチェーンがチリチリと立てる金属音と、私たちがアスファルトを踏む靴音だけだった。
チェーンの音が鳴るたびに、私は自分の足音を潜めるようにして、彼の少し後ろを歩いた。
祖母の家の門をくぐり、玄関の土間で靴を脱ぐと、志賀さんはバッグから一冊のノートを取り出した。
大学生が講義で使うような、黒い表紙の方眼罫のノート。
表紙をめくると、一ページ目の最上段に、几帳面で角張った青いボールペンの文字がすでに走っていた。
『九月十一日 A4=430.4Hz』
「……もう、測ってたんですか?」
「門の外で。君が歌っていた声の、最初のラを拾いました」
「私の、歌の……」
私は思わず、制服の襟元から自分の喉仏に触れた。
ラ。ピアノの基準となる音。世界中のオーケストラやバンドが、演奏の前に必ず合わせる絶対的な基準――四百四十ヘルツ。
「十ヘルツ、低いんです」
「十ヘルツって……どのくらい違うんですか」
「セントという単位に換算すると、およそマイナス三十八セント。約四十セントです」
「セント?」
「半音を百等分した単位です。ドからド♯までが、百セント」
志賀さんはノートを指先でトントンと叩いた。
「四十セント低いっていうのは、鍵盤で言えば、白鍵のラと、半音下の黒鍵のラ♭(ソ♯)の、ちょうど真ん中近くです。ピアノの鍵盤と鍵盤のあいだの『隙間』に落ちている音だ」
隙間に落ちている音。
その言葉が、すとんと胸の底に落ちてきた。
ああ、そうだったんだ。私の声は、最初から鍵盤の上に居場所がなかったのだ。
白鍵にも黒鍵にも属さない、名もなき隙間の場所。そこに一人で立って歌っていたから、学校の誰とも重ならなかった。
「志賀さんは……どうして、そんな隙間の音を測ろうと思ったんですか」
私が訊ねると、志賀さんは躊躇いもなく即答した。
「悔しかったからです」
迷いのない、鋭い声だった。
「あの坂の下まで、君の歌が聞こえてきました。あの曲は……間違いなく、合ってました。あのピアノの音と、君の声は、完璧にひとつの音楽として鳴っていた。それなのに、世界中にある平均律の楽器と合わないからってだけで、存在しないこと、間違っていることにされているのが……無性に悔しかったんです」
志賀さんはノートをパタンと閉じた。
その閉じ方が少しだけ乱暴で、彼の胸の中にあるやり場のない怒りの熱量が伝わってくるようだった。
「三日ください。八十八鍵、すべての弦の周波数を測りきります」
「……はい」
「それで――」
志賀さんは何かを言いかけて、キュッと唇を噛んだ。
「なんでもない」
「言ってください」
「まだ早いです」
「早くないです」
「早いんです。全部の鍵盤の数字を出して、このピアノがどういう歪み方をしているのか証明してから言います」
志賀さんはそう言って、二度と口を開かなかった。
◆
その夜、自分の部屋のベッドの上で、私はスマートフォンを取り出し、志賀さんが口にした単語を検索していた。
『十二平均律』
画面に表示された解説文を、指でなぞりながら読む。
一オクターブを数学的に十二等分した音階。
どんな調に移調しても破綻なく演奏できるように作られた、人類の歴史における大発明。
だが、そこにはこうも書かれていた。
――十二等分するために、本来の自然な音の響き(純正律)の美しいハーモニーを、ほんの少しずつ歪ませて、十二個の音すべてに「嘘」を均等に配分している、と。
配分された嘘。
私は天井を見上げながら、その言葉を何度も反芻した。
世界中のピアノは、みんなで綺麗に合奏するために、少しずつ嘘をついている。
私の声は、その計算された嘘の外側にあっただけなのかもしれない。
間違っていたのではなく、最初から別のルールで鳴っていただけだとしたら。
そう信じたかった。
けれど、それを証明するためには――あの几帳面な青年の手の中にある、冷たい数字が必要だった。
> 9月12日(土)曇 湿度64% A4=430.4Hz(−38¢) ※志賀が88鍵の測定を始めた。1鍵目で、手が止まった




