元数学者、異世界を数字で書き換える 第56話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第56話「十二桁の壁」
住所が分かった。
次は、そこへ向かう方法だ。
俺は、塔の外壁を、下から順に読み始めた。
高さ百五十メートル分の数式を、全部。
一日十メートル。十五日かかった。
首が痛くなった。
◇◇◇
エルドの証明は、驚くほど正しかった。
八百年前の記法で、当時の数学の水準で、彼は驚異的なところまで到達していた。
前世で言えば、微分積分の一歩手前まで、独力で歩いている。
その上で、彼は世界間の移動を、こう定式化していた。
――物には、位置を表す数がある。座標だ。
――同じように、世界にも、位置を表す数がある。
――ある物の座標を書き換えられるなら、同じ仕組みで、世界の位置も書き換えられるはずだ。
論理は、通っている。
そして、七十メートル地点で、彼はこう書いていた。
『されど、世界の位置を書き換えんとするとき、書き換える者もまた、その世界の内にあり。
己の立つ床を、己が持ち上げることは能わず』
俺は、そこで足を止めた。
「……そこか」
自分が立っている床を、自分で持ち上げることはできない。
これが、八百年前の彼の壁だった。
そして、俺が越えるべき壁でもあった。
◇◇◇
小屋に戻って、俺は三日間、その問題だけを考えた。
三日目の夜、レンが飯を持ってきた。
「……食えよ」
「ああ」
「三日、水しか飲んでねえだろ」
「そうか」
「そうかじゃねえ」
レンは、皿を卓に叩きつけた。
「聞いてやるから、喋れ」
「……お前に説明できる話じゃない」
「じゃあ、パンから始めろ」
俺は、顔を上げた。
一年前、俺が教科書を書くときに使った言葉だった。
「……卑怯だぞ、それ」
「教科書に書いてあった」
俺は、スープを一口飲んだ。温かかった。
そして、パンから始めた。
◇◇◇
「――ここに、紙がある」
俺は、卓の上に紙を一枚置いた。
「この紙の上に、点を打つ。この点の位置は、紙の端からの距離で表せる」
「座標だな」
「そうだ。俺は、この点を動かせる。数字を書き換えればいい」
俺は、点の隣にもう一つ点を打った。
「じゃあ、この紙そのものを動かすには」
「持ち上げりゃいい」
「そうだ。だが、俺が紙の上に描かれた点だったら?」
レンが、動きを止めた。
「……紙は、持ち上げられねえ」
「そこだ」
俺は、紙を指で叩いた。
「俺は、この世界の中にいる。世界という紙の上に描かれた点だ。点は、紙の上の自分の位置を変えられる。だが、紙そのものは動かせない」
「……じゃあ、詰みじゃねえか」
「エルドは、そう結論した。八百年かけて」
俺は、パンをちぎった。
「だが、俺は違うと思っている」
「なんでだ」
「前世で、これとまったく同じ問題を、何度も見たからだ」
俺は、パンを二つに割った。
「自分自身を含む問いは、たしかに厄介だ。だが、必ず解けないわけじゃない」
「解けることもあるのか」
「ある」
俺は言った。
「自分を、外から書けばいい」
◇◇◇
「――外から?」
「そうだ」
俺は、卓に紙を二枚並べた。
「一枚目の紙に、点がいる。この点は、紙を持ち上げられない」
「おう」
「だが――二枚目の紙に、『一枚目の紙の位置』を書いておいたら?」
レンが、目を細めた。
「……二枚目の紙の上でなら、一枚目の紙の位置は、ただの数字だな」
「そうだ」
俺は頷いた。
「一枚目の中にいる点にとって、紙は『世界』だ。持ち上げられない。だが、二枚目の紙の上では、一枚目の紙は『ただの一つの数』でしかない」
「……で、その二枚目の紙って、どこにあるんだ」
「ここにある」
俺は、卓の上の計算機を叩いた。
木の筐体に、水晶板。
「……計算機?」
「そうだ」
俺は言った。
「この装置の中で動いている計算は、俺の頭の外にある。俺の魔力で動いているが、俺の意識の中では走っていない」
「……」
「つまり、この装置にとって、俺は『外の存在』だ。逆に言えば――」
俺は、水晶板を指した。
「この装置の中でなら、俺自身を、ただの数字として書ける」
レンが、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった気がする」
「本当か」
「たぶん」
レンは、慎重に言った。
「お前が、自分の力で自分を持ち上げるんじゃなくて。その箱に、お前の場所を書いといて。箱に持ち上げさせるんだな」
「――完璧だ」
俺は言った。本気だった。
「お前、一年前は割り算で三日詰まってたのにな」
「うるせえ」
◇◇◇
ここで、新しい壁が現れた。
桁数だ。
世界の住所は、微細構造定数で表される。
では、何桁必要なのか。
俺は、二日かけてそれを見積もった。
結論は、残酷だった。
十二桁。
「……十二桁?」
レンが、呆れた声を出した。
「そうだ」
俺は、ノートを見せた。
「四桁目まで、この世界と俺の世界は一致している。ということは、四桁までしか指定しないと、どちらの世界も条件を満たす」
「……つまり、行き先が決まらねえのか」
「決まらない。あるいは、この世界に戻ってくる」
俺は、ペンで線を引いた。
「五桁目で、ようやく区別がつく。だが、五桁だけで指定すると、五桁目まで同じで六桁目から違う世界が、無数にある」
「そういう世界も、あるのか」
「あるはずだ」
俺は言った。
「五桁一致の世界は、たぶん、地球とほとんど見分けがつかない。日本があって、河川敷があって、ラジコンで遊ぶ子供がいる。だが――」
「だが?」
「俺の知っている人間は、いないかもしれない」
部屋が、静かになった。
「桁が足りないと、『似ているけれど違う場所』に着く。桁を増やすほど、正しい場所に近づく」
「じゃあ、何桁で足りるんだ」
「安全を見て、十二桁」
俺は言った。
「そして、俺が今、測れているのは――八桁だ」
レンが、絶句した。
「……足りねえじゃねえか」
「足りない」
俺は、頷いた。
「あと四桁。装置の精度を、一万倍にする必要がある」
「……できるのか」
「今の装置では、無理だ」
俺は、窓の外の塔を見上げた。
春分まで、あと五ヶ月と少し。
「別の測り方が要る」
(第57話へ続く)




