元数学者、異世界を数学で書き換える 第20話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第20話「影狐の値段」
セリアとの決着の前に、俺には一つ、確かめたいことがあった。
ゼロの、後ろ足の傷だ。
応急処置で骨は繋いだが、付け根に残る痕は消えなかった。単純な切り傷ではない。何か硬いものが、長期間、同じ場所を締め付け続けた痕だった。
首の革紐と合わせて考えれば、答えは明らかだった。
こいつは、飼われていた。
「――シャドウフォックスの、取引価格ですか」
王都の闇市に近い裏通り、俺は魔獣を扱う仲買人の前に座っていた。
銀貨を五枚、卓に置いた時点で、男の口は軽くなった。
「そりゃまあ、高いですよ。生きたまま、無傷なら、金貨で三十枚は下らない」
「三十枚」
俺は、その数字を頭の中に置いた。
冒険者の月収が、ランクCで金貨二枚前後だ。十五ヶ月分。
「買い手は」
「そこは、勘弁してくださいよ」
「聞き方を変える」
俺は銀貨をもう五枚足した。
「シャドウフォックスは、何に使う」
男は、少し考えてから言った。
「毛皮じゃないんですよ、あれは。もっと言うと、肉でも骨でもない」
「じゃあ何だ」
「気配を消す、あの性質。あれを『抜く』らしいんです」
「……抜く?」
「詳しくは知りませんがね。生きたまま、性質だけを別のものに移す。そういう研究をしてる連中がいる、って話です」
俺は、卓の下で拳を握った。
「その連中が、無傷の個体を欲しがる理由は」
「性質が濁るからだそうで。傷めると、抜いた時に量が減るとか」
だから、拘束具で締め付けるのだ。
逃げないように。しかし、傷はつけないように。
◇◇◇
宿に戻ると、ゼロが扉の前で待っていた。
「クゥン」
「……ただいま」
抱き上げると、思ったより軽い。
俺はふと、思い立って、市場で借りてきた天秤にゼロを乗せた。
「クゥ?」
「暴れるな。すぐ済む」
分銅を足していく。
三・二キログラム。
その数字を、俺はノートに書いた。日付を添えて。
何の役に立つ数字でもない。ただ、俺は昔から、手元にあるものは全部測る癖があった。前世で、研究室の学生に「先生、それ測って何になるんですか」とよく笑われた。
答えはいつも同じだった。
――さあ。だが、測っていない数字は、絶対に使えない。
「三・二キロで、金貨三十枚か」
俺はゼロを膝に乗せ、その頭を撫でた。
「キロあたり、九枚以上だ。金より高いな、お前」
「クゥン」
「褒めてないぞ」
ゼロは、事情を分かっていない顔で、俺の指を舐めた。
分かっていなくていい、と思った。
◇◇◇
その夜、俺はノートに、別の計算を書いていた。
【灰色商会・希少種取引に関する推計】
ギルドの記録によれば、この五年で報告された希少種の目撃件数は、年々減っている。五年前に百二十七件、去年は三十一件。
減少率は、年およそ二十九パーセント。
自然減であれば、こうはならない。生息数の自然変動は、多くても年一割程度で、しかも上下に振れる。一方向に、ほぼ一定の率で減り続けるのは――誰かが、一定のペースで獲り続けている場合だ。
逆算すると、五年で少なくとも三百体近い希少種が、市場から消えている計算になった。
金貨で、九千枚。
「……小さな国の、年間予算だな」
俺はペンを置いた。
これが、灰色商会の資金源の一つ。そして、その金で有力パーティーを後援し、北東へ探索範囲を広げさせている。
全部、繋がっている。
そして、その繋がりのどこかに、俺の膝の上で眠っている三・二キロの生き物がいた。
「……なあ、ゼロ」
起こさないように、俺は小声で言った。
「俺は、お前を助けたわけじゃない。たまたま、通りかかっただけだ」
眠っているゼロの耳が、ぴくりと動いた。
「お前が助かった確率は、俺があの日、あの藪の前を通る確率と同じだ。ほとんどゼロに近い」
前世の俺も、そうだった。
ラジコンに轢かれて死ぬ確率も、限りなくゼロに近かった。
ゼロに近いだけで、ゼロではなかった。
「……偶然ってのは、不公平だな」
俺はゼロの背に、そっと手を置いた。
「同じ偶然が、片方を殺して、片方を助ける」
◇◇◇
翌朝、俺はギルドの掲示板の前に立った。
セリアが個人で受注した、単独索敵任務の依頼票が、そこにあった。
彼女ほどの人間が、パーティーを頼らず、単独で森に入る。
それが何を意味するかは、考えるまでもなかった。
「――行くぞ、ゼロ」
「クゥン」
足元で、ゼロが顔を上げた。
三・二キロの体が、俺の影に、ぴたりと寄り添った。
(第21話へ続く)




