元数学者、異世界を数字で書き換える 第49話・第50話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第49話「世界の住所」
答えが降りてきたのは、その三日後、宿の便所の中でだった。
前世でも、そうだった。行き詰まった証明の最後の一手は、いつも机以外の場所で降りてくる。風呂とか、電車の中とか、便所とか。
品位のない話だが、事実なので仕方がない。
「――そうか」
俺は思わず声を出し、慌てて口を押さえた。
それから、猛烈な勢いで部屋に戻り、ノートを開いた。
◇◇◇
「――なあ、レン。起きろ」
「……うぅ。まだ夜中だろ」
「重要な話だ」
「明日にしろよ」
「明日には忘れる」
俺は、寝ぼけたレンを叩き起こし、卓に座らせた。
「質問だ。この部屋の広さを、俺に説明してくれ」
「……は?」
「言葉だけで。俺が見えていないと思って」
レンは、目を擦りながら答えた。
「えーと……縦が、六歩くらい。横が四歩」
「よし。じゃあ、その説明で、俺はこの部屋の広さが分かったか」
「分かるだろ」
「分からない」
俺は言った。
「お前の歩幅を知らないからだ」
レンが、動きを止めた。
「……あ」
「六歩と言われても、お前が大股なのか小股なのかで、部屋の広さは倍違う。つまり、『六歩』という数字には、意味がない」
「じゃあ、どう言えばいいんだ」
「共通の物差しを決める。たとえば、その卓の一辺を『一』とする。すると?」
「……縦が、三くらい。横が、二」
「今度は伝わった」
俺はペンを取った。
「数字が意味を持つには、必ず『何を一とするか』が要る。これを、単位という」
「知ってる。教科書に書いてあった」
「そうだ。ここからが本番だ」
俺は、紙に大きく円を二つ描いた。
「こっちが、この世界。こっちが、俺の元いた世界」
「おう」
「さて、俺はこの世界の、ある物の長さを測った。一メートルだったとしよう」
「メートルってのは、お前の世界の単位だな」
「そうだ。だが、ここに致命的な問題がある」
俺は、二つの円の間に、線を引いた。
「俺の『一メートル』は、俺の記憶の中にしかない。この世界に、比べるための本物のメートル原器は、ない」
「……」
「だから、俺がこの世界で測った『一メートル』が、元の世界の一メートルと同じ長さである保証は、どこにもない」
レンは、ゆっくり頷いた。
「歩幅と、同じか」
「同じだ」
俺は、深く息を吐いた。
「そして――これが、八百年、誰も帰れなかった理由だ」
◇◇◇
「エルドは、こう言った。世界と世界は、数学的な意味で接近する、と」
俺は、紙に二つの円を描き直した。
「つまり、世界には『位置』のようなものがある。位置があるなら、住所がある。住所が分かれば、そこへ向かえる」
「じゃあ、住所を調べりゃいいんじゃねえのか」
「そこだ」
俺はペンで、机を軽く叩いた。
「住所を書くには、単位が要る。だが、単位はそれぞれの世界の中にしかない。つまり――」
「……メートルで住所を書いても、あっちに届かない」
「そのとおり」
俺は、レンの理解の速さに、少し驚いた。半年前は、割り算で三日詰まった男だ。
「じゃあ、どうすんだよ。詰みじゃねえか」
「詰みじゃない」
俺は、紙の真ん中に、一本の線を引いた。
「この世に一種類だけ、単位が要らない数がある」
「……単位が、要らない?」
「割り算だ」
俺は、円を一つ描いた。
「この円の、周りの長さを、直径で割る。答えは?」
「えっと……」
「三・一四一五九だ。円周率という」
「それがどうした」
「その円が、木でできていようが鉄でできていようが、大きかろうが小さかろうが、答えは同じだ」
俺は、レンの目を見た。
「そして――この世界の円で計算しても、俺の世界の円で計算しても、同じだ」
レンの表情が、変わった。
「……なんで、同じって分かるんだ」
「単位が消えるからだ」
俺は、紙に書いた。
『周の長さ(メートル) ÷ 直径』
「上と下、両方にメートルがついている。割ると、消える」
「――あ」
「残るのは、ただの数だ。三・一四一五九。この数には、メートルもキロも、この世界もあの世界も関係ない」
俺は、ペンを置いた。
「こういう数を、無次元量という。物差しを持っていない相手にも、そのまま渡せる、唯一の数だ」
◇◇◇
「――で?」
レンが、身を乗り出した。
「それが、どう住所になるんだ」
「円周率じゃ、住所にならない」
俺は正直に言った。
「円周率は、どの世界でも同じだ。同じすぎる。全部の家の表札に『家』と書いてあるようなものだ」
「じゃあ、意味ねえじゃん」
「だが、単位が消える数は、円周率だけじゃない」
俺は、ノートの新しいページを開いた。
「この世界の、光や、熱や、物のできかたを支配している数がある。俺の世界では、そういう数を何十個も測っていた」
「……そういうもんがあるのか」
「ある。そして、そのいくつかは、割り算の結果として出てくる。単位が消える」
俺は、そこで一度、間を置いた。
「もし、その数が――世界ごとに違っていたら」
レンが、息を呑んだ。
「……住所に、なる」
「なる」
俺は、頷いた。
「『円周率が三・一四の世界』は無数にある。だが、『光の細かい振る舞いを決める数が、〇・〇〇七二九七三である世界』は、たぶん、そう多くない」
「……その数、なんだよ」
「俺の世界では、微細構造定数と呼んでいた」
俺は、そらで書いた。
『α ≒ 1/137.036』
「四十年、俺はこの数字を何百回も見てきた。物理をやる人間なら、誰でも覚えている」
「……で、この世界のは?」
「分からない」
俺は言った。
「まだ、測っていない」
レンが、拍子抜けした顔をした。
「測れるのか、それ」
「測れる」
俺は、はっきり答えた。
「そして、測るのに、宇宙へ行く必要はない。星を五十年数える必要もない」
俺は、カズヤの走り書きの写しを、卓に置いた。
『星の位置を五十年数えれば、この世界がどこにあるか分かる』
「……この人は、間違えていた」
俺は、その紙を指で叩いた。
「星の位置は、この世界の中の住所だ。世界そのものの住所じゃない」
「じゃあ、五十年、無駄だったのか」
「無駄じゃない」
俺は首を振った。
「間違いを一つ、完全に潰してくれた。おかげで俺は、そっちの道を探さなくて済む」
前世で、俺は何度もこの言葉を使った。
否定的な結果もまた、結果である。
「明日、王都に戻る」
俺は言った。
「戻って、何すんだ」
「道具を作る」
俺は、ノートに図を描き始めた。
「光を、数える道具だ」
「……光を、数える?」
「そうだ」
俺は、笑っていた。
三ヶ月半の復讐の間、俺は一度も、こんな笑い方をしなかったと思う。
「レン。俺は今、四十年で一番わくわくしている」
◇◇◇
その夜、俺は一睡もしなかった。
ノートに、必要な装置を書き出していく。
一つ、正確な時間の基準。振り子で作れる。
二つ、正確な長さの基準。この世界には、まだない。作る。
三つ、光を分ける道具。
四つ、光の細かい筋を、目で数えられるまで拡大する仕組み。
どれも、前世では十七世紀から十九世紀にかけて作られたものだ。
魔法はいらない。
――いや。
俺は、手を止めた。
一つだけ、魔法が要る場所がある。
これらの道具は全部、「ものすごく細かく、正確に作る」ことが命だ。髪の毛の千分の一の精度で溝を刻む。人間の手では、絶対に無理だ。
前世では、それを機械で作った。機械を作る機械を、二百年かけて育てた。
だが、俺には、二百年がない。
その代わり――
「演算展開・物体構築」
俺は、机の上の木片を掌に乗せた。
演算展開は、物の形を「数値として指定して」書き換える力だ。
数値で指定する、ということは。
精度の限界は、俺の手先の器用さではなく――俺が指定できる桁数で決まる。
「……そういうことか」
俺は、掌の木片を見つめた。
八百年、誰も帰れなかった。
だが八百年、誰も「書き換える力」と「四十年分の物理」を同時に持っていなかった。
エルドは書き換えられたが、物理を知らなかった。八百年前の人間だ。
カズヤは物理を知っていたが、書き換えられなかった。
俺は、両方持っている。
「――二人目、か」
俺は、その言葉の意味を、初めて正確に理解した。
(第50話へ続く)
ーーー
元数学者、異世界を数字で書き換える
第50話「ものさしを作る」
王都に戻ってから二ヶ月、俺は工房に籠もった。
やっていることは、地味の極みだった。
振り子を吊る。揺らす。数える。
それだけを、来る日も来る日も繰り返した。
「――なあ、ライ」
十日目に、レンがついに耐えかねて言った。
「それ、いつまでやるんだ」
「まだ足りない」
「もう二万回は数えただろ」
「二万三千四百回だ」
俺は振り子を見上げたまま答えた。
「なんでそんなに数えるんだよ」
「いい質問だ」
俺は、ようやく振り子から目を離した。
◇◇◇
「時計を作る、と言ったら、お前はどう思う」
「そりゃ、便利だなと思う」
「なぜ便利なんだ」
「時間が分かるから」
「違う」
俺は首を振った。
「時計が便利なのは、『同じ長さの時間を、何度でも繰り返し作れる』からだ」
レンが、首を傾げた。
「……同じことじゃねえのか」
「まったく違う」
俺は、振り子を指した。
「この振り子は、一往復するのに、だいたい同じ時間がかかる。だいたい、だ。誤差がある」
「どのくらいだ」
「一往復あたり、千分の三くらい」
「……十分正確じゃねえか」
「一往復ならな」
俺は言った。
「だが、誤差というのは、扱い方で消える」
俺はノートを開いた。
「一往復を測ると、誤差は千分の三。だが――百往復を測って、百で割ると?」
レンは、しばらく考えた。
「……誤差も、百で割られる?」
「そうだ」
俺は頷いた。
「千分の三が、十万分の三になる。一万往復数えれば、一千万分の三だ」
「――待て。それ、めちゃくちゃすごくないか」
「すごい」
俺は認めた。
「数を数えるだけで、精度が上がる。道具を良くするんじゃない。同じ道具を、たくさん使うだけだ」
これは、前世で俺が最も美しいと思っていた考え方の一つだった。
世界には、精密な道具を作らなければ届かない場所がある。だが、粗い道具でも、繰り返して平均すれば、驚くほど遠くまで行ける。
才能がなくても、回数で追い抜ける。
追放されたばかりの俺が、レベル3から始めて三ヶ月半でランクBまで来たのと、まったく同じ理屈だった。
「だから、俺は数えてる」
「……なるほどな」
レンは、振り子を見上げた。
「じゃあ、俺も数えるわ」
「二人で数えると、どうなると思う」
「……早く終わる?」
「違う。二人分の数え間違いが混ざる」
「なんだよそれ!」
◇◇◇
一ヶ月後、俺は「一秒」を手に入れた。
正確には、この世界における、再現可能な時間の基準を。
振り子の長さと、その周期の関係。前世の記憶にある公式は、この世界でも成立した。周期は、糸の長さの平方根に比例する。
それは、大きな意味を持っていた。
「――物理法則の形は、同じらしい」
俺はノートにそう書いた。
世界が違っても、振り子は同じ形の式に従う。落ちる物は同じように加速する。
だが、その式の中に出てくる「定数の値」が同じかどうかは、別問題だ。
形は同じ。中身の数字は、まだ分からない。
それが、俺が二ヶ月かけて確定させたことだった。
◇◇◇
次は、長さだった。
「――光を、使う」
俺は、工房の窓を全部塞いだ。
真っ暗にした部屋の壁に、小さな穴を一つ開ける。細い光の筋が、床に落ちた。
「なんだよ、これ」
「ここからが本番だ」
俺は、光の筋の前に、一枚の板を立てた。
演算展開・物体構築で作った板だ。
表面に、髪の毛よりも細い溝が、等間隔で刻まれている。
「――近くで見てみろ」
レンが、板に顔を近づけた。
「……なんか、光ってねえか?」
「虹に見えるか」
「見える」
「それだ」
俺は板を光の筋にかざした。
壁に、色の帯が広がった。赤から紫まで、順に並んだ帯が。
「うおっ」
「虹だ」
「なんで、板から虹が出るんだ」
「板が出してるんじゃない」
俺は、板をゆっくり傾けた。帯が、壁の上を滑っていく。
「光が、波だからだ」
「……波?」
「そうだ。海の波と同じで、山と谷がある。ただ、ものすごく細かい」
俺は、床に指で波を描いた。
「山と山の間隔を、波長という。赤い光は波長が長くて、紫は短い。混ざっていると白く見える」
「じゃあ、この板は」
「細かい溝で、波の進む道をずらしている。波長ごとに、ずれ方が違う。だから分かれる」
レンは、壁の虹を、食い入るように見つめていた。
「……で、これが何になるんだ」
「溝の間隔は、俺が指定した。〇・〇〇二ミリだ」
俺は、板を軽く叩いた。
「間隔が分かっていて、虹の広がる角度を測れば――光の波長が、計算で出る」
「……計算で?」
「そうだ。定規で測れない長さを、角度から逆算する」
俺は、壁に当てた帯の位置に、印をつけた。
「髪の毛の千分の一の長さを、俺は今から、この部屋の中で測る」
◇◇◇
その晩、俺は最初の数字を得た。
赤い光の波長。この世界の、太陽光の中の、ある特定の色の波の長さ。
俺は、それをノートに書いた。
そして、しばらく、その数字を見つめていた。
隣に、前世の記憶から引っ張り出した数字を書いた。
「……近い」
近い。だが、同じではない。
ずれている。
「――ライ?」
レンが覗き込んだ。
「どうだった」
「……分からない」
俺は正直に言った。
「ずれている。だが、この『ずれ』が、世界の違いによるものなのか、俺の測り方が下手なだけなのかが、区別できない」
「区別できねえと、どうなる」
「何も言えない」
俺はペンを置いた。
「これが、実験というものの一番残酷なところだ。数字は出た。だが、その数字が何を意味するかは、まだ分からない」
「……じゃあ、どうすんだ」
「精度を上げる」
俺は、もう一枚の板を作り始めた。
「溝の間隔を、十分の一にする。そして、測る回数を百倍にする」
「……気が遠くなる話だな」
「なる」
俺は言った。
「だが、これが唯一の道だ」
窓の外は、もう白み始めていた。
俺は、その夜も眠らなかった。
前世で四十年、俺は一度も、こんなに楽しい徹夜をしたことがなかった。
(第51話へ続く)




