第1話 直せば?
世界で一台だけ、私の歌が合うピアノがある。それは年内に壊される。
九月十一日、金曜日。
放課後の軽音部室は、閉め切った窓のせいで生ぬるい熱気が澱んでいた。外で唸りを上げているエアコンの室外機が、時折カタカタと建具を震わせる。汗を吸ったギターストラップが肩に食い込み、湿ったTシャツの背中がじっとりと冷たかった。
私はレスポールの重みに耐えながら、自分の作った曲のサビを歌おうとして――三度、途中で喉を詰まらせた。
「んー、惜しい」
パイプ椅子に深く腰掛けた部長が、スマートフォンから顔を上げて言った。
惜しくない。惜しいはずがないことを、歌っている私自身が一番知っている。
私の声は、キーボードが鳴らすコードと重なった瞬間、まるで反発し合う磁石のように濁るのだ。一秒間に何度も繰り返される、不快なうなり。耳の奥をざらざらと引っ掻くようなその摩擦に耐えきれず、いつも勝手に声帯が縮こまってしまう。
「澪ちゃん、その曲さ。キーを下げてみたら? 半音か一音くらい」
「下げても、だめなんです」
乾いた唇を舐めて答える。キーの問題ではない。半音下げようが二音下げようが、この鍵盤の音と重ねる限り、同じ濁りが起きる。
「じゃあ、直せば?」
部長は悪気のない調子で笑い、アイスの棒をゴミ箱へ放り投げた。
直せば。
何を、とは誰も言わなかった。曲を直すのか、歌い方を直すのか、それとも――私自身の喉を、感覚を、直すのか。
その三つが同じ歪な形をして机の上に並べられている気がして、私はぎゅっと指先でピックを握りつぶした。爪の先が白くなる。
窓際のキーボード担当の二年生が、譜面台の殴り書きのコード譜を見ながら、無造作に白鍵を叩いた。
ポーン、と澄んだ、一点の曇りもないサイン波に近い電子ピアノの音が部室に響く。
世界中どこへ行っても狂うことのない、完璧な四百四十ヘルツの平均律。
だが、その清潔な音の上に自分の声を乗せようとした瞬間、私の声はつるりと滑り落ちた。濡れた手で掴もうとした石鹸のように、どこにも足場が見つからない。
「……なんで合わないんだろ」
「合ってないっていうかさ。浮いてるんだよね」
「浮いてる、浮いてる。なんかすっごい宙ぶらりん」
アンプの横からクスクスと笑い声が漏れた。
悪意はない。ただ、規格から外れた珍しいものを見たときの、無邪気で純粋な面白がり方だった。悪意がないからこそ、拒絶の言葉をぶつけられるよりも深く、その笑い声は鼓膜の裏側にこびりついて離れない。
そのとき――
部室の奥から、乾いた低い音が床を揺らした。
ドン。
バスドラムが空気を押し出す圧力が、ふくらはぎを叩いた。
驚いて振り返ると、ドラムセットの影に一年生が座っていた。蓮くんだった。
小柄な体躯をドラムスツールの上に丸め、いつも部室の隅で黙々と黒いスティックケースを磨いている少年。入部してから二週間、私はまだ一度も、彼が声を出して喋っているところを聞いたことがなかった。
蓮くんは、部員たちの視線が集まっても微動だにしなかった。伏せた前髪の奥から、まっすぐに私を見つめている。
彼の手首がしなやかに動いた。
タン、タン。
スネアのヘッドが弾かれ、スナッピーの鋭い金属音が空気を切り裂く。続いて、チッチッチッ、と規則正しい八分音符でハイハットが刻まれ始めた。
私の曲の、サビのテンポ。
誰とも合わせられず、宙を彷徨っていた私のメロディに、音程を持たない楽器だけが、真っ向から骨組みを与えていく。
そこにはドもレもミもない。ただ、絶対的な時間の間隔と、木と鉄と皮がぶつかり合う衝撃だけがあった。
私は息を吸い込んだ。
ドラムのビートに背中を押されるようにして、もう一度、声を前に押し出す。
今度は――すべらなかった。
キーボードの音を耳の端から追い出し、蓮くんのハイハットの先端だけを目掛けて歌声を落とすと、私の声は初めて床の上に足をついた。
「お、いけんじゃん」
誰かが呟いた。
蓮くんは何も言わず、歌の終わりと同時にピタッとスティックの動きを止めた。そして視線を落とすと、何事もなかったかのように、ポケットからタオルを出してシンバルの縁を拭き始めた。
汗の染みた彼の細い背中を見つめながら、私は自分の手のひらが冷や汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。
歌うというのは、たぶん、こういうことだ。誰かが私の呼吸を拾い上げてくれて、はじめてこの世界に輪郭を持つ。
けれど――それも、この部室の中だけでは続かない。
再びキーボードの電子音が重なった瞬間、私の歌声はまた、薄い氷の上を踏み抜くように沈んでいった。
◆
小学六年生の秋、市民会館の大ホールで合唱コンクールがあった。
私はアルトパートの二列目、ひな壇の端に立っていた。
客席から向けられる何百もの視線。舞台照明の強い光に照らされて、前の列に立つ女の子の髪の毛が、透き通った金色に光っていたことだけを鮮明に覚えている。
ピアノの伴奏が静まり返り、音楽室の先生が両腕を振り下ろす。
全員の息を吸う音がひとつになり、波のような歌声がホールを満たした。
私は――口だけを開けていた。
声を、出せなかった。
出そうとすると、喉の奥に針を刺されたような違和感が走るのだ。私の出したい音と、合唱の全員が綺麗に揃えて響かせている音のあいだに、どうしても埋まらない「隙間」があった。その隙間に自分の声を差し込むと、全員の美しいハーモニーに泥を投げ込んでしまうような恐怖があった。
演奏が終わり、幕が下りた舞台裏で、前の列の女の子が私の制服の袖をそっと引いた。
葵だった。クラスで一番歌が上手で、絶対音感を持っていると噂されていた子。
「澪、口パクでいいよ」
葵は、困ったように眉を下げて、とてもやさしい声で囁いた。
純粋な親切心だった。私の下手くそな歌がみんなの足を引っ張らないように、そして何より、私が恥をかかずに済むようにという、完璧な配慮。
私は小さく頷いた。
頷いた瞬間に、私の胸の中で、何かが音を立てて冷え固まった。
歌わなくていい、という免罪符は、お前の声はこの場所には要らない、という宣告と同じ重さで、私の肺の底に沈んだ。
それ以来、私は「正しい音」が恐ろしい。
誰かが決めた規律に従って、一分の隙もなく整列させられた平均律の響き。
その清潔な世界に触れるたび、私の声は異物になって、周囲を汚してしまう。
だから私は、正確なものの上では、決して歌わないと決めていた。
◆
祖母の家は、駅から急な坂を十五分ほど登った、古い住宅街の突き当たりにある。
母の実家だ。祖母は今年の四月から山手にある介護施設に入居しており、家は誰も住まない空き家になっていた。
そして、十二月二十六日には、土地ごと解体業者に引き渡されることが決まっている。
母のキーホルダーからくすねた真鍮の鍵で、私は放課後、毎日のように勝手に上がり込んでいた。
母は「どうせ更地にするんだから好きにしていいけど、ゴミの片付けくらいは手伝いなさいよ」と笑っていた。その軽やかな声が、もうこの家を記憶の彼方へ葬り去った人間の響きで、少しだけ胸が痛かった。
雨戸を閉め切った薄暗い居間の窓際に、そのピアノはある。
一九七八年に新品で購入したのだと、祖母が生前――まだ記憶がはっきりしていた頃、誇らしげに語っていた濃茶色のアップライトピアノ。
四十年以上、木造の日本家屋の湿気と乾燥に晒され続け、鍵盤の蓋はわずかに歪み、外装のラッカーには細かなひび割れが走っている。
調律師の調律カードは、六年前の日付で途切れていた。
私は重い蓋を押し上げ、丸椅子に腰を下ろした。
鍵盤の隙間から立ち上る、古びた羊毛フェルトと乾いた木、それにかすかな埃の匂い。
午後の斜光が埃の粒子を照らし、金色の帯を作っている。
指先を伸ばし、中央の『ラ(A4)』の鍵盤を沈めた。
コト、と木とフェルトが噛み合う鈍い衝撃。
響いた音は――低かった。
部室のキーボードが鳴らす冷たいラよりも、明らかに沈んでいる。だが、弦が震え、響板を通して居間の畳を揺らしたその音は、丸みを帯びて温かかった。
私はその音に吸い寄せられるようにして、息を吸い、自分の曲を口ずさんだ。
部室であれほど宙に浮いていた私の歌声が、ここでは、するりと鍵盤の響きの中へ滑り込んでいく。
重なる、というよりも、最初からそこに空いていた窪みに、ぴったりと私の声の形が嵌まり込むような感覚。
鳥肌が立った。
変な音だ。音楽の教科書に載っているどんな和音とも違う。けれど、私の肋骨の内側が、安堵のため息を漏らすように緩んでいくのが分かった。
私の声は、誰の音も汚していない。
この狂ったピアノが、私の声を下からそっと受け止め、床へと逃がしてくれている。足の裏が、畳の編み目にしっかりと根を張る感覚があった。
二番のメロディから、サビへ。最後の一小節。
私は目を閉じて、喉の奥の力を完全に抜いて歌い切った。
遠くで、通り過ぎる自転車の錆びたブレーキがキィと鳴った。屋根瓦の上から、鳩が一羽羽ばたいていく気配がした。
歌い終わり、深く息を吐き出して目を開けたとき――
窓の外に、人影があった。
息が止まった。
門扉の脇に、見知らぬ男の人が立っていた。
背が高く、肩にパンパンに膨らんだ予備校のナイロンバッグを掛けている。自転車のハンドルを握ったまま、動かない。
夕暮れ時、この坂道を登っていく姿を何度か見かけたことがあった。いつも耳に白いイヤホンをねじ込み、アスファルトだけを見つめて足早に歩いていく人だ。
その人が、レースのカーテン越しに、私の顔をまっすぐに見つめていた。
指先が凍りつき、慌てて鍵盤から手を引っ込める。
聞かれた。
私の歌を。外の人間に。あの、学校の誰とも合わなかった、狂った音を。
男の人は自転車のスタンドを立てると、迷うように一度視線を宙に泳がせ、それから意を決したように門の引き戸に手をかけた。
ガラガラ、と錆びた戸車が悲鳴を上げる。
砂利を踏みしめる乾いた足音が近づき、開け放たれていた縁側の窓のすぐ下で止まった。
「……今の」
彼の声は、低く掠れていた。喉の奥に小石が詰まっているような、硬い声。
「今の、どうやって歌ってる?」
私は喉を強張らせたまま、返事ができなかった。
何かを答えてしまえば、この部屋に漂っている奇跡のような響きが、一瞬で壊れて消えてしまう気がした。
男の人は私の沈黙を気にする風でもなく、バッグのファスナーを乱暴に開けると、中から文庫本ほどの大きさの黒い機械を取り出した。
スイッチを入れると、小さな液晶画面が青くバックライトを灯す。
「壊してやろうとか、笑おうとか、そういうんじゃないんです。ただ……」
彼はごくりと喉仏を上下させた。その瞳は、獲物を狙う鳥のように異常な真剣さで光っていた。
「測らせてほしい。そのピアノと、君の声を」
> 9月11日(金)晴 湿度58% A4=430.4Hz(−38¢) E4:−51¢ ※澪は今日、外では歌わなかった




