元数学者、異世界を数学で書き換える 第8話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第8話「賭場、あるいは大数の法則」
銀貨三十一枚では、装備が買えない。
演算展開で武器は作れるが、防具は別だ。物体構築は「素材の数値を書き換える」力であって、無から鉄を生む力ではない。手元に革がなければ、革鎧は作れない。
そして、まともな革鎧は銀貨二百枚からだった。
「……六・五倍か」
依頼をこなして貯めるなら、順調にいって二ヶ月。
二ヶ月あれば、ダグたちはさらに先へ行く。掲示板には既に「白銀の獅子、Aランク昇格試験へ」の文字が貼り出されていた。
待っている時間が、ない。
そこで俺は、王都の東地区にある賭場の扉を叩いた。
◇◇◇
前世で、俺は賭博を一度もやったことがない。
やらなかった理由は単純だ。胴元が儲かるように設計されている遊びで客が勝つのは、設計を間違えている場合だけだからである。
逆に言えば――設計が間違っている賭場を見つければ、勝てる。
薄暗い店内には、三種類の卓があった。
一つ目、賽子の丁半。二つ目、輪盤に球を落とすもの。三つ目、伏せた札を捲るもの。
俺は壁際に立ち、二時間、何もせずに見ていた。
賭けなかった。ただ、数えた。
丁半は、出目を三百回記録した。丁が百四十九、半が百五十一。ほぼ完璧だ。賽子に細工はない。この卓は、胴元が場代として一割抜く。期待値はマイナス十パーセント。座るだけ損だ。
輪盤も同様。数えた限り偏りはなく、ここも配当が抑えられている。マイナス。
三つ目の卓が、面白かった。
場には十二枚の札が伏せられている。客は一枚を選び、当たり札なら配当八倍。当たり札は一枚。
素朴に考えれば、当たる確率は十二分の一。八倍配当。期待値は八÷十二で、〇・六七。三割強のマイナス。ひどい賭けだ。
誰も勝てない。だから胴元は、この卓を一番目立つ場所に置いている。
だが――俺は三十七回、他人の勝負を数えていた。
当たり札の位置には、偏りがあった。
左から三番目と、右から二番目。この二枚が当たりになった回数が、他より明らかに少ない。三十七回中、合わせて一回。他の十枚は平均して三・六回。
偏りの理由は、見ていれば分かった。
札を配る男は、右利きで、卓の左端に立っている。当たり札を混ぜる時、彼は無意識に、自分の手が届きやすい中央付近に置く癖があった。左から三番目と右から二番目は、彼の手の動線から、わずかに外れている。
意図的な不正ではない。ただの、人間の癖だ。
そして、癖は数字に出る。
「――席、空いてるか」
俺は卓についた。
やることは単純だった。左から三番目と右から二番目を、絶対に選ばない。残り十枚から選ぶ。
これだけで、当たる確率は十二分の一から、およそ十分の一に上がる。
配当は八倍のままだ。
期待値、八÷十・四で、〇・七七。
――まだマイナスである。
「くそ、まだ足りないか」
心の中で毒づいた。
偏りを一つ見つけただけでは、三割のハウスエッジは埋まらない。当然だ。賭場は素人が思いつく程度の穴では潰れないように設計されている。
だから俺は、二つ目の仕掛けを使った。
「賭け金は、こちらで決めていいのか」
「銀貨一枚から、十枚まで」
「なら、変えていく」
俺は、賭け金を毎回変えた。
札を配る男は、混ぜ終わったあと、必ず一度だけ、当たり札のあたりに視線を落とす。〇・二秒に満たない一瞥だ。素面の人間には見えない。
「演算展開・演算加速」
見えた。
完全ではない。彼の視線は、当たり札そのものではなく、その周辺三枚くらいの範囲を漠然と撫でる。だが三枚に絞れれば、確率は三分の一だ。
視線が読めた回では、賭け金を十枚に。
読めなかった回では、一枚に。
期待値は、こう変わる。
読めた回、確率〇・三三×配当八=二・六七。大幅なプラス。
読めない回、確率〇・一×八=〇・七七。マイナス。
読める頻度が三回に一回程度でも、賭け金の比率が十対一なら、全体では大きくプラスになる。
これが、賭博で唯一勝つ方法だ。
有利な時に大きく賭け、不利な時に小さく賭ける。それ以外に、胴元の設計を破る方法は存在しない。
◇◇◇
三時間後、俺の手元には銀貨二百四十枚があった。
途中、二度ほど大きく負けた。当然だ。三分の一の勝負に大金を張れば、三回に二回は消える。
だが、賭け金の設計が正しければ、試行回数が増えるほど、結果は期待値に近づいていく。
大数の法則、という。
前世で、俺が最初に学生に教えていた定理の一つだった。運は、繰り返すほど平均に潰される。だから、正しい期待値を持っている側が、最後に必ず勝つ。
「――客人」
卓を離れようとした俺に、太い声がかかった。
賭場の主らしき大男が、腕を組んで立っていた。
「随分と、勘がいいな」
「運がよかっただけです」
「うちの卓で三時間で八倍にする運は、聞いたことがねえ」
男の背後で、用心棒が二人、腰を浮かせた。
俺は、静かに息を吐いた。ここで揉めるのは損だ。得た金より、失う時間の方が高くつく。
「一つ、助言していいですか」
「あぁ?」
「あの卓、札を混ぜる人を左利きの人に替えてください。あと、混ぜ終わったら、必ず一度、天井を見上げる癖をつけさせるといい」
男の眉が、ぴくりと動いた。
「……なんでだ」
「視線が漏れています。今日は俺が拾いましたが、そのうち、もっと悪い客が拾いますよ」
沈黙が落ちた。
やがて、男は低く笑った。
「客が胴元に、店の穴を教えるのか」
「教えた分、また来やすくなるので」
「……ふん」
男は顎をしゃくった。用心棒が、腰を下ろす。
「持って帰りな。だが二度目はない。次から、あんたは出入り禁止だ」
「妥当な判断です」
俺は頭を下げて、賭場を出た。
◇◇◇
夜風が、火照った頭に心地よかった。
懐の銀貨は、ずしりと重い。二百四十枚。革鎧が買えて、ポーションが十本買えて、まだ余る。
だが、俺の頭を占めていたのは、金のことではなかった。
――三時間で、俺は八倍にした。
同じ三時間を、薬草採取に使えば、銀貨五枚だ。
四十八倍の差が、そこにある。
力の差ではない。剣の腕でも、レベルでもない。
「……見えているかどうか、だけだ」
独りごちた。
世界には、無数の偏りが転がっている。人の癖、確率の歪み、設計のミス。ほとんどの人間は、それを「運」と呼んで通り過ぎる。
数えた人間だけが、それを収穫できる。
そしてあの四人は、俺という偏りを、最後まで見つけられなかった。
「……見つけられなくて、正解だったな」
俺は歩き出した。
明日、装備を買う。それから、レベルを上げる。
追いつくための時間が、ようやく買えた。
(第9話へ続く)




