元数学者、異世界を数字で書き換える 第65話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第65話「十三桁目」
病院での診断は、頭部打撲、軽傷だった。
「――ラッキーでしたね」
若い医師が、CT画像を見ながら言った。
「出血の痕跡はあるんですが、もう止まってる。この位置でこの出血だと、普通はもっと大事になるんですけど」
「そうですか」
「なんというか……綺麗に止まってるんですよね。血管が」
医師は、首を捻った。
「まあ、良いことです。二日ほど様子を見て、問題なければ退院で」
俺は頷いた。
説明する気は、まったくなかった。
◇◇◇
二日間、俺は病室で天井を見ていた。
やることが、なかった。
二年間、俺は毎日、何かを測っていた。振り子を数え、縞を数え、線の間隔を読んだ。
その全部が、突然、なくなった。
「……暇だな」
呟いてから、俺は自分の言葉に驚いた。
前世――いや、二年前の俺は、暇を苦にしない人間だった。むしろ、一人で天井を見ている時間が好きだった。
変わったらしい。
三日目の朝、俺は退院した。
ゼロは、その二日間、俺のアパートで留守番していた。
正確には、俺のアパートの押し入れで、寝ていた。
「――お前、大人しくしてたか」
扉を開けると、銀色の毛玉が飛びついてきた。
「クゥン!」
「……そうか、退屈だったか」
俺は、部屋を見渡した。
六畳一間。本棚が三つ。机が一つ。
二年前、俺が出ていったままの部屋だった。
いや、二年ではない。
この世界では、三日しか経っていない。
机の上に、書きかけの原稿があった。
提出期限は、二週間後になっていた。
「……そういえば、あったな、こんな仕事」
俺は、その原稿を手に取った。
読んでみた。
半分も読まないうちに、俺は原稿を机に置いた。
「……ひどいな、これは」
自分で書いたものだった。
内容は、間違っていない。だが、読めない。
専門用語が、説明なしに並んでいる。読者が誰なのかを、まったく考えていない。
二年前の俺は、これを「厳密で良い文章」だと思っていた。
「……レンなら、三行で投げるな」
俺は、赤ペンを取った。
そして、一行目から書き直し始めた。
『まず、パンを三人で分けるところから始めよう。』
◇◇◇
一週間後、俺は大学に戻った。
誰も、何も気づかなかった。
当たり前だ。この世界では、俺は三日休んだだけの、頭を打った中年男に過ぎない。
「――お、生きてたか」
廊下で、同じ研究室の男に声をかけられた。
高柳。十五年の付き合いになる。専門は違うが、酒の趣味だけが合う男だった。
「生きてた」
「ラジコンに轢かれたって聞いたぞ」
「轢かれてない。避けようとして転んだ」
「どっちでも一緒だろ」
高柳は、げらげら笑った。
その笑い方を聞いた瞬間、俺の中で、何かが緩んだ。
二年ぶりだ。
いや、この男にとっては、一週間ぶりだ。
「……高柳」
「あ?」
「一つ、聞いていいか」
「なんだ」
「俺の博士論文の副題、覚えてるか」
高柳が、変な顔をした。
「はぁ? 十五年前の話だぞ」
「覚えてるか」
「……えーと」
高柳は、腕を組んで唸った。
「なんだったかな。長いやつだろ。お前が飲み会で毎回、間違えて言われるってキレてたやつ」
「そうだ」
「たしか……『――における』が二回入ってて、お前が『日本語として最悪だ』って自分でぼやいてた」
俺は、しばらく、返事ができなかった。
「……ああ」
やっと、そう言った。
「そうだ。それだ」
◇◇◇
その夜、俺はアパートに戻り、机に向かった。
ノートを開く。
一冊だけ持ってきた、あのノート。二年分の記録が入っている。
最後のページに、俺は一行、書き足した。
『十三桁目は、測れない』
ペン先を、しばらく止めた。
俺が指定したのは、十二桁だ。
十二桁まで一致する世界は、原理的には、まだ複数あり得る。
十三桁目から違う世界。
その世界には、河川敷があり、ラジコンで遊ぶ子供がいて、高柳がいて、俺の博士論文がある。
見分けは、つかない。
何をどう測っても、つかない。
それが、数学の出す答えだった。
「……」
俺は、ペンを置いた。
二年間、俺は測ることを信じてきた。
測れば分かる。数えれば近づく。粗い道具でも、繰り返せば遠くまで行ける。
それは、全部、本当だった。
だが、今日、俺は測れない場所に来た。
セリアの言葉を、思い出した。
――数字だけじゃ、測れないものが、確かにあるんだって。
あの時、俺は反論した。
数字は、測れないものがあることを、ちゃんと知っている。測れない、と書ける。それが数学の一番誠実なところだ、と。
「……そうだな」
俺は、ノートに書き足した。
『十三桁目は、測れない。
測れないので、これ以上は書けない。
ここから先は、数学の外側だ。
高柳が、俺の論文の副題を「――における」が二回入っていたと言った。
それは、十三桁目の証明ではない。
だが、俺は、それで十分だと思うことにした。
数学は、どこで止めるかを、決めてくれない。
止めるのは、いつも人間の仕事だ。』
書き終えて、俺はノートを閉じた。
「クゥン」
膝の上で、ゼロが顔を上げた。
「……お前は、いいよな」
俺は、その頭を撫でた。
「桁のことなんか、考えなくていい」
「クゥ」
「羨ましい」
◇◇◇
それから、俺の生活は、驚くほど静かに戻っていった。
講義があり、原稿があり、会議があった。
変わったのは、二つだけだ。
一つ、部屋に銀色のキツネがいること。
大家には「珍しい種類の犬」で通した。獣医には連れて行けないので、体調管理は自分でやった。
二つ、俺の講義が、恐ろしく分かりやすくなったこと。
「――先生」
三ヶ月後、講義のあとで、学生が話しかけてきた。
「先生、なんか変わりましたよね」
「そうか?」
「去年、僕、先生の講義で単位落としたんですよ。同じ科目です」
学生は、笑った。
「今年、めちゃくちゃ分かります。同じこと喋ってるはずなのに」
俺は、返事に困った。
「……たぶん、教え方を変えた」
「なんでですか?」
「――去年、」
俺は、少し考えて、言った。
「割り算で三日詰まる弟子が、できたからだ」
学生は、意味が分からないという顔をした。
「弟子?」
「そうだ」
俺は、教壇の資料をまとめた。
「その弟子は、今、俺の書いた教科書を、別の場所で教えている」
「……海外ですか?」
「まあ、そんなところだ」
俺は、教室を出た。
廊下の窓から、夕日が差していた。
レンは、今頃どうしているだろう。
あの世界の時間の流れは、この世界と同じとは限らない。
三ヶ月かもしれないし、三十年かもしれない。
どちらでも、あいつは同じことをしているはずだ。
縞を数え、子供にパンの話をして、第四部を書いている。
「……手紙、送れないかな」
俺は、独りごちた。
送れるわけがない。
だが――
(第66話へ続く)




