元数学者、異世界を数字で書き換える 第53話
元数学者、異世界を数字で書き換える
【ルートA】第3章・帰還編
第53話「北東へ」
夜が明ける前に、俺は工房の扉を開けた。
レンが、外で待っていた。既に旅装で、荷を背負っていた。
「……何時から待ってた」
「二時間くらい」
「起こせよ」
「起こしたら、お前が気を遣うだろ」
レンは、当たり前のように歩き出した。
「北東だな」
「……なぜ分かる」
「昨日の夜、お前が窓開けて星を見てた」
レンは、前を向いたまま言った。
「西を見る奴は、あんな顔で空を見ねえ」
俺は、何も言い返せなかった。
「クゥン」
足元で、ゼロが鳴いた。
◇◇◇
王都の西門から、続々と冒険者が出ていく。
ランクB以上の動員に応じた者たちだ。俺たちが東門へ向かう間、その流れとすれ違い続けた。
誰も、俺を責めなかった。応召は義務ではない。
だが、俺の方が、勝手に責められている気になった。
「……ライ」
「なんだ」
「後ろ、振り返るなよ」
「振り返ってない」
「首、三回動いた」
俺は、口を閉じた。
東門を出て、街道に入ってから、レンが言った。
「一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「お前、なんで西じゃなくて北東にしたんだ」
俺は、少し考えてから答えた。
「昨日、書き出した」
「知ってる。見た」
「見るな」
「見た」
レンは悪びれもしなかった。
「で、どっちがでかかったんだ」
「比べられなかった」
俺は正直に言った。
「命と、帰ることを、同じ単位で測る方法がなかった」
「じゃあ、どうやって決めたんだよ」
「――もし俺が西へ行って、戦争が終わって、それで十年経ったとする」
俺は、街道の先を見ながら言った。
「その時、俺は自分に、こう聞くと思う。『あの時、北東へ行っていたら』と」
「……」
「逆に、北東へ行って帰り道を見つけて、十年経ったとする。その時も、たぶん俺は聞く。『あの時、西へ行っていたら』と」
「どっちも後悔すんのかよ」
「する」
俺は頷いた。
「だから、後悔の大きさでは決められない。決められるのは、別のことだ」
「なんだ」
「どっちの後悔なら、俺は誰かに説明できるか」
レンが、足を止めた。
「――説明?」
「そうだ」
俺は続けた。
「『帰りたかったから、戦場に行かなかった』。これは、みっともないが、正直だ。俺は自分の口でそう言える」
「……」
「だが、『戦場に行ったから、帰れなかった』と言った時、俺は絶対に、こう付け加える。『仕方がなかった』と」
俺は、レンを見た。
「仕方がなかった、は、嘘だ。俺は選んだんだ。選んだことを、仕方なかったことにしたくない」
レンは、しばらく黙っていた。
それから、また歩き出した。
「……お前、本当に、ずるいことができねえ男だな」
「二回目だぞ、それ」
「二回言う価値があるからだ」
◇◇◇
デルヴィンには寄らなかった。
エルドに会う前に、確かめておきたいことがあったからだ。
俺たちは、デルヴィンの手前で街道を外れ、北の稜線沿いを進んだ。
三日目に、森に入った。
地図の上では、ここから先は「未踏」と塗り潰されている。
だが、道はあった。
獣道ではない。人が、繰り返し通った跡だ。
「……灰色商会か」
レンが呟いた。
「いや」
俺は、地面をしゃがんで観察した。
「これは、古い」
踏み固められた地面の上に、落ち葉が三層。その下に、さらに古い層。
定期的に人が通れば、こうはならない。
「五十年前の道だ」
「……カズヤって人か」
「たぶんな」
俺は立ち上がった。
「そして、その後は誰も通っていない」
◇◇◇
森は、日を追うごとに奇妙になっていった。
五日目から、方位磁石が狂い始めた。
六日目には、時計が狂った。
いや――正確には、二つの時計が、違う速さで進むようになった。
「レン。腰の砂時計、見せろ」
俺は、自分の作った振り子時計と、レンの持つ砂時計を並べた。
三十分測って、比べる。
振り子時計が三十分を示したとき、砂時計は三十二分を落としきっていた。
「……ずれてるな」
「二分だ。六・七パーセント」
俺はノートに書いた。
「昨日は、四パーセントだった。一昨日は、二パーセント」
「増えてるってことか」
「奥へ進むほど、ずれが大きくなっている」
俺は、森の奥を見た。
木々の向こうに、影のようなものが見え始めていた。
「……エルドが言っていた『時間の流れが歪んだ層』は、デルヴィンの地下じゃない」
「じゃあ、どこだ」
「この森全体だ」
俺は歩き出した。
「デルヴィンの地下は、その端っこに、かろうじて届いているだけだ」
だから、あの男は八百年生きられた。
縁に座っていたからだ。
そして――中心には、もっと濃い場所がある。
◇◇◇
七日目の午後、俺たちは森を抜けた。
開けた場所に出た。
そこに、それは立っていた。
「……なんだ、これ」
レンが、呆然と呟いた。
塔だった。
高さは、目測で百五十メートル。石でも木でもない、鈍い光沢のある素材。
表面には、隙間なく文字が刻まれていた。
数式だ。
上から下まで、外壁の全面が、数式で埋まっている。
俺は、その最下部に歩み寄った。
手を触れる。冷たかった。
そして、刻まれた式を読んだ。
読めた。
「……嘘だろ」
声が出た。
「読めるのか」
「読める」
俺は、上を見上げた。
「これは――八百年前の、記法だ」
《方円録》の写本と、同じ書き方。
つまり、この塔を建てたのは。
「――エルドだ」
俺は呟いた。
「あの男が、八百年かけて、これを書いた」
塔全体が、一つの証明だった。
高さ百五十メートル分の、たった一つの問いに対する、八百年分の挑戦の記録。
そして、俺は塔の頂上付近に目を凝らした。
最上部の数行だけが、他と違っていた。
何度も削られ、書き直された跡がある。
削って、書いて、また削って。
その最後に、一行だけが残っていた。
アルファベットで。
『I cannot solve myself.』
俺は、しばらくその文字を見上げていた。
レンが、隣で言った。
「……なんて書いてある」
「『自分自身が、解けない』」
「……八百年かけて、それか」
「八百年かけて、そこまで来たんだ」
俺は言った。
「ここが、最前線だ」
前世で、俺は何度もこの感覚を味わった。
誰かが一生をかけて登った崖の上に、自分の足がかかる瞬間。
その人は、もういない。だが、崖には手がかりが刻まれている。
「……ありがとう、エルド」
俺は、まだ会っていないその男に、そう言った。
「ここからは、俺がやる」
(第54話へ続く)
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