元数学者、異世界を数字で書き換える 第66話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第66話「送る方法」
帰還から一年が経った。
俺は、大学の実験室の一角を、勝手に占拠していた。
名目は「光学測定の教育用装置の試作」。
実際にやっていたのは、あの装置の再現だった。
干渉計。十二万本の溝を刻んだ回折格子。水素放電管。
ただし、今度は演算展開を使わなかった。
使えたが、使わなかった。
この世界には、既に、それを作る技術がある。俺が力技でやる必要はない。
むしろ――ここで確かめたいことが、あった。
◇◇◇
「――先生、これ何やってるんですか」
覗きに来たのは、あの単位を落とした学生だった。名前は、篠原といった。
「αを測ってる」
「微細構造定数? そんなの、教科書に載ってるじゃないですか」
「載ってる」
俺は答えた。
「だから測るんだ」
篠原は、変な顔をした。
「……載ってるのに、測るんですか」
「載っている数字が、自分の手で出せるかどうかは、別の話だ」
俺は、装置に向き直った。
「教科書の数字を信じるのは、簡単だ。だが、それは信じているだけだ」
「……信じてちゃ、だめなんですか」
「だめじゃない。だが」
俺は、覗き窓から目を離した。
「一生に一度くらいは、自分の手で、根っこを触った方がいい」
◇◇◇
半年かけて、俺はαを十桁まで出した。
学生四人を巻き込んでいた。
平均を取るためだ。一人で測ると、一人分の癖が全部に乗る。
「――出ました!」
篠原が、計算結果を持ってきた。
俺は、それを受け取り、教科書の値と比べた。
一致していた。
十桁目まで。
「……ああ」
俺は、椅子に座り込んだ。
一致した。
この世界のαは、俺が二年前に記憶から書き出した値と、十桁まで同じだった。
つまり――
俺が指定した十二桁は、正しかった。
少なくとも、十桁までは、証明された。
「先生、どうしました?」
「……いや」
俺は、目を拭った。
「なんでもない」
「泣いてません?」
「花粉だ」
「二月ですよ」
「早いんだ、今年は」
◇◇◇
その夜、俺は自宅の机に向かった。
新しいノートを、一冊開いた。
表紙に、まだ何も書いていない。
俺は、しばらくペンを持ったまま、動かなかった。
レンの、最後の頼みを思い出していた。
――向こうに帰ったら。向こうの世界の教科書、こっちに送る方法、考えといてくれ。
無茶を言うな、と俺は答えた。
言うさ、とあいつは言った。弟子だからな、と。
「……送れないんだよ」
俺は、呟いた。
物を送るには、世界指定の演算が要る。四億の演算量。
俺は、この世界でそれをやれるだろうか。
やれない。
あちらの世界の塔がなければ、境界は薄くならない。俺一人では、どうにもならない。
――だが。
俺は、ペンを走らせ始めた。
◇◇◇
『いつか、これを読む誰かへ』
一ページ目に、俺はそう書いた。
ボルドが、二十年前に書いた一行。
その意味を、俺は今、初めて正確に理解した。
あの男は、読者がいないことを知っていた。
それでも書いた。
書けば、残る。残れば、いつか誰かが読む。
誰が読むかは、書く側には決められない。
だから、宛先を書かずに、こう書くしかない。
『いつか、これを読む誰かへ』
俺は、二ページ目を開いた。
『第一章 わけるということ』
一人のパンを二人で分けると、一人あたりの量は半分になる。
これを、二で割る、という――
俺は、書き続けた。
これは、あちらへは届かない。
だが、レンが向こうで同じ本を書いているなら。
同じ場所から始めて、同じ順番で説明しているなら。
二冊の本は、四桁目まで一致する。
それは、送ったのと、どのくらい違うだろうか。
「……いや」
俺は、手を止めた。
違う。
送るというのは、そういうことじゃない。
俺は、ページを一枚めくり、こう書き足した。
『追記。
私には、別の場所に弟子が一人いる。
名前をレンという。
彼は、私がこの本の第一章を書いた時、割り算で三日詰まった。
三日目に、パンの話をしたら、分かった。
だから、この本は、パンから始まっている。
もし、あなたがこの本を読んで、割り算が分かったなら。
それは私の功績ではない。
三日詰まってくれた男の功績である。』
俺は、ペンを置いた。
「……これでいいか、レン」
誰も答えなかった。
「クゥン」
いや、一匹だけ、答えた。
◇◇◇
三年後、その本は出版された。
題名は『数えることについて』。
対象は、中学生以上。
売れなかった。初版三千部が、二年かけて捌けた。
だが、時々、手紙が来た。
十四歳の子から。定年退職した男性から。塾の講師から。
一番よく書かれていたのは、こうだった。
『パンの話で、初めて分かりました』
俺は、その手紙を全部、机の引き出しに入れていた。
引き出しが一杯になったとき、俺は数えた。
百七通。
前世で――いや、二年間の異世界で、俺の教科書を読んだ人間は、レンと、フィンと、庭に集まった子供が七人。
合計、九人だった。
今、百七人。
「……増えたな」
俺は、引き出しを閉めた。
「クゥン」
足元で、老いたキツネが鳴いた。
ゼロは、この世界で八年生きていた。シャドウフォックスの寿命が何年なのか、俺は知らない。
測る方法がないからだ。
それは、たぶん、測らなくていいことの一つだった。
(第67話へ続く)




