元数学者、異世界を数学で書き換える 第35話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第35話「名前のない石」
ガイウスの亡骸を、俺は森の外れに埋めた。
四人目だ。
だが、四人目にして初めて、俺はまともに墓を掘った。ダグは採石場に、セリアは森に、ボルドは演習場跡に、それぞれ置いてきた。あの時は、そうすることしか考えられなかった。
今は、少しだけ、頭が動いた。
「……手が、足りないな」
スコップは持っていない。俺は演算展開で土を掻き出した。地面の土を、一時的に「密度の低い状態」に書き換えて、掬い上げる。
二時間かかった。
その間、レンは黙って見ていた。手伝おうとして、途中でやめた。それが正しいことを、こいつは分かっている。
埋め終わったあと、俺は森を出て、王都郊外の丘へ向かった。
あとの三人は、そこへ運び直すつもりだった。
一週間かかった。
◇◇◇
丘の上に、俺は四つの石を並べた。
演算展開・物体構築。ただの、四角い石だ。
名前は、刻まなかった。
「……刻まないのか」
レンが、隣で言った。
「ああ」
「なんでだ」
俺は、しばらく答えられなかった。
「刻んだら、俺は毎回、名前を読むことになる」
「そりゃそうだろ」
「毎回、名前を読んだら」
俺は、石の一つに手を置いた。表面は、まだ冷たかった。
「毎回、迷うことになる」
レンは、何も言わなかった。
俺は続けた。
「ダグは、俺の書いた文字を読むために、三年かけて字を覚えていた」
「……」
「セリアは、俺を外そうという手紙の下書きに、『本当に、それでいいの?』と書いて、消していた」
「……」
「ボルドは、二十年前のノートの一ページ目に、『いつか、これを読む誰かへ』と書いていた」
俺は、四つ目の石に手を移した。
「ガイウスは、俺の誕生日と、計算に詰まったときに眉を触る癖を、憶えていた」
風が、丘の草を撫でていった。
「名前を刻んだら、俺は毎回、その四つを思い出す。思い出すたびに、俺がやったことの計算をやり直したくなる」
「……やり直したら、答えは変わるのか」
レンが、静かに聞いた。
俺は首を振った。
「変わらない」
「なら」
「変わらないのに、やり直したくなる。それが、一番きつい」
俺は手を離した。
「だから、名前は刻まない。忘れるためじゃない。……忘れられないことを、認めるためだ」
レンは、長いこと黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「なあ、ライ」
「なんだ」
「俺、その四つの話、全部憶えたぞ」
俺は、思わずレンを見た。
「今、お前が言ったやつ。字を覚えたことと、消した一行と、ノートの一ページ目と、眉の癖」
「……なんで、憶える」
「お前が、憶えてられねえって言ってるからだ」
レンは、まっすぐ前を向いたまま言った。
「お前が石に刻まねえなら、俺が持っとく。それなら、お前は毎回読まなくて済むし、この世からは消えねえ」
俺は、返す言葉を失っていた。
「……お前」
「なんだよ」
「それを、記録っていうんだ」
「そうなのか」
「そうだ」
俺は、掠れた声で笑った。
「記録ってのは、そういうものだ。持てなくなった奴の代わりに、誰かが持つ。それだけの話なんだ」
「じゃあ、俺、記録係だな」
「……向いてるよ、お前」
「褒めてんのか、それ」
「褒めてる」
「クゥン」
足元で、ゼロが鳴いた。数に入れろ、とでも言いたげだった。
「お前もか」
俺はゼロの頭を撫でた。
◇◇◇
帰り道、レンが思い出したように言った。
「そういや、ガイウスの最期の言葉、なんて言ってた」
「『お前は、知りすぎていた』」
「……何を」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「帳簿の話じゃないと、あいつは否定した。その先を言おうとして、間に合わなかった」
「……気持ち悪いな」
「ああ」
気持ち悪い、という表現は、驚くほど正確だった。
答えの出ない問いは、腹の底に沈む。前世で四十年、俺はそういうものといくつも同居してきた。だが、これは種類が違う。
これは、俺自身についての問いだ。
俺が何を知っていて、それを誰が恐れたのか。
八百年前の写本に残された一行。五十年前に消えた賢者。北東へ伸びる扇形。
全部、同じ方向を指している。
「……北東、か」
俺は呟いた。
「行くのか」
「いずれな」
「いずれって、いつだ」
「まずは、寝る」
俺は言った。
「三ヶ月半、まともに寝てない」
レンが、少し驚いた顔をした。
「……お前、そんなに人間くさいこと言うんだな」
「元から人間だ」
「知ってる」
レンは笑って、それから、少しだけ真面目な顔になった。
「なあ、ライ」
「なんだ」
「終わったんだよな。復讐」
俺は、丘の方を振り返った。
名前のない四つの石が、夕日の中で、四つの影を伸ばしていた。
「……ああ」
終わった。
だが、終わったという感覚は、驚くほど何もなかった。
数字の上では、四が、ゼロになった。それだけだ。
引き算は、済んだ。
ここから先、俺は何を足していくのか――その計算だけが、まだ一行も書けていなかった。
(第36話へ続く)




