第3話 背を向けたまま
「じゃあ、そっちを向いててください」
志賀さんは、ピアノに背を向けた位置に置かれた丸椅子に腰を下ろした。
膝の上に黒い方眼ノートを開き、小さな三脚で立てた青いチューナーを床に置き、片耳だけに白い有線イヤホンをねじ込んでいる。
「そっちって、どっちですか」
「僕に完全に背中を向けて、ピアノの鍵盤に向かって座ってください」
「それだと、志賀さんは私の顔を見ないですよね」
「見ません」
「私の手元も?」
「見ません。音だけを聞きます」
私は言われたとおり、アップライトピアノの前に座り直した。
背後から、衣擦れの音と、志賀さんが息を吸う微かな気配が伝わってくる。距離にして二メートル半ほど。決して広くない畳敷きの居間だ。誰かが同じ部屋にいるというのに――視線がこちらに向けられていないというだけで、喉の奥を締め付けていた硬い氷のような緊張が、すうっと解けていくのが分かった。
他人の視線は、いつだって「普通」を測る定規だ。
部室の部員たちの目も、合唱コンクールの葵の目も、私の口元がどれだけ歪んでいるかを監視していた。けれど背中を向けているこの人には、私の表情も、怯えた指先も見えない。
「……昨日、『歌わないでください』って言ったくせに」
背中越しに呟くと、カチリとシャープペンの芯をノックする音が返ってきた。
「昨日は全体のベースラインを測るのが先でした。今日は、歌ってください」
「どうしてですか」
「昨日、一鍵だけ測って分かったことがあるんです。それを確かめるためには、澪さんの生の声が要る」
私は鍵盤の上に両手を置いた。ひやりとした象牙色のプラスチックが、指先の体温を奪っていく。
九月半ばの午後。昼間の残暑が嘘のように、この部屋の空気だけがひんやりと冷たく重い。雨戸と分厚い遮光カーテンを閉め切っているせいだった。
祖母はこの部屋の窓を開けるのをひどく嫌がっていた。『風を入れると湿気でピアノが泣くからね』と、いつも笑いながらレースのカーテンを整えていた祖母の横顔が脳裏をかすめる。
「歌ってください。僕は絶対に振り向きませんから」
「……変な人」
「自分でも変だと思います」
思わず口元が緩み、小さく笑いがこぼれた。
声を出して笑ったのは、部室であの笑い声を浴びてから、初めてだったかもしれない。
私は鍵盤の中央にあるラを、親指でひとつ沈めた。
コト、とフェルトが弦を叩く。
沈んだ音。世界が定めた音階よりも、少しだけ重心の低いその響きを呼び水にして、私は息を吸い込んだ。
自分の作った曲を歌う。
四拍子の、少し気だるげで、けれどどこか祈るようなメロディ。
背後の志賀さんは、物音ひとつ立てなかった。私が一小節を歌い終えるたびに、サッ、サッ、と紙を擦るペンの音だけが規則正しく落ちる。
その乾いた摩擦音が、不思議なほど耳に心地よかった。学校の誰も耳を傾けてくれなかった私の声を、誰かが一音も逃さず紙の上に掬い取ってくれている――その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……もう一回、頭から」
歌い終えると、志賀さんの落ち着いた声が背中に届いた。
「はい」
「今度は、二小節目に入るところで、ほんの少しだけ息の量を増やして、声を細くしてみてください」
「どうしてですか」
「いいから」
ただ「いいから」と指示されることが、怖くない。
部室で「キーを下げたら?」「直せば?」と投げ捨てられた言葉とは、重みも質もまるで違っていた。志賀さんは私を既存の型に無理やり押し込めようとはしていない。私の声のありのままの輪郭を、紙の上に写し取ろうとしているのだ。
四回目のサビを歌い終えたところで、背後でペンを置くパサッという音がした。
「……分かりました」
「何がですか」
振り返ると、志賀さんは約束どおり、きちんと背中を向けたままノートを見つめていた。どこまでも律儀で、少し頑固な人だった。
「このピアノ、狂い方が二種類あります」
「二種類?」
「ひとつは、全体のピッチの低下。八十八鍵すべての弦が、経年変化と湿気で均等に約四十セント下がっています。世界標準の四百四十ヘルツに対して、四百三十ヘルツ前後まで全体がまるごと沈んでいる」
志賀さんはノートのページを指先で弾いた。
「もうひとつは、鍵盤ごとの狂いのばらつきです。四十セントしか下がっていない鍵もあれば、それ以上に異常に狂っている鍵がある」
「ふつうは、そんなにばらばらにならないんですか」
「均一にはなりません。よく叩く弦ほど金属疲労で狂いやすくはなりますが……それにしても、このピアノの狂い方は偏りすぎている」
彼はノートをめくり、青いボールペンの筆跡を追った。
「誰かが過去に、特定の数音だけを、何千回、何万回と執拗に弾き続けた痕跡です。その鍵だけ、弦が伸びきって悲鳴を上げている」
祖母の手。
私の脳裏に、祖母の短く切り揃えられた爪と、節くれだった太い指が浮かんだ。夕暮れ時、台所で煮物をしながら、あるいは私を膝に乗せながら、祖母はいつも何かの鼻歌を歌っていた。
「ばらばらって……一番狂っている鍵で、どのくらい狂ってるんですか」
「マイナス六十セント。半音の六割以上、下に落ちています」
「……それって、もう別の音じゃないですか」
半音の半分以上ずれていたら、それはもはや隣の音に近い。音楽としては完全にアウトだ。
「ええ、十二平均律の世界では完全に『間違った音』です。普通のピアニストなら顔を顰めて鍵盤から手を引っ込めるレベルの狂気だ。……でも」
志賀さんの声に、かすかな熱が混ざった。
「歌えます。君は現に、その狂った音階の上を、完璧なピッチで歩いている」
「私が……?」
「君の声は、狂っているんじゃない。このピアノの、ばらばらに歪んだ音階の溝を、狂いなく正確になぞっているだけです。君の曲は、このピアノそのものの形をしている」
私は自分の喉元に指を触れた。
皮膚のすぐ下で、トク、トクと脈打つ血管。
私の声は壊れていたんじゃない。ただ、この部屋にある濃茶色の木と鉄の塊の形を、そのまま記憶していただけだった。
「志賀さん」
「はい」
「もう、こっち向いていいですよ」
志賀さんは一瞬躊躇う気配を見せ、それからゆっくりと椅子を回した。
目が合った。
夕闇が差し込む薄暗い部屋の中で、彼の黒い瞳がまっすぐに私を捉えていた。そらそうとしたけれど、そらせなかった。首筋がじわじわと熱くなる。
「澪さん」
「はい」
「この狂い方は、偶然の劣化じゃありません。絶対に、何かの意思がある」
「意思……?」
「まだ確証はありません。でも、八十八鍵すべてを測り終えたとき、このピアノが隠している本当の『楽譜』が見えるはずです」
志賀さんは立ち上がると、アップライトピアノの前に歩み寄り、歪んだ木製の鍵盤蓋を静かに降ろした。
カタン、と小さな音が響く。
その瞬間、彼の手が、鍵盤蓋の真鍮の蝶番のあたりでピクリと硬直したのを、私は見逃さなかった。
指先が微かに震え、何かを恐れるように、あるいは激しい渇望を押し殺すように――彼はぎゅっと拳を握り、乱暴にズボンのポケットへ突っ込んだ。
触りたいのに、触れてはいけないもの。
彼にとってピアノは、そういう存在なのだと、言葉を交わさずとも痛いほど伝わってきた。
◆
帰り際、門扉のところで、志賀さんは立ち止まって振り返った。
「ノート、持っててください」
「えっ……でも、志賀さんが書いたものだし」
「測定データは僕の頭にも入ってます。何より、これは澪さんの声の話ですから」
手渡された黒い方眼ノートは、見た目よりもずっとずっしりと重かった。
門灯のオレンジ色の光の下で、そっと表紙をめくってみる。
見開き三ページにわたって、几帳面な数字とセントの計算式がびっしりと並んでいた。そして、今日の測定の終わりの余白に、青いインクで小さく一行だけ、走り書きがあった。
『この声は、このピアノの上でだけ正しい』
私は息を飲み、ノートをぎゅっと胸に抱きしめた。
紙の冷たさが、制服のブレザーを通して心臓に染み渡っていく。
帰宅すると、居間で洗濯物を畳んでいた母が、顔を上げて言った。
「ピアノ、まだ音鳴るの? おばあちゃんがね、先週面会に行ったとき、急に気にしてたのよ」
「……鳴るよ。ちゃんと鳴ってる」
「そう。ならよかったわ」
母はそれ以上、何も詮索しなかった。
深く踏み込んでこないことが、母なりの不器用なやさしさなのだと分かっている。
自分の部屋に入り、机の電気スタンドをつけた。
ノートを開き、最初のページの一番上に書かれた数字を、人差し指でそっとなぞる。
『A4=430.4Hz(−38¢)』
それは、世界中のどの教科書にも載っていない、私だけの声の住所だった。
> 9月13日(日)晴 湿度61% A4=430.4Hz(−38¢) A3:−61¢ C4:−22¢ ※同じ部屋で、同じ曲を、四回歌った




