元数学者、異世界を数字で書き換える 第58話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第58話「三・二キログラム」
住所が揃った翌日から、俺は「演算の設計」に入った。
これまでは、測る仕事だった。
ここからは、実行する仕事だ。
まず、何をどう書き換えるのかを、正確に決める必要があった。
◇◇◇
演算展開は、対象を指定して、その数値を書き換える力だ。
座標移動なら、対象は「俺」。書き換えるのは「位置」。
世界移動なら、対象は「俺」。書き換えるのは「世界指定値」。
単純に聞こえる。
だが、致命的な問題があった。
「――対象を、どう指定するか、だ」
俺は、卓に向かってレンに説明していた。
「座標移動のとき、俺は『俺』を対象にしている。だが、『俺』ってのは、どこからどこまでだ」
「……皮膚まで、じゃねえのか」
「服は?」
レンが、口を開けた。
「……服も、一緒に動いてるな」
「そうだ。今まで意識したことがなかったが、俺は無意識に『俺と、俺が触れているもの』を対象にしていた」
俺は、指を折った。
「服。靴。荷物。この範囲を、俺の頭が勝手に決めていた。だが、世界を跨ぐとなると、そんな曖昧な指定は許されない」
「なんでだ」
「桁が違うからだ」
俺は、ノートを開いた。
「座標を一メートル動かすのに必要な演算量を、一とする。世界を書き換えるのに必要な量は――」
俺は、数字を書いた。
「およそ、四億」
レンが、椅子から半分落ちた。
「よ、四億!?」
「そうだ」
俺は言った。
「そして、この四億という量は、対象の質量に比例する」
「……質量って、重さか」
「重さだ」
俺は、ペンを置いた。
「つまり、重いものを連れて行こうとすると、演算量が跳ね上がる」
◇◇◇
その夜、俺は計算機の前で、丸一日を費やした。
計算していたのは、たった一つのことだ。
――俺は、何キロまで持っていけるか。
上限を決めるのは、三つの要素だった。
一つ、俺の演算能力。演算展開Lv.19、演算加速込みでの毎秒処理量。
二つ、計算機による外部演算の補助量。
三つ、時間停止による、主観時間の延長。
三つ目が、最大の切り札だった。
時間停止――三十秒に一秒。
だが、止まっている一秒の間、俺の思考は動く。
つまり、あの一秒は、俺にとって「外の世界が待ってくれる時間」だ。
世界を書き換える演算は、途中で邪魔が入れば破綻する。
一秒あれば、足りるか。
俺は計算した。
演算加速下での主観時間、およそ二・五秒。
その二・五秒で処理できる量が――
答えが出たとき、俺はしばらく、その数字を見つめていた。
「……七十六・四キログラム」
俺の体重が、七十三・二キロ。
服と靴と、ノート一冊で、あと〇・八キロ。
残りは。
三・二キログラム。
「――」
俺は、椅子の背にもたれた。
卓の下で、影が動いた。
「クゥン」
ゼロが、顔を出した。
俺は、その顔を見下ろした。
「……お前」
俺は、ノートを開いた。
一年半、俺が毎月書き続けていたページ。
【ゼロ 体重記録】
一月 三・一
二月 三・二
三月 三・二
四月 三・三
五月 三・二
……
平均、三・二キログラム。
誤差、〇・〇五。
俺は、そのページを、長いこと見つめていた。
なぜ、俺は毎月こいつの体重を測っていたのか。
理由なんて、なかった。
手元にあるものは全部測る。それが俺の癖だった。前世で、学生に「先生、それ測って何になるんですか」と笑われ続けた癖だ。
答えはいつも同じだった。
――さあ。だが、測っていない数字は、絶対に使えない。
「……」
俺は、目を閉じた。
二十七人の来訪者は、みんな孤独に壊れた。
俺が壊れなかった理由の一つは、間違いなく、この三・二キロだった。
「――ゼロ」
「クゥン?」
「お前、来るか」
ゼロは、意味が分かっていない顔で、尻尾を振った。
「……分かってないだろ」
「クゥ」
「分からなくていい」
俺は、そいつを抱き上げた。
三・二キログラム。
一年半、毎月測ってきた数字が、今日、初めて意味を持った。
◇◇◇
翌朝、俺はレンにその話をした。
レンは、しばらく黙って聞いていた。
それから、こう言った。
「――で、俺は?」
俺は、答えられなかった。
「俺、何キロだと思う」
「……八十一キロだ」
「測ってたのか」
「測ってた」
レンが、掠れた声で笑った。
「そりゃ、無理だな」
「……レン」
「いいんだよ」
レンは、卓の上のノートを閉じた。
「俺は、最初から分かってた」
「……」
「一年半、お前が光を測ってるのを見てたって言っただろ。あの時から、俺は、お前が行くって知ってた」
レンは、立ち上がった。
「それに、俺には仕事がある」
「仕事?」
「教科書だよ」
レンは、棚を指した。
そこには、俺が書いた冊子が積まれている。
第一部『数えることについて』。
第二部『くらべることについて』。
第三部『はかることについて』。
三冊とも、レンが写本を作っていた。学院に送るためだ。
「お前がいなくなったら、これを教えられるのは、俺しかいねえ」
レンは、はっきりと言った。
「お前が七年で壊れるって聞いた日、俺は勉強するって言ったよな」
「言った」
「あれ、半分は嘘だ」
レンは、少しだけ笑った。
「本当は、お前がいなくなった後のことを、考え始めてた」
俺は、何も言えなかった。
「――なあ、ライ」
「なんだ」
「一つだけ、頼みがある」
「言え」
「向こうに帰ったら」
レンは、まっすぐ俺を見た。
「向こうの世界の教科書、こっちに送る方法、考えといてくれ」
俺は、思わず笑った。
「……無茶を言うな」
「言うさ」
レンは、肩をすくめた。
「弟子だからな」
(第59話へ続く)




