元数学者、異世界を数字で書き換える 第1話
数字というものは、恐ろしく便利だ。
例えば、目の前にあるコーヒーカップ。この取っ手の角度が何度で、持ち手までの距離が何センチで、注いだ湯が何度から何度に冷めるまでに何分かかるか――それを知っていれば、次に淹れるコーヒーは今より確実に美味くなる。
橋を架けるのも、薬を調合するのも、株価を予測するのも、恋人へのプレゼントの予算を立てるのも、全部数字だ。感覚や経験則で語られることの九割は、突き詰めれば数字で説明がつく。
俺はそれを、四十年かけて証明しようとしてきた人間だった
元数学者、異世界を数字で書き換える
第1話「役立たず、追放される」
数字というものは、恐ろしく便利だ。
例えば、目の前にあるコーヒーカップ。この取っ手の角度が何度で、持ち手までの距離が何センチで、注いだ湯が何度から何度に冷めるまでに何分かかるか――それを知っていれば、次に淹れるコーヒーは今より確実に美味くなる。
橋を架けるのも、薬を調合するのも、株価を予測するのも、恋人へのプレゼントの予算を立てるのも、全部数字だ。感覚や経験則で語られることの九割は、突き詰めれば数字で説明がつく。
俺はそれを、四十年かけて証明しようとしてきた人間だった。
大学で数学を教え、暇な時間は趣味で経済モデルの論文を書き、休日は決まって近所の河川敷を散歩する。特に代わり映えのない、平凡で、しかし俺自身は割と気に入っていた人生だ。
その日も、いつも通りの散歩だった。
河川敷の遊歩道、よく晴れた昼下がり。前方から小学生くらいの男の子が二人、はしゃぎながら何かを操作している。ラジコンカーだ。派手な赤いボディの、そこそこ値の張りそうな一台。
「もっと右!右だって!」
「わかってるよ!」
微笑ましい光景だった。俺は道の端に寄って、彼らが走らせるラジコンを避けようとした。
避けようとした、んだが。
コントローラーの操作を誤ったのか、赤いラジコンカーは猛烈な速度でこちらに突っ込んできて――俺の足を掬い、体勢を崩した俺は、まさかの、河川敷の縁石に頭から突っ込んだ。
ラジコンカーが直接殺したわけじゃない。あくまで転倒のきっかけを作っただけだ。だが結果は同じだった。
意識が遠のく中、俺は場違いにも思った。
――トラックに轢かれたなら、まだ様になったのに。
なんでラジコンなんだよ。
◇◇◇
「――ライ。ライ、聞こえてる?」
声がする。若い、それも随分幼い声だ。
目を開けると、そこは見知らぬ森の中だった。木漏れ日、湿った土の匂い、そして俺を覗き込む三人の男女。
「ぼーっとしてんじゃねえよ、役立たず」
そう吐き捨てたのは、大柄な剣士の男――ダグ・ヴァレンだった。
混乱している暇もなかった。頭の中に、見たこともない情報が次々と流れ込んでくる。
――俺の名前はライ・アーデン。十五歳。
――ここは異世界、大陸内陸部の大国ガルドレア。
――俺は駆け出しの冒険者で、ギルドランクD、レベル3。
――そして、目の前の三人は俺のパーティーメンバー。
前世の記憶と、この体に染み付いた現世の記憶。両方が同時に俺の中にあった。奇妙な感覚だったが、不思議と混乱はしなかった。数字を扱うことに慣れた頭は、情報の整理だけは得意なのかもしれない。
「ライ、大丈夫?」
気遣うような声をかけてきたのは、弓使いのセリア・ノーランだ。だが、その目はまったく心配していない。むしろ観察するような、値踏みするような視線だった。
「ああ、悪い。ちょっとぼうっとしてた」
前世の記憶が一気に流れ込んできたなんて言えるはずもなく、俺は当たり障りのない返事をした。
「ぼうっとしてた、じゃねえよ。お前が薬草の在り処もろくに把握してねえから、俺たちは無駄足踏んでるんだぞ」
ダグが苛立たしげに舌打ちする。
――薬草の在り処。
ああ、そうか。今日は薬草採取のギルド依頼だったな。頭の中の記憶を辿ると、俺はこのパーティーでいつも「補助役」を任されていた。戦闘には参加せず、薬草や鉱石の採取ポイントを地図に記録し、安全なルートを組む係。
実際、俺の作った地図とルートのおかげで、このパーティーは無駄な魔物との遭遇を大きく減らせていたはずだ。データを見る限り、遭遇率は平均より三割近く低い。
だが、この体の記憶にある限り、誰もそれを評価してくれたことはなかった。
「悪い、もう一度整理する」
俺は地面に転がっていたノートを拾い上げた。前世の記憶のおかげか、この体のライという少年が書き残した簡素なメモが、驚くほどよく理解できる。
「そんなノートより勘だろ、勘。俺たちが強えのは体で覚えてるからだ。お前みたいにチマチマ数字書いてる暇があったら剣振れよ」
ダグの言葉に、少し離れたところで戦闘の見張りをしていた魔法使いの男――ボルド・シュタインが、片眼鏡を押し上げながら口を開いた。
「まあ待て、ダグ。数字とは力の結果であって、力そのものではない。彼が何をどう書こうと、戦力になっていない事実は変わらん」
ひどく冷めた口調だった。三十一歳という年齢のせいか、パーティーの中では"知性派"を気取っているが、その実、俺のことを理解しようとする気配は微塵もない。
「そうそう。ライ、ランクDのくせにレベルも上がらないし、正直お荷物なのよね」
セリアが笑いながら言う。あら、そんなことも出来ないの、と言わんばかりの、目の笑っていない微笑みだった。
――ああ、そうか。
俺は少しずつ状況を理解し始めていた。この三人にとって、俺は「戦えない役立たず」でしかない。俺が組んでいたルートのおかげで安全に依頼をこなせていたことも、俺が事前に情報を整理していたことも、彼らの目には映っていない。
目に映る"数字"――レベルやランクという分かりやすい指標でしか、俺を測っていないのだ。
皮肉なものだ、と思う。数字が便利だと信じてきた俺自身が、その数字のせいで見下されている。
「悪いが、そろそろ本題に戻ろう」
静かな声とともに現れたのは、パーティーリーダーのガイウス・レイフォードだった。整った顔立ちに落ち着いた物腰、部下から慕われる、いかにも"理想のリーダー"然とした男。
「ガイウスさん」
「ライ。単刀直入に言う」
ガイウスは、俺の目をまっすぐ見た。それは決して冷たい目ではなかった。むしろ、どこか申し訳なさそうな――そんな目だった。
「今日の依頼が終わったら、お前にはパーティーを抜けてもらう」
――ああ、来たか。
この体の記憶の中に、薄々そんな予感はあった。ここ最近、ダグやセリアの態度は日に日に露骨になっていたし、ボルドも俺に話しかけることすらなくなっていた。
「理由を聞いても?」
「戦力として釣り合っていない。これ以上一緒にいても、お前のためにもならない」
「すまないな。これも、パーティーのためだ」
ガイウスは、いつもそう言う。部下を切り捨てる時、必ずこの台詞を使う。この体の記憶が、そう教えてくれた。
「わかりました」
俺は頷いた。
前世の記憶を持つ今の俺には、この状況に対して不思議なほど動揺がなかった。ただ、少しだけ――本当に少しだけ、悔しさのようなものはあった。
このパーティーのために、俺なりに頑張ってきたつもりだった。夜な夜な地図を書き直し、モンスターの出現データを整理し、少しでも仲間の役に立とうとしてきた。
それが「役立たず」の一言で切り捨てられる。
「今日の依頼だけは、最後まで付き合ってもらうぞ」
ダグが吐き捨てるように言った。
「薬草採取だろ。この森の奥に、ギルドが指定した薬草のポイントがある」
「わかってる」
俺は静かに立ち上がり、森の奥へと足を進めた。
◇◇◇
森の奥、薬草の群生地。俺は一人、指定された薬草を摘んでいた。
ダグたちは少し離れた場所で休憩している。もう俺に関わる気もないのだろう。今日の依頼が終われば、俺はこのパーティーから消える。
「……まあ、いいさ」
俺は独り言ちた。四十年生きた前世の経験からすれば、こんな状況、いくらでも立て直しようがある。数字はどこにいたって俺の武器だ。
薬草を摘みながら、俺はふと、この世界の"数字"について考えていた。
レベル、ランク、ステータス――目の前に表示できるというこの世界のシステムは、前世でいうところのゲームのパラメータに近い。だが、ゲームと違うのは、これが現実の生死に直結しているということだ。
レベル1が初期値で、伝説の英雄が辿り着いた最大値が1000。その差は途方もない。
だが――と俺は思う。
数字というものは、絶対的な指標であると同時に、"扱い方次第でいくらでも化ける"ものでもある。前世で俺はそれを知っていた。統計も、確率も、関数も、扱う人間次第で結果はまったく違うものになる。
レベルという数字だけを見て、俺の価値を測っている連中には――きっと理解できない話だろう。
その時だった。
森の奥から、地を這うような低い唸り声が聞こえた。
「――!」
俺は反射的に振り返った。
木々の隙間から姿を現したのは、体長三メートルはあろうかという巨大な狼型の魔物だった。全身を覆う毛は炎のように赤黒く、口からは絶えず煙のようなものが漏れている。
頭の中に流れ込んでくる、この体に染み付いた知識。
「――ブレイズファング、推定ランクC……!」
ランクD、レベル3の俺が相対していい相手じゃない。それは前世の知識がなくても分かる。
助けを呼ぼうと振り返るが、ダグたちのいる方向はここから距離がある。声は届かないだろう。
ブレイズファングが咆哮し、地を蹴った。
圧倒的な速度で迫る爪。俺の頭は、逃げるべきか、避けるべきか、そんな判断すら追いつかないまま――ただ、目の前の光景を、やけに冷静に"数字"として捉えていた。
相手の速度、俺との距離、爪の軌道。
前世で染み付いた癖。危機的状況ですら、頭のどこかが勝手に計算を始めている。
――間に合わない。
直感的にそう悟った瞬間、頭の中で何かが弾けた。
これまで意識したこともなかった、体の奥底にある"何か"。それが、まるで導かれるように反応する。
(座標を、ずらせ――!)
願うように、そう念じた。
次の瞬間、視界がわずかに歪んだ。
爪が届くはずだった場所に、俺はいなかった。いや、正確には――俺のいる"座標"そのものが、わずかにずれていた。
「――は?」
自分の声が、間の抜けたものに聞こえた。
目の前には、空振りに戸惑うブレイズファングの姿。俺は、確かに攻撃の軌道上から数十センチ、位置をずらしていた。
頭の中に、見知らぬ文字が浮かび上がる。
演算展開――アルゴリズム。
それが、俺の中に眠っていた力の名前だと、なぜか直感的に理解できた。
「……なるほど、な」
心臓は激しく脈打っていたが、思考は不思議なほど冷静だった。
数字を、操る。
座標も、質量も、この世界にある数値化できるものすべてを、俺は"演算"することで書き換えられる。
前世で四十年かけて向き合ってきたものが、今、この手の中にある。
ブレイズファングが再び唸り、間合いを詰めてくる。
俺は静かに笑った。
「悪いが――お前で、試させてもらうぞ」
目の前の魔物を見据えながら、俺は自分の中の"数字"に、意識を集中させた。
(第2話へ続く)




