元数学者、異世界を数学で書き換える 第26話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第26話「八百年前の筆跡」
ボルドを討ってから、俺は十日ほど、彼の研究ノートを読み続けた。
三冊あった。厚さは、合わせて掌ほど。二十年分にしては薄い。だが、中身の密度は異常だった。
一冊目は、観測記録だ。魔法陣の効果を、条件を変えながら数百回測っている。愚直で、正確で、退屈な仕事だった。
二冊目が、その整理。
三冊目が、理論。
そして、三冊目の三十七ページ目に、あの式があった。
俺が境界設定を使うとき、頭の中に勝手に浮かんでくる形と、同じ式。
「……何度見ても、同じだな」
俺はページを撫でた。
俺の力は、俺のものだと思っていた。前世の記憶がこの世界の仕組みと噛み合って生まれた、俺だけの何かだと。
だが、二十年前に、この世界の人間が、観測だけで同じ形に辿り着いていた。
だとすれば、演算展開は、俺の力ではない。
この世界に、元々あった理だ。
その事実は、少しだけ、俺を寂しくさせた。
◇◇◇
気になることが、もう一つあった。
三冊目の巻末に、参考文献らしき記述が並んでいる。ボルドが引用した、過去の魔法陣研究の一覧だ。
十四点。
そのうち十三点は、王立魔法学院の刊行物だった。年代は百年前から二十年前まで。
だが、一点だけ、様式が違った。
『――《方円録》 巻ノ三 (写)』
それだけだ。著者名も、刊行年もない。
「方円録」
俺は、その三文字を口の中で転がした。
妙な語感だった。この国の言葉として、不自然ではない。だが、どこか――翻訳されたような手触りがある。
前世で、俺は外国語の論文を大量に読んだ。原語で書かれた文章と、翻訳された文章は、読めば分かる。翻訳文には、原語の文法が影を落とす。
この題名には、それがあった。
◇◇◇
王立魔法学院の資料庫は、想像していたより埃っぽかった。
ボルドの名前を出したら、司書は驚くほどあっさりと通してくれた。
「シュタイン先生の、お知り合いですか」
「……ええ、まあ」
「あの方は、落第されたあとも、十年ほど通っておられました。特別に閲覧を許されていたんです」
司書は、懐かしそうに目を細めた。
「うちの規則では本来ありえないことなんですが、当時の館長が『あの目をした人間を追い出したら、学院が学院でなくなる』と仰って」
俺は、返事に困った。
その目をした男を、俺は先週、殺した。
「――《方円録》という写本を探しています」
「ああ、地下の第三書庫ですね。あちらは、非公開区画になります」
「閲覧は」
「シュタイン先生の紹介があれば」
司書は、そこで少し困った顔をした。
「先生は、今、どちらに」
「……旅に出ています」
俺は嘘をついた。今日、二つ目の嘘だった。
司書はしばらく考えてから、鍵を取ってきた。
「先生の紹介ということで、記録しておきます。一時間だけですよ」
◇◇◇
第三書庫は、地下二階にあった。
湿気を防ぐためか、床も壁も石で、空気が乾いていた。
目当ての写本は、すぐに見つかった。棚の下段、麻布に包まれて。
開いた瞬間、俺は息を止めた。
図と、数式。
ボルドのノートと、同じ構造の式が、そこにあった。
だが、ボルドのものより、遥かに整理されている。ボルドが二十年かけて手探りで辿り着いた地点が、この本では序盤の三ページ目に置かれていた。
「……どういうことだ」
俺は、奥付を探した。
写本の最後のページに、写した人物の署名があった。
『百七十二年、王立魔法学院書記官 リオル・ヴァンス写』
百七十二年前の写本。
だが、これは「写」だ。原本ではない。
俺はもう一度、最初から捲った。
序文があった。
『これは、我が師より受け継ぎし書の写しである。師は、これをさらにその師より受けたと言う。原本の作られし年、既に定かならず。ただ伝えるところによれば、記されしは八百年の昔、名を持たぬ異邦の学者なりと』
俺は、その一行を三度読んだ。
八百年前。
異邦の学者。
「……八百年前?」
声が出た。
五十年前の「賢者」の話ではない。もっと、遥かに前だ。
俺は、震える手でページを繰った。
そして、巻ノ三の末尾に、それを見つけた。
数式でも、図でもない。走り書きだった。何度も写されるうちに崩れて、判読しづらくなっている。
だが、俺には読めた。
なぜなら、それは数式ではなく、日本語でもなく――
アルファベットで書かれた、たった一行だったからだ。
『I cannot solve myself.』
俺は、その一行を、指でなぞった。
「……自分自身が、解けない」
声が掠れた。
八百年前、この世界に、俺と同じものが来ていた。
そいつは、数学を持ち込み、体系を作り、写本として残した。
そして――何かを解こうとして、解けなかった。
自分自身を。
「……自己参照か」
前世で、俺が最も長く付き合った概念の一つだった。
自分自身を含む命題は、しばしば決定不能になる。「この文は偽である」。集合が自分自身を要素に持つとき、矛盾が生じる。
数学者なら、誰でも一度は壁にぶつかる場所だ。
だが――この一行を書いた人間が、何を解こうとしていたのかは、分からない。
分からないが、想像はついた。
「……帰り方、だな」
誰も聞いていない書庫で、俺はそう呟いた。
◇◇◇
一時間の閲覧時間が切れる寸前、俺は写本を棚に戻した。
持ち出す気にはなれなかった。持ち出せば、司書が咎められる。
代わりに、俺は全ページを頭の中に入れた。
「演算展開・記憶領域」
視覚情報を、そのまま数値として保持する。文字も図も、突き詰めれば座標と濃淡の集合だ。
一冊分で、頭が割れそうになった。演算展開が「記憶」に使えることを、俺はこの日、初めて実用的な形で確かめた。
階段を上りながら、俺は考えていた。
八百年前の異邦人。
五十年前の賢者。
そして、俺。
ガイウスは言った。「お前は知りすぎていた」と。
灰色商会の男は、報告書の余白にこう書いたはずだ――と、俺はまだ知らない。だが、この時すでに、俺は一つの予感を持っていた。
俺は、最初ではない。
そして、たぶん――最後でもない。
「ガイウスに、聞くことが増えたな」
俺は、書庫の扉を閉めた。
残るは、一人だった。
(第27話へ続く)




