元数学者、異世界を数字で書き換える 第43話・第44話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第43話「王立魔法学院」
冊子を書き終えてから一ヶ月後、俺の家に、一通の書状が届いた。
王立魔法学院の紋章が押されていた。
『貴殿が保持されると聞き及ぶ、故ボルド・シュタイン氏の研究記録につき、学院として正式に照会したく――』
差出人は、学院の理論魔法学部門主任、オーウェン・カルネスという名だった。
「……来たか」
俺は書状を卓に置いた。
ボルドとの約束を、俺はまだ果たしていない。
――あんたのノートを使って何かを発表するとき、俺は、あんたの名前を載せる。
共著だ、と俺は言った。
死人と共著論文を書く方法を、俺はまだ知らない。
◇◇◇
学院は、王都の北区にあった。
白い石造りの、無駄に立派な建物だった。前世の大学と、雰囲気が驚くほど似ている。廊下が長く、天井が高く、そして――やたらと肩書きの札が多い。
「――ようこそ、ライ・アーデン殿」
部門主任のカルネスは、五十がらみの、痩せた男だった。
応接室の卓を挟んで、彼は単刀直入に切り出した。
「率直に申し上げます。我々は、シュタインの研究記録を、学院の所蔵として引き取りたい」
「理由を」
「あれは、二十年前にこの学院が捨てたものです」
カルネスは、目を伏せた。
「私は当時、実技試験の審査員の一人でした。彼を落としたのは、私です」
俺は、黙って続きを待った。
「彼の理論は、当時、誰にも理解されなかった。魔法を数式で書くなど、詩を重さで測るようなものだと、皆が笑いました。私も笑った一人です」
「今は」
「今は、笑っていません」
カルネスは、顔を上げた。
「三年前、この学院に、彼の理論を独自に再発見した学生が現れました。優秀な子です。ですが、その子が導いた式は、シュタインが二十年前に書いたものの、劣化版でした」
「……」
「私は、二十年、学院の進歩を止めたのです」
沈黙が落ちた。
俺は、卓の上のノートに手を置いた。三冊。ボルドが最後まで手放さなかったものだ。
「一つ、条件があります」
「なんでしょう」
「発表する際、著者名は『ボルド・シュタイン』とすること」
カルネスが、眉を上げた。
「それは、当然のことでは」
「いえ。当然ではありません」
俺は、はっきりと言った。
「未整理の草稿を、他人が整理して発表するとき、著者名は整理した側になることが多い。学院が引き取り、学院の研究者が体系化すれば、いずれ『カルネス理論』と呼ばれることになる」
カルネスの表情が、固まった。
「……それは」
「あなたがそうするとは言っていません。ですが、二十年後の誰かがそうしないという保証は、どこにもない」
俺は、ノートを卓の中央へ滑らせた。
「だから、最初に決めておきたい。この理論の名前は、『シュタイン=アーデン境界式』です」
「……アーデン?」
「俺の名前です」
俺は言った。
「俺が付け足した部分がある。境界を面ではなく関数として定義した箇所は、俺の寄与です。それは正直に書きます」
「それだけの理由で、共著に?」
「それが理由です」
俺は、まっすぐカルネスを見た。
「一パーセントでも寄与したなら書く。一パーセントも寄与していないなら書かない。それが、俺のいた場所での作法でした」
カルネスは、長いこと、ノートを見つめていた。
やがて、彼は立ち上がり、深く頭を下げた。
「……お預かりします。シュタイン=アーデン境界式として、必ず」
◇◇◇
学院を出るとき、廊下で、若い学生とすれ違った。
十七、八だろうか。抱えた紙束から、走り書きの数式が覗いている。
彼は俺を見て、足を止めた。
「あの――ライ・アーデン、さんですか」
「そうだが」
「――!」
学生は、紙束を落としそうになった。
「あ、あの、俺、境界式の再発見をやった者で! カルネス先生から、シュタイン先生の草稿が来るって聞いて、それで――」
「君か」
俺は、床に散らばりかけた紙を一枚拾い上げた。
覗いた式は、確かに稚拙だった。ボルドのものより、遥かに回り道をしている。
だが、方向は合っていた。
「――君、ここの符号が逆だ」
「え」
「境界の外側から書こうとしているから、こうなる。内側から書いてみろ」
学生は、紙を凝視した。
十秒ほど、固まっていた。
それから、勢いよく顔を上げた。
「――嘘だろ、通る! ここ、二年、詰まってたんですけど!」
「二年か」
「二年です!」
俺は、思わず笑った。
二年。ボルドは二十年だった。八百年前の誰かは、一生を費やして解けなかった。
そして俺は、廊下で三十秒だ。
これは、俺が優れているからではない。
前を歩いた人間が、道の草を刈っておいてくれたからだ。
「……名前は」
「あ、フィン・ロウズです!」
「ロウズ君」
俺は、拾った紙を返した。
「その式が本になるとき、参考文献に一行、書いておいてくれ」
「はい!」
「『シュタイン=アーデン境界式』と」
「――もちろんです!」
俺は歩き出した。
廊下の突き当たりで振り返ると、学生はまだ、紙束を抱えて立ち尽くしていた。
◇◇◇
家に帰ると、レンが庭で素振りをしていた。
「どうだった、学院」
「ノートは、預けてきた」
「約束、果たせたのか」
「果たした」
俺は、縁側に腰を下ろした。
「シュタイン=アーデン境界式、という名前になる」
「……お前の名前、二番目じゃねえか」
「順番は、寄与の大きい方が先だ」
「そういうもんか」
「そういうものだ」
俺は、空を見上げた。
ボルドは、自分の名前が学院の刊行物に載る日を、二十年待って、待ちきれずに死んだ。
いや――待ちきれずに、俺が殺した。
その事実は、名前が載っても、一グラムも軽くならない。
それでも。
「……ボルド」
俺は、誰にも聞こえない声で言った。
「あんたのノートの一ページ目、読んだよ」
――いつか、これを読む誰かへ。
「二年で追いつく子が、もう来てる」
風が、庭の草を撫でていった。
「クゥン」
ゼロが、俺の膝に頭を乗せた。
(第44話へ続く)
ーーー
元数学者、異世界を数字で書き換える
第44話「視線」
学院訪問から数日、俺は日常の中に、ある違和感を覚え始めていた。
「……また、か」
家の周囲を歩いていると、遠くの木立の陰に、微かな人の気配を感じることが、ここ数日で三度あった。
気配を追おうとすると、いつの間にか消えている。決して素人ではない、練達の斥候めいた技術だった。
「クゥン……」
ゼロも、何かを察知しているのか、時折、庭の一角に向かって低く唸ることがあった。
「お前も、感じてるのか」
俺は、静かにゼロの頭を撫でながら、周囲を見渡した。
「……灰色商会、か」
俺は静かに思考を巡らせた。
ガイウスが最期に語った、あの組織の存在。有望な人材を"取り込む"か"排除する"か、二択でしか考えないという、恐ろしい組織。
俺の噂は、既にギルド内でも広まっている。演算展開という規格外の力を持つ者として――遅かれ早かれ、奴らの目に留まるだろうことは、覚悟していた。
「レン」
「ん?」
稽古を終えたレンが、こちらを見た。
「しばらく、警戒を強めよう」
「……何かあったのか」
「まだ、確証はない。だが、妙な気配が続いてる」
俺の言葉に、レンは表情を引き締めた。
「分かった」
◇◇◇
数日後、俺はギルドへの帰り道、見知らぬ男に声をかけられた。
「――ライ・アーデン殿、で間違いないでしょうか」
上品な身なりの、初老の男だった。だが、その笑みには、どこか値踏みするような、油断ならない気配があった。
「そうだが、あんたは?」
「申し遅れました。私、灰色商会の者です」
その名を聞いた瞬間、俺は静かに身構えた。
「……随分と、堂々と名乗るんだな」
「隠す必要もありませんので」
男は、静かに微笑んだ。
「単刀直入に、お伝えしたいことがございます。我々は、あなたの力に、大変興味を持っております」
「取り込むか、排除するか。どちらかを選びに来た、ということか」
俺の言葉に、男は一瞬、驚いたような表情を見せた。
「……よくご存知で」
「情報源には、事欠かなくてな」
元パーティーメンバーたちから聞いた話を、俺は静かに思い返した。
「今回は、前者のご提案です」
男は、懐から一枚の書状を取り出した。
「我々の後援を受け入れていただければ、あなたには、これまで以上の地位と資金を、お約束いたします」
「断ったら?」
「……それは、あまり考えたくない選択肢ですね」
男の目に、初めて、明確な圧が宿った。
「我々は、寛容な組織ではありません。あなたほどの力を、野放しにしておくわけにはいかない」
静かな脅しだった。
俺は、しばらく男を見つめた後、静かに口を開いた。
「返事は、少し待ってくれ」
「……賢明なご判断です」
男は、静かに一礼すると、その場を後にした。
「……面倒なことになったな」
俺は、静かに拳を握りしめた。
◇◇◇
その夜、俺は家に戻り、今日の出来事をレンに話した。
「灰色商会が、直接接触してきたのか」
「ああ」
レンは、険しい表情を浮かべた。
「どうするつもりだ」
「まだ、決めていない」
俺は、正直にそう答えた。
「取り込まれるつもりも、大人しく排除されるつもりもない。だが、真っ向から敵対するには、まだ情報が足りなさすぎる」
「……デルヴィンの件か」
「ああ」
セリアが遺した情報。旧鉱山都市デルヴィンにある、灰色商会の本拠地。
「一度、探ってみる必要があるかもな」
俺は静かに、これからのことを考え始めた。
穏やかだった日常に、少しずつ、不穏な影が忍び寄ってきていた。
(第45話へ続く)




