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元数学者、異世界を数字で書き換える  作者: godrenkon
第三章 帰還編 【A】

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元数学者、異世界を数字で書き換える 第59話

元数学者、異世界を数字で書き換える

【ルートA】第3章・帰還編


第59話「灰の男、来訪」



春分まで、あと三十日。


その朝、塔の前に、エルドが立っていた。


灰色の外套。連れは、いない。


「――お久しぶりです、ライ殿」


男は、微笑んだ。


「よく、ここまで来られましたね」


「あんたの塔だろう。道は書いてあった」


「読める人間が、いなかっただけです」


エルドは、塔を見上げた。


その目が、ほんの少しだけ、緩んだ。


「懐かしい。三百年ぶりに、ここまで来ました」


「三百年、来なかったのか」


「来ても、答えが増えないと分かってからは」


彼は、外壁の最上部を見上げた。


削られ、書き直され、削られた跡。


「あの一行を書いてから、私は、この塔に登るのをやめました」


『I cannot solve myself.』


「――解けたのですか」


エルドが、俺を見た。


その目に、初めて、感情らしいものがあった。


焦りだ。


「……解けた」


俺は、正直に答えた。


「本当ですか」


「証明は、小屋の中にある。読むか」


エルドは、一瞬、迷った顔をした。


そして、深く息を吐いた。


「……いえ」


「読まないのか」


「読めば、確かめてしまう」


彼は、力なく笑った。


「八百年、私は『解けないのだ』と自分に言い聞かせてきました。解けたものを見てしまえば、その八百年が、ただの回り道になる」


「回り道だ」


俺は言った。


エルドの表情が、固まった。


「……はっきり仰いますね」


「回り道だが、無駄ではない」


俺は、塔を指した。


「俺は、あんたの塔を十五日かけて読んだ。あの七十メートル地点の一文がなかったら、俺は問題の正体に気づくのに、あと一年かかっていた」


「……」


「間違った道を、あんたが百五十メートル分、歩き切って塞いでくれた。おかげで俺は、そっちを探さなくて済んだ」


エルドは、しばらく黙っていた。


「――カズヤ殿にも、同じことを?」


「言った。ここで、一人で」


俺は、小屋を振り返った。


「あの人は、七年間、毎晩星を測った。方向は間違っていた。だが、そのおかげで、俺は星を測らずに済んだ」


「……それは、慰めですか」


「事実だ」


俺は言った。


「学問というのは、そういうものだ。九割が間違いで、その間違いが積み上がった上に、一割の正解が立つ」


エルドは、俺から目を逸らした。


そして、しばらくして、こう言った。


「――私も、連れて行ってくれますか」


来た、と思った。



◇◇◇



「無理だ」


俺は、即答した。


「……理由を」


「重量だ」


俺は、ノートを取り出した。


「世界を跨ぐ演算量は、対象の質量に比例する。俺の演算能力の上限は、七十六・四キログラム」


俺は、ページを見せた。


「俺が七十三・二。装備が〇・八。残り、三・二キロ」


「……三・二」


「ゼロの分だ」


エルドは、俺の足元を見た。


ゼロが、俺の脚に体を寄せていた。


「……その獣を、連れて行くと」


「そうだ」


「私の代わりに?」


「あんたの代わりじゃない」


俺は言った。


「最初から、あんたの席はない。俺の上限は、あんたに会う前から七十六・四だった」


エルドの顔から、表情が消えた。


「……ライ殿」


声が、低くなった。


「私は、八百年です」


「知ってる」


「二十七人を見送りました。全員、七年で壊れた。私は、八百年、壊れずに待った」


「待っただけだろう」


俺は言った。


エルドの目が、鋭くなった。


「……なんと?」


「あんたは、待っていた。誰かが解いてくれるのを」


俺は、まっすぐ彼を見た。


「二十七人の記録を取り、能力を測り、書き換えられるかどうかを見て、駄目なら放置した。あんたがやったのは、それだけだ」


「――それは」


「カズヤは、七年間、毎晩星を測った。方向は間違っていたが、手を動かした」


俺は、塔を指した。


「あんたは、あの一行を書いてから、三百年、ここに来ていない」


沈黙が落ちた。


長い、長い沈黙だった。


やがて、エルドは、掠れた声で言った。


「……疲れたのです」


「知ってる」


俺は言った。


「だが、疲れは、席にはならない」



◇◇◇



エルドは、その日、帰らなかった。


小屋の外に座り込み、塔を見上げていた。


夕方、レンが飯を持っていった。


エルドは、それを受け取った。


「――なあ、ライ」


夜、レンが言った。


「あいつ、どうすんだ」


「分からない」


「危なくねえのか」


「危ない」


俺は、正直に言った。


「あの男は、たぶん、俺の演算を横取りしようとする」


「……横取り?」


「世界指定の演算は、対象を指定して発動する。もし、発動の瞬間に対象を書き換えられたら――」


俺は、ペンを置いた。


「俺の代わりに、あの男が行く」


レンが、剣に手をかけた。


「殺すか」


「やめろ」


俺は、即座に言った。


「なんでだ」


「まだ、何もしていない」


俺は言った。


「疑いだけで人を殺すのは、あの四人と同じことだ」


レンが、手を下ろした。


「……そうだったな」


「ああ」


俺は、窓の外を見た。


塔の下に、灰色の背中が、まだ座っていた。


「だが、対策はする」


俺は、新しいノートを開いた。


「――何する気だ」


「発動の瞬間に、対象を書き換えられない仕組みを作る」


俺は、ペンを走らせ始めた。


「前世で言うと――鍵をかける、という」



◇◇◇



三日かけて、俺は仕組みを作った。


単純な話だった。


世界指定の演算は、最後の瞬間に「誰を送るか」を確定させる。


その確定を、俺の意識ではなく、計算機の中で行う。


計算機に、あらかじめ「対象の条件」を書き込んでおく。


条件は、こうだ。


【対象条件】

・質量 73.2kg ± 0.3

・質量 3.2kg ± 0.1

・上記二者が、同時に、指定座標の半径二メートル以内に存在すること


単純な条件だ。


だが、エルドはこの条件を満たせない。


なぜなら――


「……あの男の体重、測ったのか」


レンが、覗き込んで言った。


「測った」


「いつ」


「昨日、飯を運んだとき、床板の軋みで」


俺は言った。


「六十八・七キログラム。誤差、〇・五」


レンが、乾いた笑いを漏らした。


「……お前、本当に、なんでも測るな」


「そうだ」


俺はペンを置いた。


「測っていない数字は、絶対に使えない」



(第60話へ続く)


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