元数学者、異世界を数字で書き換える 第47話・第48話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第47話「灰色の間」
東門をくぐると、灰色装束の男が二人、待っていた。
驚いた様子はまるでなかった。
「ライ・アーデン様ですね。ご案内いたします」
「……予約でも入ってたか」
「三日前から、お待ちしておりました」
レンが、俺の背後で剣の柄に手をかけた。俺は、指先でそれを制した。
三日前。俺たちが街道の三日目にいた頃だ。
尾根の上で数えていた俺は、同時に数えられていたわけだ。
◇◇◇
案内されたのは、町の中央の建物ではなく、その地下だった。
螺旋階段を、延々と降りた。
俺は歩数を数えた。三百七十二段。一段を十八センチとして、垂直距離およそ六十七メートル。地下二十階建てに相当する。
十九年前に枯れたはずの鉱山の、さらに下だ。
そして――階段を降りるにつれ、音が変わった。
低い、連続した唸り。振動が、石の壁越しに伝わってくる。
俺は足を止めて、壁に手を当てた。
「……周期、〇・四秒」
「なんだって?」
「振動の周期だ。一定している。これは自然物じゃない」
機械だ。しかも、精密に回転する何かだ。
この世界に、そんなものはない。
◇◇◇
通されたのは、大広間だった。
天井が高く、壁一面が――図で埋まっていた。
星図だ。それも、一枚ではない。何十枚もの星図が、時代ごとに並べられ、差分が赤い線で結ばれている。
俺は、思わず足を止めていた。
「――お気に召しましたか」
部屋の中央に、椅子が二つ置かれていた。
片方に、灰色の外套の男が座っていた。
王都で一度、接触してきた男だ。初老に見える。だが、この時、俺は初めて、その顔を正面から見た。
皺がある。白髪もある。だが――目だけが、まるで若かった。
「座ってください。長い話になります」
「その前に、名前を」
「エルド、とお呼びください」
男は、微笑んだ。
「昔の名前は、もう発音が難しくなってしまいましてね」
◇◇◇
俺は座った。レンは、背後に立ったままだった。
「まず、確認させてくれ」
「どうぞ」
「あんたたちの目的は、力の統制だと聞いた。あれは、本当か」
「半分は」
エルドは、あっさりと認めた。
「もう半分は」
「探しています」
「何を」
「帰り道を」
部屋が、しんと静まった。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
「……誰の」
「私の」
エルドは、両手を膝の上で組んだ。
「ライ・アーデン殿。あなたは、この世界の人間ではありませんね」
否定しても意味がなかった。俺は頷いた。
「ええ」
「私もです」
「……」
「そして、あなたの前に、二十七人います」
二十七。
その数字が、頭の中で反響した。
「五十年前の賢者も、その一人ですか」
「カズヤ殿ですね。二十六人目です」
エルドは頷いた。
「あなたは、二十八人目にあたります」
「あんたは、何人目だ」
「一人目です」
男は、静かにそう言った。
「八百年前になります」
◇◇◇
俺は、しばらく声が出なかった。
八百年。
「……あんた、何歳だ」
「数えていません」
エルドは、少しだけ苦笑した。
「正確には、数える意味がなくなりました。この地下には、時間の流れが歪んだ層があります。私は、その層の縁で暮らしています」
「歪んだ層」
「言い方を変えましょう。この世界と、あなたの世界と、他のいくつかの世界。それらは、完全に切り離されているわけではない」
エルドは立ち上がり、壁の星図を指した。
「ごく稀に、二つの世界が『接近』します。接近すると、境目に薄いところができる。私は、その薄いところに座っているのです」
「……接近というのは、比喩か」
「いいえ。数学的な意味です」
その一言で、俺の背筋が伸びた。
比喩でものを語る人間と、数学的な意味で語る人間は、まるで違う。
「続けてくれ」
「あなたは、ボルド・シュタインという男の理論をご覧になった」
名前が出て、俺は身構えた。
「魔法陣を数式化する理論。あれは、私が八百年前にこの世界に持ち込んだ数学の、末裔です」
「《方円録》か」
「――」
エルドの目が、初めて動いた。
「あれをご覧になりましたか」
「学院の地下で」
「なるほど。よく辿り着かれた」
エルドは、感心したように頷いた。
「あの本の末尾に、一行、書き殴りがあったはずです」
「『I cannot solve myself.』」
俺が言うと、エルドは、深く息を吐いた。
「……八百年ぶりに、あの一行を読める人間に会いました」
その声には、どこか、疲れの色があった。
「そうです。私は、自分自身を解けなかった」
「何をしようとしていた」
「帰ろうとしていました」
エルドは、星図に手を触れた。
「そして、方法は分かっているのです。ずっと前から」
「……分かっているのに、できないのか」
「ええ」
彼は、振り返った。
「ライ殿。あなたは、座標を書き換えられる。私も、かつては書き換えられました」
「かつては?」
「今は、読むことしかできません。八百年で、鈍りました」
エルドは、自嘲するように笑った。
「ですが、あなたは違う。あなたは、書き換えられる。二十八人のうち、書き換えられたのは、私と、あなただけです」
俺は、ガイウスに宛てられた報告書の一行を思い出した。
――泳がせろ。あれは"二人目"だ。
二人目。
八百年で、二人目の「書き換える者」。
「……なぜ、俺を殺さなかった」
「殺す理由がないからです」
エルドは、両手を広げた。
「私はあなたに、帰り道を渡したい。あなたが、それを完成させてくれるならば」
「見返りは」
「私も、一緒に帰らせていただきたい」
男は、深く頭を下げた。
「八百年です、ライ殿。もう、疲れたのです」
◇◇◇
帰りの階段を上りながら、レンは一言も喋らなかった。
三百七十二段を上りきり、地上の空気を吸ったところで、ようやく口を開いた。
「――信じるのか、あれ」
「半分は」
俺は答えた。
「どっちの半分だ」
「八百年生きていることと、帰り道を探していることは、たぶん本当だ」
「じゃあ、嘘は」
俺は、背後の建物を振り返った。
「『疲れた』の部分だ」
「……なんでだ」
「疲れた人間は、あんな目をしない」
俺は歩き出した。
「あの男の目は、まだ解けていない問題を前にした人間の目だった。俺は、あれを鏡で毎日見ている」
(第48話へ続く)
ーーー
元数学者、異世界を数字で書き換える
第48話「二十八人分の記録」
翌日、俺は一人で地下へ戻った。
レンは反対したが、押し切った。二人で行けば、二人が人質になる。
「――お一人ですか」
「弟子は、地上に置いてきた」
「賢明です」
エルドは、そう言って笑った。
◇◇◇
案内されたのは、昨日の大広間ではなく、その隣の書庫だった。
棚が、天井まで届いている。
「二十八人分の記録です」
エルドは、一番手前の棚に手を置いた。
「一人につき、一段。私の記録が最下段、あなたのものが最上段。まだ空ですが」
俺は、棚を見上げた。
二十七段が、埋まっている。
「見てもいいか」
「そのためにお呼びしました」
俺は、目の高さの段から、一冊を抜いた。
『第十九号 出身:不明 到着:三百二年 能力:重量操作 存命期間:十一年』
十一年。
次を抜いた。
『第二十号 到着:三百四十一年 能力:発熱 存命期間:四年』
四年。
その次。
『第二十二号 到着:四百十年 能力:不明(発現せず) 存命期間:一年二ヶ月』
俺は、棚から離れた。
「……短いな」
「ええ」
エルドは頷いた。
「二十七人の平均存命期間は、七年三ヶ月です」
「死因は」
「様々です。病、事故、戦、処刑。ですが、最も多いのは――」
彼は、少しだけ声を落とした。
「自死です。二十七人中、九人」
三分の一。
俺は、その数字を頭の中に置いた。
「理由は、記録に?」
「ある程度は」
エルドは、別の棚から一冊を引き抜き、開いた。
「共通しているのは、こうです。到着直後の数年、彼らは非常に活発です。持ち込んだ知識で、この世界を変えようとする。多くが成功します」
「そして?」
「五年から七年で、止まります」
エルドは、ページを繰った。
「知識が、尽きるのです」
その一言は、思ったより深く刺さった。
「元の世界で学んだことを、全部出し切ってしまう。すると、その先がない。この世界には、彼らの知識を更新してくれる図書館も、同僚も、論文もない」
「……」
「一人になるのです。誰とも、専門の話ができない。それが、五年続くと」
エルドは、本を閉じた。
「人は、壊れます」
俺は、返す言葉がなかった。
前世で、俺は同僚と喧嘩ばかりしていた。査読で潰され、人事で負け、若手に追い抜かれた。
その全部が――「話が通じる相手がいる」という前提の上に乗っていたことを、俺はこの瞬間に理解した。
◇◇◇
「二十六人目、カズヤという人の記録は」
俺が言うと、エルドは、少し困ったような顔をした。
「そこだけが、空白なのです」
「空白?」
「彼は、記録を拒みました」
エルドは、上から二段目の棚を指した。
そこには、たった一冊しか置かれていない。それも、薄い。
「五十年前、彼は東部に現れ、農法と建築を教え、七年後に姿を消しました。我々の追跡から」
「消えた?」
「北東へ向かったことは分かっています。その先は、追えていません」
エルドは、その薄い一冊を俺に渡した。
中には、数枚の紙しか綴じられていなかった。
農法の記録が二枚。
そして最後の一枚に、走り書きがあった。
『追ってくるな。私は数えているだけだ』
続けて、こう書かれていた。
『星の位置を五十年数えれば、この世界がどこにあるか分かる』
俺は、その一行を三度読んだ。
「……エルド。あんた、この一行の意味が分かるか」
「五十年、考えました」
エルドは、正直に言った。
「星を数えて、世界の場所が分かる。それは、天文学的な意味であれば理解できます。ですが――」
「世界の場所は、天文学では分からない」
俺が言うと、エルドは、鋭く俺を見た。
「……分かるのですか」
「いや」
俺は首を振った。
「分からないから、この一行が引っかかる」
頭の中で、何かが動いていた。
星の位置というのは、この世界の中での座標だ。地球で言えば、太陽系の中での位置。銀河の中での位置。
それは「この宇宙の中のどこか」を教えてくれる。
だが――「この宇宙が、どの宇宙か」は、絶対に教えてくれない。
部屋の中で自分の座標を測っても、その部屋がどのビルの何階かは分からない。それと同じだ。
「……何かを、見落としている」
俺は、紙をエルドに返した。
「借りてもいいか、それ」
「写しをお作りします」
「頼む」
◇◇◇
地上に戻ると、日が傾いていた。
レンが、宿の前で待っていた。
「どうだった」
「……」
俺は、答えられなかった。
頭の中を、二つの数字が回っていた。
二十七人の平均存命期間、七年三ヶ月。
自死、三分の一。
「ライ?」
「レン」
「なんだ」
「俺は、この世界に来て、まだ一年経っていない」
「そうだな」
「あと六年で、俺は壊れるらしい」
レンは、意味が分からないという顔をした。
「……なんの話だ」
「先に来た二十七人の、平均値だ」
俺は、宿の壁にもたれた。
「知識が尽きて、話が通じる相手がいなくなって、それで壊れるんだそうだ」
レンは、しばらく黙っていた。
それから、あっさりと言った。
「じゃあ、俺が勉強すりゃいいだけだろ」
俺は、顔を上げた。
「……は?」
「話が通じる相手がいねえのが問題なんだろ。じゃあ、俺が通じるようになりゃいい」
レンは、当たり前のことを言うような顔をしていた。
「割り算は分かった。次は何だ」
「……レン」
「なんだよ」
「お前、それがどれだけ大変か分かってないだろ」
「分かってねえ」
即答だった。
「けど、お前が七年で壊れるってのは分かった。じゃあ、六年でなんとかすりゃいいんだろ」
俺は、笑うしかなかった。
六年で、四十年分の数学を教える。
前世の俺なら、不可能だと切り捨てた。
だが――今の俺は、そういう見積もりの立て方をしない。
不可能かどうかは、やってみて、データを取ってから決める。
「……比、から始めるぞ」
「おう」
「あと、お前が思ってるより、はるかにきつい」
「知ってる」
「知らないだろ」
「知らねえ」
レンは、笑った。
その夜、俺はデルヴィンの宿の卓で、教科書の第二部を書き始めた。
(第49話へ続く)




