元数学者、異世界を数字で書き換える 第45話・第46話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第45話「調査官」
灰色商会の男との接触から数日後、俺はギルドで、思わぬ人物に呼び止められた。
「――ライ・アーデン殿、少しお時間よろしいでしょうか」
声をかけてきたのは、以前、聞き取り調査を行った、あの調査官だった。
「……また、あなたか」
「覚えていただけて光栄です」
調査官は、静かに微笑んだ。だが、その目は、以前と変わらず鋭かった。
「白銀の獅子の四名、未だ行方不明のままです」
「そうか」
「捜索は、難航しております。手掛かりが、あまりにも少なすぎる」
調査官は、静かに俺を見つめた。
「あなたは、彼らと最も関係の深い人物です。何か、ご存知のことは?」
「知らないな」
俺は、静かにそう答えた。
「そうですか」
調査官は、それ以上追及することはなかった。だが、その沈黙には、確かな疑念が滲んでいた。
「一つ、お伝えしておきます」
「なんだ」
「あなたの、この三ヶ月あまりの行動記録には、空白が、驚くほどありません」
その言葉に、俺は静かに眉をひそめた。
「習慣というのは、抜けないものですね。几帳面な記録癖、あなたが仰っていた通りです」
調査官は、静かに手帳を閉じた。
「証拠は、まだ何もありません。ですが――いずれ、揃うかもしれません」
「……脅しか?」
「いいえ、忠告です」
調査官は、静かに一礼すると、その場を後にした。
俺は、しばらくその背中を見送りながら、静かに考えを巡らせた。
(記録、か)
前世からの習慣で、俺は自分の行動を、無意識に整理し記録する癖がある。それが、皮肉にも、自分自身の首を絞める可能性がある――そんな示唆だった。
「面倒なことに、なってきたな」
俺はギルドを後にした。
◇◇◇
家に戻ると、レンとゼロが、いつも通り出迎えてくれた。
「どうした、浮かない顔して」
レンが、心配そうに声をかけてきた。
「ギルド調査官に、探りを入れられた」
「……マズいのか」
「証拠はない。だが、時間の問題かもしれない」
俺は、静かにそう答えた。
「灰色商会も、ギルドの調査も、両方から挟まれてる状況だな」
「……どうする?」
レンの問いに、俺はしばらく考えた。
「まずは、デルヴィンだ」
「灰色商会の本拠地、か」
「ああ。奴らの正体を、もっと詳しく知る必要がある」
俺は、静かに拳を握りしめた。
「このままじゃ、いつまで経っても、後手に回り続けることになる」
「俺も、行くぞ」
レンが、迷うことなくそう言った。
「危険だぞ」
「知ってる。だが、俺はお前の弟子だ。師匠を一人で危険な場所に行かせるわけにはいかねえ」
その言葉に、俺は静かに笑った。
「頼りにしてる」
「クゥン!」
ゼロも、任せろとばかりに元気よく鳴いた。
◇◇◇
その夜、俺は窓辺に立ち、静かに夜空を見上げていた。
復讐編を終えてから、およそ一ヶ月。家を建て、レンを弟子に迎え、ボルドとの約束も果たした。
穏やかな日常は、確かに、俺の中の何かを癒してくれていた。四人分の重さを、完全に消化できたわけではない。それでも、少しずつ、前を向けるようになっていた。
だが――その平穏も、そう長くは続かないだろう。
灰色商会。旧鉱山都市デルヴィン。ギルドの調査。そして、ガイウスが最期に残した、あの言葉。
「……知りすぎていた、か」
静かに、その言葉を反芻する。
帳簿の話だけでは、説明のつかない何か。奴らが本当に恐れていたものの正体は、まだ、闇の中だった。
「まだまだ、答えの出ない計算式が、いくつも残ってるな」
俺は静かに拳を握りしめた。
前世で四十年、俺はどんな難問にも、地道に向き合い続けてきた。今度もまた、同じだ。
「――さて」
俺は静かに窓を閉め、これからのことに、思いを馳せ始めた。
デルヴィンへの調査、灰色商会との対峙、そして、まだ見ぬ真実。
穏やかな日常は、次の局面へと向かおうとしていた。
(第46話へ続く)
ーーー
元数学者、異世界を数字で書き換える
第46話「デルヴィンへ」
出発の準備に、俺は五日かけた。
レンには「慎重すぎる」と言われたが、そうではない。
危険な場所に行くとき、生死を分けるのは、勇気ではなく準備の質だ。前世で登山をやっていた同僚がよく言っていた。「山で死ぬのは、山を舐めた奴じゃない。荷物のリストを作らなかった奴だ」と。
俺はリストを作った。
【携行品リスト】
・水:一人一日三リットル×往復六日=十八リットル(演算展開で軽量化可能)
・保存食:同上
・ポーション:上級三、中級六
・記録用ノート:三冊、予備の墨
・計算機(小型版):一
・ゼロの餌:干し肉、六日分
・退路:三本
最後の一行が、一番重要だった。
「退路が三本ってのは、なんだ」
レンが覗き込んで言った。
「敵地に入るとき、出口を一つしか用意しないのは自殺行為だ」
俺は地図を広げた。
「一本目、正規の街道。塞がれる可能性が一番高い」
「二本目は」
「北の廃坑道。十九年前の閉山記録に、封鎖されていない旧坑口が三つ残っている」
「よく調べたな」
「三本目は」
俺は、地図の何もない場所を指した。
「ここに、俺が結界を張っておく」
「……何もないぞ」
「今はな」
俺は、懐から小さな石を取り出した。
演算展開・境界設定を使って作った、座標の標識だ。特定の数値を刻み込んだ石を先に置いておけば、そこを目印に、遠距離の座標移動が――ごく短時間だけ――可能になる。
「これを、道中に三個置く」
「跳べるのか、そこまで」
「一回だけ、片道」
俺は正直に言った。
「限界距離は、たぶん二百メートル前後。それ以上は、演算が破綻する」
「二百かよ。少なくねえ?」
「壁一枚の向こうに出られれば、それで十分な場面はいくらでもある」
前世で、俺は非常口の位置を必ず確認する人間だった。使ったことは一度もない。
使わずに済んだのは、確認していたからだと思っている。
◇◇◇
王都を出て三日目、俺たちは荒れた街道を北東へ進んでいた。
景色は、日を追うごとに乾いていった。
二日目までは畑があった。三日目には、それが低木の草地になった。
「……人が、いなくなってきたな」
レンが呟いた。
「クゥン」
ゼロは、さっきから落ち着きがない。
俺は歩きながら、道の脇に目をやっていた。
「レン。この三日で、荷馬車と何台すれ違った」
「え? ……えーと、二十台くらいか?」
「二十三台だ」
「よく数えてるな」
「そのうち、デルヴィン方向から来たのは、何台だと思う」
レンは考えた。
「半分くらい、じゃねえのか」
「ゼロだ」
レンの足が止まった。
「……全部、王都方向から来たのか?」
「違う。全部、王都方向へ向かっていた」
俺は言った。
「二十三台とも、北東から南西へ。逆向きは一台もない」
「……それって」
「物が、一方向にしか流れていない」
街道というのは、本来、双方向の管だ。片方向にしか物が流れないなら、それは街道ではなく、排水路だ。
「デルヴィンから、何かが運び出され続けている」
俺は歩みを再開した。
「そして、そこへ運び込まれるものは、この道を通っていない」
「別の道があるってことか」
「あるいは、運び込む必要がないか」
廃坑だ。掘り出す場所であって、入れる場所ではない。
だが――十九年前に枯れたはずの鉱山から、まだ何かが出続けている。
「……何を掘ってるんだ、あそこは」
レンが呟いた。
俺は答えなかった。
答えられるだけの数字が、まだ揃っていなかった。
◇◇◇
四日目の夕方、俺たちはデルヴィンを見下ろす尾根に立った。
谷底に、灰色の町があった。
屋根の三割が落ち、道には草が生えている。廃墟としては、教科書通りの姿だった。
だが。
「……煙が、出てるな」
レンが目を細めた。
「三本」
俺は数えた。
「西の建物と、中央の塔、それから北の坑口」
「廃墟にしちゃ、生活感がありすぎるだろ」
「そうだ。だが、そこじゃない」
俺は、町全体を眺めていた。
「見ろ。道に草が生えている」
「そりゃ、廃墟だからな」
「じゃあ、なんで一本だけ、草が生えていない道がある」
レンが、身を乗り出した。
町の東門から、中央の建物まで。一本の道だけが、はっきりと黒い土を晒していた。
「……踏み固められてる」
「毎日、大勢が通っている証拠だ」
俺は、その道の幅を目測した。荷馬車が二台すれ違える幅。
「町の人口は、閉山前で四千人。今は、公式には十七人」
「十七人であの道は、無理だな」
「無理だ」
俺は、演算加速を軽く発動させた。視界が引き伸ばされ、細部が拾えるようになる。
中央の建物の周囲に、人影があった。
数えた。
「――百二十一人」
「は?」
「今、視界に入る範囲だけで、百二十一人。建物の中を含めれば、数倍いる」
「……公式記録の、四十倍か」
「六十倍を超えるかもしれない」
俺は、目を閉じて数字を頭に置いた。
記録と現実が、これほど乖離している場所は、たいてい一つの意味しか持たない。
誰かが、意図的に、記録を書き換えている。
◇◇◇
その夜、俺たちは尾根の陰で野営した。
火は焚かなかった。
「……なあ、ライ」
毛布にくるまったレンが、小声で言った。
「明日、正面から行くのか」
「そのつもりだ」
「……正気か」
「正気だ」
俺は、ゼロの背を撫でながら答えた。
「あそこには、百人単位の人間がいる。奇襲で制圧できる規模じゃない。それに――」
「それに?」
「奴らは、俺を殺す気がない」
俺は、確信を持ってそう言った。
「もし殺す気なら、この三ヶ月で何度でも機会があった。王都で、俺は無防備に外を歩いていた」
「……じゃあ、何のつもりだ」
「観察だ」
俺は言った。
「向こうは、俺を数えている。俺と同じやり方で」
レンが、寝返りを打った。
「……気持ち悪いこと言うなよ」
「事実だ」
俺は空を見上げた。
星は、王都で見るのと同じ配置だった。
だが、地平線の低い位置に、王都からは見えない星が三つ、並んで昇っていた。
俺は、無意識にその位置を記録した。
なぜそうしたのかは、この時はまだ分かっていなかった。
(第47話へ続く)




