元数学者、異世界を数字で書き換える 第2話
元数学者、異世界を数字で書き換える
第2話「演算展開」
ブレイズファングが再び地を蹴った。
一撃目を外した苛立ちからか、その動きは先ほどよりも荒く、それでいて速い。俺は反射的に後退しながら、頭の中で自分に起きたことを整理しようとしていた。
(座標がずれた。俺の位置――正確には、俺という"物体"の座標データが、演算によって書き換えられた)
混乱している場合じゃないと分かっていても、数学者としての性が、目の前の現象を理解せずにはいられない。
とはいえ悠長に検証している時間はなかった。ブレイズファングの爪が横薙ぎに振るわれる。
「――っ!」
咄嗟に、俺は再びあの感覚に意識を向けた。
(座標を、ずらせ)
願うように念じると、視界がわずかに歪み、体が数十センチ横に"ずれた"。爪は空を切る。
二度目ともなると、多少は感覚がつかめてきた。これは、瞬間移動ではない。俺という存在の"座標"という数値そのものを、演算によって上書きしているのだ。
だが、同時に分かったこともある。
――頭が、割れるように痛い。
まるで暗算で三桁同士の掛け算を百回続けてやらされたような、鈍い疲労感が脳の奥にわだかまっていた。おまけに、体の内側から何かがごっそりと持っていかれるような感覚もある。
(魔力、か)
この体の記憶にある知識と、目の前の感覚が結びつく。演算展開は、思考力と魔力の両方を消費する。当然といえば当然だ。数字を操作するにも、それを現実に反映させるにも、相応の"処理コスト"がかかる。
ブレイズファングが三度目の突進を仕掛けてくる。
俺はもう一度、座標をずらそうとした。
だが――。
「……ッ、遅い……!」
頭の中で計算をまとめる速度が、明らかに落ちていた。二度目の使用で、すでに思考のキャパシティが削られている。
爪が肩をかすめた。焼けるような痛みが走る。前世を含めても、これほどの痛みを感じたのは初めてかもしれない。
「くそっ……!」
俺は転がるように距離を取った。肩から血が滲むのが分かる。だが、ここで怯んでいる場合じゃない。
頭の中で、必死に思考を巡らせる。
座標をずらすだけでは、いずれ息切れする。ブレイズファングは苛立ちを増しながら、さらに攻撃の手数を増やしてくるだろう。
(なら――)
俺は地面に転がっていた木の枝を握りしめた。ただの枝だ。武器にすらならない。
だが、これを"数字"として捉えたら、どうだろうか。
硬度、質量、密度。すべては数値で表現できる。ならば、それを演算によって書き換えることも――理論上は可能なはずだ。
「頼む……!」
俺は木の枝を握りしめたまま、意識を集中させた。
頭の中に、見たこともない"数式"のようなものが浮かび上がる。硬度を示す数値、密度を示す数値。それを上書きするように、俺は強く念じた。
手の中の木の枝が、淡く発光する。
次の瞬間、木の枝は――鋼のように硬く、鋭い刃を持った即席の剣へと姿を変えていた。
「……マジか」
思わず声が漏れた。感動している暇はないと分かっていても、驚愕せずにはいられなかった。
ブレイズファングが四度目の突進を仕掛けてくる。俺は即席の剣を握りしめ、迎え撃つ覚悟を決めた。
前世で剣術の経験なんてない。だが、この体――ライという少年の記憶には、多少の戦闘技術が刻まれている。補助職とはいえ、最低限の護身術くらいは仕込まれているはずだ。
「はあああっ!」
裂帛の気合とともに、俺は剣を振るった。刃はブレイズファングの前脚を的確に捉え、硬い毛皮ごと肉を斬り裂く。
「グァアアアッ!」
魔物の絶叫が森に響いた。手応えは確かにあった。
だが、勝負はまだついていない。ブレイズファングは怒りに満ちた目で俺を睨みつけると、傷ついた前脚を庇いながらも、なおも突進の構えを見せた。
(まだ、来るか……!)
頭は限界に近い。魔力もほとんど残っていない。だが、ここで引く選択肢はなかった。
俺は最後の力を振り絞り、演算展開に意識を集中させた。
◇◇◇
その頃、パーティーの他のメンバーは休憩を終え、ライを迎えに行くところだった。
「遅いな、あいつ」
ダグが苛立たしげに舌打ちする。
「薬草採取だけなら、もう終わってる時間よね」
セリアが軽く肩をすくめた。
「森の奥で油を売っているんだろう。放っておけばいい」
ボルドが冷めた口調で言う。
だが、リーダーのガイウスだけは、わずかに眉をひそめていた。
「……いや、様子を見に行こう。この辺りは、ブレイズファングの目撃情報がある」
「はっ、ライがブレイズファングと遭遇したところで、逃げるだけの体力もありゃしないでしょ」
セリアが笑いながら言う。だが、ガイウスの表情は変わらなかった。
「万が一があっては困る。まだパーティーメンバーだ」
「今日で最後だけどな」
ダグがそう吐き捨てながらも、一応は森の奥へと足を進めた。
◇◇◇
森の奥から響く咆哮を聞いて、ガイウスたちは足を速めた。
木々の隙間から見えたのは――信じられない光景だった。
全身傷だらけになりながらも、木の枝を握りしめて立つライと、彼に対峙する巨大な狼型の魔物。ブレイズファングだ。
「あれは……!」
「ブレイズファング、だと……!?」
ダグが目を見開いた。ランクD、レベル3のライが、ランクC相当の魔物と互角に渡り合っている。
その時、ライが再び動いた。
「うおおおおっ!」
木の枝の剣を振りかざし、渾身の一撃をブレイズファングに叩き込む。魔物は断末魔の叫びとともに、地に崩れ落ちた。
森に、静寂が戻る。
ライは荒い息を吐きながら、その場に膝をついた。全身は傷だらけで、握りしめていた木の枝――いや、今や剣の形をしたそれも、力を失ったようにただの木の枝へと戻っていく。
「……勝った、のか」
呟くように言って、ライは仰向けに倒れ込んだ。
その光景を、ガイウスたちは呆然と見つめていた。
「な……なんだよ、あれ……」
ダグが震える声で呟く。
ボルドは片眼鏡の奥で目を細めていた。
「今の武器は……木の枝、だったな。それが、なぜ剣に……」
「ライ……あんた、何をしたのよ……」
セリアの声にも、動揺の色が滲んでいた。
ガイウスだけは、何も言わなかった。ただ静かに、倒れたライを見つめている。その目には――言葉にならない、複雑な感情が浮かんでいた。
(まさか、な……)
脳裏をよぎるのは、かつて耳にした噂だった。数百年に一度、常識を覆すような規格外の力を発現する者が現れる、という――。
ガイウスは、静かに拳を握りしめた。
(第3話へ続く)




