元数学者、異世界を数字で書き換える 第68話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第68話「パンから始める」
彼女の名前は、ミラといった。
あちらの世界の、王立魔法学院の学生だった。
そして、この世界の言葉を、片言だが話せた。
「……なんで、こっちの言葉を?」
俺が聞くと、ミラは、鞄から一冊の本を取り出した。
手製の写本だった。
表紙に、見覚えのある字がある。
『向こう側のことば 第一巻』
著者名を見て、俺は動けなくなった。
『レン・ヴォルクハート 編』
「……レン」
声が、掠れた。
「ご存じなんですか」
ミラが、目を丸くした。
「学院の、レン先生を」
「――先生?」
「はい」
ミラは、当たり前のように言った。
「王立魔法学院の、実践数学部門の初代主任です。二百年前の」
俺は、その場に座り込んだ。
◇◇◇
時間の流れが、違った。
それだけの話だった。
こちらで十六年。あちらで、二百年以上。
森の時間の歪みか、世界そのものの差か。今となっては、確かめようもない。
「……レンは」
俺は、掠れた声で聞いた。
「レンは、どうなった」
「先生は、八十二歳まで生きられたと記録にあります」
ミラは、丁寧に答えた。
「実践数学部門を作られて、教科書を第九部まで書かれて。あと――」
「あと?」
「毎年、春分の日に、塔に登られていたそうです」
俺は、目を閉じた。
「……何をしに」
「記録には、こうあります」
ミラは、暗唱した。
『師の演算の周期は、三十秒に一秒であった。
私は、その一秒を、外から数える役目であった。
数える者がいなくなれば、演算は成立しない。
だから私は、毎年数える。
誰が数えているかは、あちらには聞こえないだろうが。』
俺は、しばらく、何も言えなかった。
河川敷の草の上で、五十六歳の男が、みっともなく泣いた。
「……あいつ」
俺は、袖で顔を拭った。
「二百年、数えてたのか」
「――八十二歳まで、六十四回です」
ミラは、静かに言った。
「その後は、弟子の方が引き継がれました。今も、続いています」
「……今も?」
「はい」
ミラは、少しだけ笑った。
「学院の伝統行事になってます。春分の夜、境界の塔に登って、三十秒ごとに数を叫ぶ。理由は、誰も知りません」
「……誰も?」
「知らないまま、二百年続いてます」
俺は、笑った。
泣きながら、笑った。
「……それでいい」
俺は言った。
「それが、いちばんいい」
◇◇◇
ミラを、俺は例の建物に連れて行った。
四年前に整えた、机が一つ、椅子が二つ、本棚と寝台のある部屋。
彼女は、部屋に入るなり、本棚の前で立ち止まった。
「……この本」
「読めるか」
「文字は、レン先生の教本で習いました。でも――」
ミラは、一冊を手に取った。
『数えることについて』
表紙をめくる。
一ページ目に、こう書いてある。
『いつか、これを読む誰かへ』
ミラは、その一行を、長いこと見つめていた。
「……ライさん」
「なんだ」
「あの、学院に、同じ言葉から始まる本があります」
俺は、顔を上げた。
「レン先生の書かれた、第一部です」
ミラは、震える声で言った。
「一ページ目に、こう書いてあります。『いつか、これを読む誰かへ』」
俺は、天井を見上げた。
ボルドが、二十年前に書いた一行。
俺が受け取り、俺が書き、レンが受け取り、レンが書いた。
二百年、それが続いた。
「……二十年分の記録を、託した男がいる」
俺は、言った。
「その男の名前を、レンは教えたか」
「ボルド・シュタイン先生ですね」
ミラは、即答した。
「シュタイン=アーデン境界式の、シュタイン先生です。学院の一年生が、最初に習います」
俺は、深く息を吐いた。
「……そうか」
ボルド。
あんたの名前は、二百年後の一年生が、最初に習っている。
「……あんた、勝ったよ」
誰にも聞こえない声で、俺はそう言った。
◇◇◇
ミラは、この世界で暮らすことになった。
帰る方法は、ない。
少なくとも、今は。
塔はあちら側にしかなく、こちら側から境界を薄くする方法は、まだ誰も知らない。
「……帰りたいか」
一週間後、俺は聞いた。
ミラは、しばらく考えてから、答えた。
「分かりません」
正直な子だった。
「今は、分からないです。でも――」
「でも?」
「怖くは、ないです」
ミラは、本棚を見た。
「レン先生の教本に、書いてありました。『向こうに行った者は、七年で壊れる。理由は、話が通じる相手がいないからだ。だから、もし行くことになったら、まず話が通じる相手を探せ』って」
「……あいつ」
俺は、頭を抱えた。
二百年前に俺がこぼした愚痴を、あの男は、教本に書いていた。
「探しました」
ミラは、俺を見た。
「一日で見つかりました」
俺は、笑った。
◇◇◇
それから、俺は五十七歳になった。
ミラは、大学の研究生として登録した。書類は、篠原が全部でっち上げた。あいつは何も聞かなかった。
彼女は、恐ろしい速さで学んだ。
割り算は、一日で分かった。
「――レン先生の教本、良くできてるので」
と、本人は言った。
そして半年後、彼女は俺の研究室で、こう言った。
「ライさん。こっち側から、境界を薄くする方法、考えませんか」
俺は、ペンを止めた。
「……理由は」
「帰りたいからじゃないです」
ミラは、はっきりと言った。
「二十九人目が来た時に、迎えに行けるようにです」
俺は、しばらく彼女を見つめていた。
「――ミラ」
「はい」
「それは、たぶん、俺の一生では終わらない」
「知ってます」
「君の一生でも、終わらないかもしれない」
「知ってます」
ミラは、笑った。
「だから、書くんですよね。読む人が、いつか来るから」
俺は、ペンを置いた。
そして、新しいノートを一冊、机の上に出した。
表紙は、まだ白い。
俺は、ペンを取り、一ページ目に書いた。
『いつか、これを読む誰かへ』
その下に、こう書き足した。
『まず、パンを三人で分けるところから始めよう。』
◇◇◇
窓の外で、日が傾いていた。
「クゥン」
足元で、ゼロが伸びをした。
十七歳になった老いたキツネは、もうあまり動かない。
だが、今日も、俺の足元にいる。
「――行くぞ、ゼロ」
俺は、ノートを閉じて、立ち上がった。
「講義の時間だ」
「クゥ」
「今日は、パンの話をする」
俺は、部屋を出た。
廊下に、夕日が差していた。
十七年前、俺は森の中で、四十五パーセントの賭けをした。
それを六十五まで押し上げて、飛んだ。
一回きりの試行に、確率は何も保証してくれない。
それでも、俺は当たった。
当たった理由は、俺が優秀だったからではない。
二十七人が失敗し、八百年かけて一人が道を塞ぎ、七年かけて一人が方向違いを潰し、二十年かけて一人がノートを残し、そして――
三十秒ごとに、七人が数えてくれたからだ。
「……なあ、レン」
俺は、廊下の窓から、空を見上げた。
「今年も、数えてくれたか」
空は、答えなかった。
だが、二百年後のどこかで、誰かが理由も知らずに数を叫んでいる。
それは、たぶん、返事より確かなものだった。
(【ルートA】第3章・帰還編、完)
(【ルートA】完結)




