元数学者、異世界を数学で書き換える 第19話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第19話「小さな出会い」
セリアの依頼実行日、俺は指定された森へと足を運んでいた。
だが、彼女の姿はまだ見当たらない。索敵任務という名目上、単独で森の奥を彷徨っているのだろう。
「……妙な気配がするな」
森の奥から、微かな呻き声が聞こえた気がした。俺は演算加速を軽く発動させ、感覚を研ぎ澄ませながら、その方向へと足を進めた。
藪の奥、そこに横たわっていたのは――一匹の狐に似た魔獣だった。
銀色に輝く美しい毛並み。だが、その体は傷だらけで、片方の後ろ足は不自然な角度に折れ曲がっている。
「……酷いな」
俺は思わず眉をひそめた。
明らかに、自然の外傷ではない。何か鋭利な道具で、意図的に傷つけられたような跡があった。
魔獣は、俺の気配に気づいたのか、弱々しく唸り声を上げた。だが、逃げる体力すら残っていないのか、その場から動くことはできないようだった。
「大丈夫だ、何もしない」
俺は静かに近づきながら、頭の中で素早く計算を始めた。
この魔獣の骨格、傷の深さ、失血量――すべてを数値として捉える。前世の記憶にある応急処置の知識と、演算展開を組み合わせれば、あるいは。
「演算展開・物体構築――応用」
意識を集中させると、傷ついた後ろ足の骨格データが、頭の中に浮かび上がった。俺はそれを、正常な状態の数値へと、慎重に上書きしていく。
淡い光が、魔獣の体を包み込んだ。
「――クゥン」
微かな鳴き声とともに、折れ曲がっていた足が、ゆっくりと正しい形へと戻っていく。
「……よし」
完全な治癒とまではいかないが、応急処置としては上出来だった。魔獣は、驚いたような目で自分の足を見つめている。
「痛かったな。もう大丈夫だ」
俺がそう声をかけると、魔獣は警戒しながらも、少しずつ俺との距離を詰めてきた。
やがて、そっと俺の手のひらに鼻先を寄せる。
「……懐いたのか?」
俺は少し戸惑いながらも、その頭をそっと撫でた。ふわふわとした、温かい毛並みだった。
この体――ライの記憶を辿ると、この魔獣は「シャドウフォックス」という希少種らしい。気配を消す能力に長け、めったに人前に姿を現さないという。
「なんで、こんな傷だらけになってたんだ」
独り言のように呟くと、魔獣は悲しげな目でこちらを見上げた。言葉は通じなくとも、何か訴えかけているような気配があった。
「……まあ、詳しい事情は、追々分かるかもな」
俺はそう言うと、静かに魔獣を抱き上げた。
「お前、名前はあるのか?」
魔獣は、小さく首を振るような仕草を見せた。
「なら、俺がつけてやる」
俺は少し考えた後、静かに口を開いた。
「――ゼロ、でどうだ」
意味のない名前ではない。数字の世界において、"0"はすべての始まり。何もないところから、すべてが始まる、原点の数字だ。
ボロボロの状態で見つかったこの魔獣にも、これから新しい人生――いや、新しい始まりがあってほしい。そんな思いを込めた名前だった。
「クゥン」
ゼロは、まるで気に入ったかのように、小さく鳴いた。
◇◇◇
ゼロを抱えたまま森を歩いていると、やがて開けた場所に出た。そこに、セリアの姿があった。
「あら、遅かったじゃない」
セリアは、木の幹に寄りかかりながら、こちらを見つめていた。
「……その子、どうしたの?」
「森で拾った。傷だらけだったから、応急処置をした」
「シャドウフォックス、ね。珍しい」
セリアは、興味深そうにゼロを見つめた。
「最近、この辺りで魔獣の違法な捕獲が横行してるって噂、聞いたことない?」
「……違法な捕獲?」
「ええ。灰色商会が絡んでるって話もある。希少な魔獣を捕まえて、何か実験に使ってるとか、そんな噂」
セリアの言葉に、俺は静かにゼロを見下ろした。
(こいつの傷も、それが原因だとしたら)
静かな怒りが、胸の奥でくすぶるのを感じた。
「……で、本題に入ろうか」
セリアが、静かに表情を引き締めた。
「私、あなたと戦うつもりで、ここに来たわけじゃないの」
「……どういうことだ」
「ダグは、もういないんでしょう」
セリアの声は、静かだったが、確信に満ちていた。
「知っていたのか」
「勘よ。あなたの雰囲気が、以前とは明らかに違うから」
セリアは、静かに息を吐いた。
「私も、覚悟はできてる。あの日、あなたを見下したことに対する、報いを受ける覚悟」
その言葉に、俺は静かに目を細めた。
「なら、なぜ戦うつもりはないなんて言う」
「戦っても、私に勝ち目はないでしょう。それくらいの分別は、あるつもりよ」
セリアは、静かに微笑んだ。以前のような、皮肉めいた笑みではなく――どこか、諦めにも似た、静かな微笑みだった。
「だから、代わりに――一つだけ、情報をあげる」
「情報?」
「灰色商会の本拠地。私が知る限りの情報を、全部教えてあげる」
その言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
「なぜ、そこまでする」
「さあ、なんでかしらね」
セリアは、静かに視線を逸らした。
「ただ――このまま、何も知らずにあなたが灰色商会に潰されるのは、後味が悪いから。それだけよ」
静かな沈黙が、森に流れた。
俺は、腕の中のゼロを見つめながら、静かに考えを巡らせた。
(第20話へ続く)




