元数学者、異世界を数学で書き換える 第41話・第42話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第41話「託されたノート」
ある夜、俺は工房で、ボルドの研究ノートを、改めて読み返していた。
二十年分の研究の蓄積。魔法陣の数式化理論。実技試験で結果を出せず、日の目を見ることのなかった、彼の学者としての執念の結晶だった。
「……そろそろ、約束を果たす時か」
俺はノートのページをめくった。
最後の決着の際、俺はボルドに約束していた。彼の研究成果を、正しく世に出すと。
「レン、ちょっといいか」
稽古を終え、汗を拭っていたレンに、俺は声をかけた。
「ん、なんだ」
「王立魔法学院に、行こうと思う」
「学院?」
レンは、意外そうな顔をした。
「何しに行くんだ」
「ある人の研究成果を、正式に発表するためだ」
俺は、ボルドのノートを見せながら、事情を説明した。
「……そうか。あんたが倒した相手の、研究ってわけか」
レンは、複雑そうな表情を浮かべた。
「気になるか」
「いや、別に。ただ――お前、律儀だな」
「約束は、約束だ」
俺は静かにそう答えた。
「殺した相手との約束を守るなんて、矛盾してると思うか?」
「思わねえよ」
レンは、あっさりと首を振った。
「筋が通ってるかどうかは、お前が決めることだろ。俺がとやかく言うことじゃねえ」
その言葉に、俺は少しだけ、救われたような気がした。
◇◇◇
数日後、俺はレンとゼロを連れ、王立魔法学院へと向かった。
王都の中心部にそびえる、荘厳な石造りの建物。かつてボルドが学び、そして挫折した場所だった。
「――何用でしょうか」
受付の職員が、警戒するような視線を向けてきた。当然だろう、部外者が突然、こんな場所を訪ねてくることは珍しい。
「魔法陣理論の研究に関する、重要な資料を持参しました。責任者の方に、お取り次ぎいただけますか」
俺は、努めて丁寧にそう告げた。
職員は、しばらく訝しげな顔をしていたが、ボルドのノートを一目見せると、表情を変えた。
「これは……この筆跡は……」
「ご存知ですか」
「まさか……ボルド・シュタイン殿の……?」
職員の声が、震えていた。
「少々、お待ちください」
◇◇◇
通された応接室で、俺たちを待っていたのは、白髪の初老の男性だった。
「ボルドの、教え子だった者だ。今は、この学院で教鞭を執っている」
男性は、静かに自己紹介した。
「彼は今、どこに」
「……亡くなりました」
俺は、静かにそう告げた。
男性は、しばらく沈黙していた。
「そうか」
「彼が生前、研究していた理論です。目を通していただけますか」
俺は、ノートを差し出した。
男性は、震える手でページをめくり始めた。
「これは……」
やがて、その目が、大きく見開かれた。
「魔法陣の、数式化……。馬鹿な、こんな精緻な理論を、あいつは一人で……」
「彼は、二十年間、この理論を磨き続けていました」
「なぜ、もっと早く、学院に持ち込まなかった……」
男性は、悔しそうに呟いた。
「彼は、実技試験の失敗で、道を諦めたと言っていました」
俺の言葉に、男性は静かに目を閉じた。
「……そうか。あの時の失敗が、そこまで彼を苦しめていたとは」
「今からでも、遅くはないでしょうか」
俺の問いに、男性は静かに顔を上げた。
「――遅くない。むしろ、この理論は、学院の魔法研究を、大きく前進させるものになるだろう」
その言葉に、俺は静かに息を吐いた。
「発表の際は、彼の名前を、正式に記載してください。共同研究者として、俺の名前も添えて構いません」
「共同研究者、か」
男性は、興味深そうに俺を見つめた。
「君は、何者だ」
「ただの、彼の"生徒"のようなものです」
曖昧に、俺はそう答えた。
◇◇◇
学院を後にした俺たちは、静かに王都の街を歩いていた。
「……これで、良かったのか」
レンが、静かに問いかけてきた。
「ああ」
俺は頷いた。
「約束は、果たした」
空を見上げると、夕暮れの光が、街全体を茜色に染めていた。
ボルドの二十年分の執念が、ようやく、正しい形で世に出る。それは、彼を殺した俺にできる、せめてもの償いだった。
「……ボルド」
静かに、その名を呼んだ。
答えは、返ってこない。だが、それでいいのかもしれない、と思った。
「クゥン」
ゼロが、足元で静かに寄り添った。
「帰るか」
俺はそう言うと、家路についた。
(第42話へ続く)
ーーー
元数学者、異世界を数字で書き換える
第42話「演算展開の教科書」
家が建ってから、俺の生活には、妙な悩みが増えた。
レンに、教えることがうまくいかないのだ。
「――だから、踏み込みの時に、右膝の角度をな」
「角度って、どのくらいだ」
「浅すぎる。もっと」
「もっとって、どのくらいだよ」
「……感覚で言うと」
そこで俺は言葉に詰まった。
感覚で言うな、というのが、俺がこいつに教えている内容の全部だからだ。
「――だめだな、これは」
俺は縁側に腰を下ろした。
「なんだよ、急に」
「俺の教え方が悪い」
レンは、木刀を肩に担いで、隣に座った。
「いや、十分すごいと思うぞ。前より確実に速くなってる」
「速くなってるのは、俺がその場で数字を測って、その場で指摘してるからだ」
俺は、地面に落ちていた小枝を拾った。
「これは、教育じゃない。伴走だ」
「違うのか」
「違う。俺がいなくなったら、お前は元に戻る」
レンの表情が、少し硬くなった。
「……それは、困るな」
「困る」
俺は小枝で、地面に線を引いた。
「前世で、俺は大学というところで数学を教えていた。そこで一番よく見た失敗が、これだ」
「どんなだよ」
「教える側が、優秀すぎる場合。その場で答えを出せる人間は、答えを出してしまう。すると、学生は答えを受け取って、帰る」
「……それの何が悪いんだ」
「次の問題が解けない」
俺は線の隣に、もう一本、線を引いた。
「答えを渡すのは、魚を渡すのと同じだ。腹は満ちるが、明日また腹が減る。必要なのは――」
「釣り方、か」
「そうだ」
レンは、しばらく地面の二本の線を見ていた。
「じゃあ、釣り方って、どうやって渡すんだ」
俺は、その質問を待っていた。
「書く」
「書く?」
「本にする」
俺は立ち上がった。
「お前に教えるんじゃない。お前が、自分で読んで、自分で測って、自分で直せるようにする。そのための手順書を作る」
「……そんなもん、作れるのか」
「作る」
俺は、家の中へ向かって歩き出した。
「三ヶ月やる。手伝え」
◇◇◇
それから三ヶ月、俺とレンは、机に向かい続けた。
最初の一ヶ月は、地獄だった。
俺が書いた第一稿を、レンに読ませたら、五行目で止まった。
「……分かんねえ」
「どこがだ」
「『速度は、距離を時間で割った値である』ってところ」
俺は、頭を抱えた。
割り算という概念が、この世界の一般人には共有されていない。分数という表記も、比という考え方も、ない。
「レン」
「ん」
「お前、パンを三人で分けたことは」
「そりゃ、あるだろ」
「その時、どうやった」
「……三等分にする」
「それが、割り算だ」
レンは、まじまじと俺を見た。
「……それが?」
「それだ」
その日、俺は第一稿を全部燃やした。
◇◇◇
第二稿は、パンから始めた。
『第一章 わけるということ』
一人のパンを二人で分けると、一人あたりの量は半分になる。
これを、二で割る、という。
では、道を歩くとき、十歩の距離を五拍で歩いたなら、一拍あたり何歩か。
二歩である。
これを「速さ」という。速さとは、進んだ量を、かかった拍で割ったものである。
「……あ」
読んでいたレンが、声を上げた。
「分かる」
「分かるか」
「分かる。速さって、そういうことか」
俺は、深く息を吐いた。
三ヶ月分の疲労が、その一言で吹き飛んだとまでは言わないが、半分くらいは軽くなった。
「教えるってのは、こういうことか」
レンが、しみじみと言った。
「難しい話を難しく言うんじゃなくて、パンから始めるんだな」
「そうだ」
俺は頷いた。
「難しい言葉を使うのは、簡単なんだ。難しいのは、難しいことを、パンの話に翻訳することだ」
「……前世でも、そうだったのか」
「そうだ。そして、それができる人間が、大学には少なかった」
俺は、ペンを走らせながら言った。
「俺も、できてなかった」
「今は?」
「今は、目の前に、パンから説明しないと分からない弟子がいる」
「悪かったな」
「褒めてる」
俺は本気でそう言った。
前世で、俺の講義は難解だと評判だった。四十年、俺はそれを「学生の準備不足」だと思っていた。
違ったのだ。
分からない人間が目の前にいなければ、教科書は書けない。
レンは、俺が四十年間持てなかった、たった一人の読者だった。
◇◇◇
半年後、『演算展開・第一部 数えることについて』は、七十二ページの冊子になった。
内容は、正直に言えば、恐ろしく初等的だ。
第一章 わけるということ(割り算)
第二章 くらべるということ(比)
第三章 はかるということ(単位と基準)
第四章 ためすということ(実験と記録)
第五章 剣の速さをはかる
演算展開の技は、一つも書いていない。
書けないからだ。
あれは俺の体に宿った力であって、読んで身につくものではない。
だが――力の使い方の根っこにある考え方は、書ける。
「なあ、ライ」
完成した冊子を捲りながら、レンが言った。
「これ、俺以外の奴が読んでも、分かるのか」
「分かるはずだ」
「試してみるか」
「どうやって」
レンは、にやりと笑った。
「近所のガキども、うちの庭でよく遊んでるだろ」
◇◇◇
三日後、俺の家の庭に、村の子供が七人集まっていた。
一番小さいのが六歳、一番大きいのが十一歳。
「――えー、それでは」
教壇代わりの切り株の上で、レンが咳払いをした。
「今日は、パンをわける話をする」
俺は縁側から、その様子を眺めていた。
レンの説明は、下手だった。順序が飛ぶし、脱線するし、途中で自分が分からなくなって、俺の方をちらちら見る。
だが、子供たちは、聞いていた。
「――ってことは、兄ちゃん」
一番小さい子が手を挙げた。
「お兄ちゃんの剣も、はかれるの?」
「おう、はかれるぞ」
「はかったら、強くなる?」
レンは、少し詰まった。
それから、切り株から降りて、その子の目線までしゃがんだ。
「はかっただけじゃ、強くなんねえ」
正直な男だ、と俺は思った。
「けどな。はかると、どこが弱いか分かる。分かると、そこを直せる」
「なおしたら?」
「強くなる」
子供が、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、はかったら強くなるじゃん!」
「――うるせえな、そういうことだよ!」
レンが照れて怒鳴り、子供たちが笑った。
俺は、縁側で茶を啜っていた。
「クゥン」
膝の上で、ゼロが尻尾を揺らした。
「……ああ」
俺は、ゼロの頭を撫でながら、庭を見ていた。
三年間、俺の書いたものを読んだ人間は、この世界に一人もいなかった。
今、七人いる。
「……悪くない、な」
前世で四十年やって、届かなかった場所に、今日、届いた気がした。
(第43話へ続く)




