元数学者、異世界を数字で書き換える 第67話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第67話「二十九人目」
帰還から、十二年が経った。
俺は五十二歳になっていた。
教授になり、教科書は第四部まで出て、学生は入れ替わり続けた。
ゼロは、まだ生きていた。
毛の色が、少しだけ薄くなった。体重は、三・〇まで落ちた。
相変わらず、俺は毎月測っていた。
「――先生」
篠原が、研究室に入ってきた。
十二年前の学生は、今では准教授になっている。
「例の、変な観測データの件なんですけど」
「ああ」
俺は、顔を上げた。
三ヶ月前から、妙なことが起きていた。
大学の観測グループが、深夜の測定で、説明のつかない数値の揺らぎを検出していた。
極めて微弱で、極めて短時間。
場所は、特定できない。だが、方向はある。
「周期、出ました」
篠原が、紙を差し出した。
「規則的です。三百六十五・二日ごと」
俺は、その紙を見つめた。
一年周期。
それは、地球の公転周期と一致する。
つまり――地球が、公転軌道上の特定の位置に来たときに、揺らぎが起きる。
位置。
そして、位置というのは、他の何かとの相対位置だ。
「……接近か」
俺は、呟いた。
「え?」
「いや」
俺は、紙を返した。
「篠原。この揺らぎ、あと何年で最大になる」
篠原が、目を見開いた。
「……なんで、最大になるって分かるんですか」
「勘だ」
「先生、勘って言うの初めて聞きました」
「たまには言う」
篠原は、計算を始めた。
十分後、答えが出た。
「――四年後です」
俺は、頷いた。
◇◇◇
その夜、俺は机の引き出しから、古いノートを取り出した。
二年分の記録が入った、あのノート。
最後のページに、俺が十二年前に書いた文がある。
『十三桁目は、測れない』
その下に、俺は新しい一行を書き足した。
『十二年目。揺らぎを検出した。四年後に最大。
境界が薄くなる周期は、あちら側だけの現象ではないらしい。
当然だ。近づくのは、両方だ。』
俺は、ペンを止めた。
二年前――いや、十四年前。
エルドは言った。
ごく稀に、二つの世界が「接近」する。接近すると、境目に薄いところができる。
あちらの世界では、それが春分の三重会合として現れた。
こちらの世界では、公転位置として現れる。
同じ現象を、両側から見ているだけだ。
「……つまり」
俺は、ペンを置いた。
四年後、こちら側の境界も、薄くなる。
その時、何が起きるか。
二つの可能性がある。
一つ。誰かが、こちらから、あちらへ落ちる。
二つ。誰かが、あちらから、こちらへ来る。
二十九人目。
◇◇◇
四年間、俺は準備をした。
何を準備すればいいのか、正確には分からなかった。
だが、俺は前世――いや、あちらの世界で、一つだけ確信したことがある。
二十七人が、七年で壊れた理由。
それは、力が足りなかったからでも、運が悪かったからでもない。
説明できる相手が、いなかったからだ。
だから、俺が準備したのは、装置でも、金でも、地位でもなかった。
場所を、用意した。
大学の裏手に、小さな古い建物がある。もとは倉庫だった。
それを借りて、中を整えた。
机を一つ。椅子を二つ。本棚。そして、簡素な寝台。
本棚には、俺の書いた本を全部並べた。
第一部から第四部まで。
そして、その隣に、白紙のノートを十冊。
「……ここでいい」
俺は、部屋を見渡した。
「クゥン」
ゼロが、寝台の上で丸くなった。
気に入ったらしい。
◇◇◇
四年後の、その日。
俺は、河川敷にいた。
揺らぎの観測値が最大になる、その夜。
場所に根拠はなかった。ただ、俺が落ちてきたのがここだったから、というだけだ。
統計的に言えば、標本数一だ。何の根拠にもならない。
それでも、俺はそこに立っていた。
「……来るかな」
隣に、篠原がいた。
「来ませんよ」
「そうか」
「先生、この四年、ずっとおかしかったですよ」
「そうか」
「何なんですか、本当に」
俺は、答えなかった。
空を見上げた。
星が出ていた。
十六年前、俺はあちらの世界で、同じように空を見上げていた。
三つの星が重なるのを、待っていた。
その時、
「――先生」
篠原の声が、変わった。
「あれ」
河川敷の、少し先。
街灯の下に、人影があった。
座り込んでいる。
俺は、駆け出した。
◇◇◇
若い女だった。
二十歳そこそこ。見慣れない服を着ている。この世界の服ではない。
意識はあった。だが、混乱していた。
俺を見て、後ずさった。
「――大丈夫だ」
俺は、両手を上げた。
「何もしない」
女は、震えていた。
何か言おうとして、言葉が出てこない様子だった。
俺は、しゃがんで、目線を合わせた。
そして、一番大事な質問をした。
「――名前は」
女は、俺を見つめた。
それから、掠れた声で、言った。
名前ではなかった。
「……ここは、どこ」
その言葉は、この世界の言葉ではなかった。
だが、俺には聞き取れた。
なぜなら、それは――
「――クゥン」
足元で、老いたキツネが鳴いた。
女が、その音に反応した。
目を見開き、ゼロを見て、それから、俺を見た。
「……その子」
女は、震える声で言った。
「シャドウ、フォックス……?」
俺は、息を止めた。
それから、ゆっくりと言った。
「――君は、あの塔から来たのか」
女の目から、涙が溢れた。
「――塔を、知ってるんですか」
俺は、頷いた。
「知ってる」
俺は、手を差し出した。
「立てるか」
女は、その手を取った。
立ち上がった彼女は、俺より頭一つ小さかった。
「……あなたは」
「ライ・アーデン」
俺は、その名を、十六年ぶりに口にした。
「――二十八人目だ」
(第68話へ続く)




