元数学者、異世界を数字で書き換える 第55話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第55話「微細構造」
測定の日は、風のない夜を選んだ。
装置は、小屋の中央に据えた。
光源は、俺が精製した気体を封じた小さな管だ。魔力を流すと、淡い赤紫色に光る。
前世で言う、水素放電管。
中身は、水を演算展開で分解して得た、この世界で最も単純な気体だ。
「――なんで、その気体なんだ」
レンが聞いた。
「一番単純だからだ」
俺は、管を固定しながら答えた。
「複雑なものを測ると、結果が複雑になる。何が原因か分からなくなる」
「単純だと?」
「原因が一つしかない」
俺は、光源に魔力を流した。
管が、静かに灯った。
「この気体は、この世界で一番小さな物質だ。だから、こいつの出す光は、この世界の一番根っこのルールを、直接映している」
光が、十二万本の溝を刻んだ板を通る。
反対側の壁に、線が並んだ。
四本。
赤、青緑、青紫、そして、うっすらと紫。
「……四本だな」
レンが数えた。
「そうだ」
俺は、震えを抑えながら、目盛りを覗いた。
四本の位置関係。その比。
前世で覚えている、地球の水素の四本と――ほぼ、同じ形だった。
ほぼ。
「……形は、同じか」
俺は呟いた。
世界の骨組みは、同じ形をしている。
それだけで、俺は少し泣きそうになった。
◇◇◇
ここからが、本番だった。
「レン。倍率を上げる」
俺は、装置の後ろに、二枚目のレンズを差し込んだ。
一番明るい赤い線を、視野いっぱいに拡大する。
「……何が見えるんだ」
「割れるはずだ」
俺は、覗き込んだ。
最初は、ただの太い赤い帯にしか見えなかった。
焦点を、慎重に調整する。
じりじりと。
そして。
「――割れた」
俺は、思わず声を上げた。
一本に見えていた赤い線が、二本に割れていた。
髪の毛ほどの間隔で、寄り添うように並んだ、二本の線。
「見ろ」
レンが覗き込んだ。
「……二本ある」
「そうだ」
俺は、椅子に座り込んだ。
「これが、微細構造だ」
前世で、この現象が発見されたのは十九世紀末だった。
なぜ一本のはずの線が二本に割れるのか。それを説明するために、人類は量子力学と相対論を必要とした。
そして、その割れ幅を決めているのが――
「αだ」
俺は言った。
「この二本の間隔と、線そのものの位置。この二つの比を取ると、単位が全部消える」
「……無次元量」
「そうだ」
俺は、レンの記憶力に驚いていた。半年前の話を、こいつは憶えていた。
「その数が、この世界の住所の一桁目だ」
◇◇◇
測定に、二ヶ月かかった。
一晩で終わる作業ではない。
温度で装置が伸び縮みする。気圧で光の道が曲がる。俺の目が疲れる。
だから、俺は同じ測定を、六百回繰り返した。
前世で学んだ、唯一の確実な方法だ。
粗い道具でも、繰り返して平均すれば、遠くまで行ける。
レンにも、測定を手伝わせた。
「――なあ、俺の目で測って、いいのか」
最初、レンはそう言った。
「お前より、俺の方が絶対に下手だぞ」
「下手でいい」
「よくねえだろ」
「よく聞け」
俺は言った。
「俺一人で測ると、俺の癖が全部の測定に入る。俺が右にずらして読む癖があったら、六百回全部が右にずれる」
「……あ」
「二人で測れば、癖が違うから、混ざって薄まる」
俺は、記録帳を叩いた。
「下手な人間が二人いる方が、うまい人間が一人いるより、正確なことがある。それが平均の力だ」
レンは、しばらく黙っていた。
「……それ、なんか、いい話だな」
「いい話じゃない。ただの統計だ」
「いい話だよ」
レンは、そう言って、覗き窓に顔をつけた。
◇◇◇
六百回目の測定が終わった夜、俺は計算機の前に座った。
六百組の数字を、順に入力していく。
水晶板が、鈍く光を返す。
平均値。標準偏差。誤差の見積もり。
二時間かけて、答えが出た。
俺は、その数字を見つめた。
手が、震えた。
「……レン」
「なんだ」
「出た」
俺は、ノートに書き写した。
この世界の、微細構造定数。
そして、その隣に、前世の記憶から書いた。
地球の、微細構造定数。
『1 / 137.036』
二つの数字は――
上から四桁目まで、一致していた。
そして、五桁目から、違っていた。
「……違う」
俺は、掠れた声で言った。
「違うのか」
「違う」
俺は、椅子の背にもたれた。
「四桁目までは同じだ。だが、そこから先が違う。〇・〇〇一パーセントほど」
「……それ、誤差じゃねえのか」
「誤差じゃない」
俺は、記録帳を叩いた。
「六百回測って、ばらつきの幅は〇・〇〇〇〇二パーセントに収まっている。ずれは、その五十倍だ」
俺は言った。
「これは、実在するずれだ」
レンは、しばらく黙っていた。
「……つまり、どういうことだ」
「二つのことが、同時に確定した」
俺は、指を二本立てた。
「一つ。ここは、俺のいた世界とは、違う世界だ。遠い星でも、未来でも、過去でもない。物理の根っこの数が違うんだから、別の宇宙だ」
「……」
「二つ。それでも、四桁目まで同じだ」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「レン。これが、どれだけ異常なことか分かるか」
「……分からねえ」
「無数にあり得る数の中から、たまたま四桁目まで一致する確率は、一万分の一だ」
俺は、ノートの二つの数字を、指でなぞった。
「この二つの世界は、隣同士なんだ」
「……隣」
「そうだ。無数の世界が並んでいるとして、俺の世界とこの世界は、ほとんど手が届く距離にある」
だからこそ、境界が薄くなる。
だからこそ、時々、人が落ちてくる。
「――帰れる」
俺は言った。
「理論上は、帰れる」
その夜、俺はまた、眠らなかった。
ノートに、二つの数字を並べて書いた。
何度も、何度も。
四桁目まで同じで、五桁目から違う、二つの数。
それは、俺という人間が、一年半かけて手に入れた、たった一組の数字だった。
そして、この世界で誰一人として持っていない、俺だけの座標だった。
(第56話へ続く)




