30.バレエ2
バレエをやりたくてもお金がなくて続けられなかった女性がたまたま見つかった。
「でもやっていたのは10年も前のことで」
猫背になると背骨がぽつぽつ浮き出るほど細い人だった。私も数年前まではそうだった。常に飢えていて、食べることしか頭にない。人を信用しない目を彼女もしていた
。
ライゾン様を前にしてもパンとスープをかき込むこの人を令嬢に仕立てなくてはならない。
厄介だわ。本人のやる気がなければ不可能。
なぜか子どもの私が教育係になってしまった。彼女は私より8つ上の19歳。裕福な商家の家の娘さんだったらしいが、
「親が蒸発したの」
と彼女は言った。うちも似たようなものと言いかけてやめた。両親が病気になって弱ってゆくと使用人たちが逃げ出したのだ。親族に僅かな資産も奪われた。自分ではどうにもできないほど私は幼かった。今ならば誰かに頼んであいつらを陥れたい。でも私は今が幸せだから過去はもう捨てたの。思い出すこともしない。
「それからどうやって生きたの?」
私は尋ねた。
「物乞いのリーダーみたいな人に搾取されながらなんとかね。体を売るのだけは嫌だったけど、結婚も似たものかな」
彼女はまだパンとスープを交互に口へ運ぶ。だめなのよ。そんな咀嚼しながら話しては。
注意するのは明日からにしよう。今夜、ベッドでゆっくり眠ったら昔の普通の感覚に戻ってガツガツしないかもしれない。私がそうだったから。私のときは、逃げないようにライゾン様がしばらく一緒に眠ったのよね。
彼女を一人にして大丈夫だろうか。
「ちっとも眠れなかったわ」
翌朝、彼女は言った。仮の名をエイミーにした。いずれはどこかの養女にしてから嫁がせるのだろう。
バレエの講師も屋敷に呼んで、私まで股割りを体験。
「無理無理、裂けちゃう」
エイミーはすんなり。私が震えるルルベも、私では足を捻挫しそうなピルエットもやってのけた。
「すごいわね」
と先生が褒めてもドアノブから手を離さず、一人でバーレッスンもどきを続けた。きっと好きなお稽古事だったのだろう。
「ちょっと踊って見せて」
私がお願いすると音楽に合わせてエイミーは踊った。私は本当にきれいだと思った。なんというか、あの劇で見たダンサーのように衣装も着ていないのに蝶々みたいに優雅。
エイミーはバレエのレッスンよりも私との礼儀作法のほうが嫌そうだった。
頑張り屋さんなのは見て取れた。
「人生を脱却できるチャンスなの。もう泥水をすする生活は嫌。これさえできれば楽な人生になれる」
と努力を惜しまない。
わかる。私もあの生活には戻りたくない。そのためならある程度の苦行はいとわない。だからライゾン様、私にもお仕事を与えて。
「そうね。バレエをまた習うことは奥さんになったら難しいかもしれないけど鑑賞することはできるわ」
と私も励ました。
「そうよね」
仕方なしに彼女も勉強を続ける。
私はエイミーと違って無理なものは無理。例えば結婚。好きじゃない人と一緒に暮らす想像もできない。愛される自信がないのだと思う。今の私を大事にしてくださるのはライゾン様だけ。それではいけないのだろう。他の人に愛されるようにならなければならないとライゾン様に言われたら決心するのだけれど。
がさつだったエイミーは少しずつ物を丁寧に扱うようになったし、身振り手振りをやめて静かに話すようになった。本を読み、穏やかさが顔に表れるようにまでなった。バレエも順調。しかし依頼人がエイミーを気に入るとは限らない。ライゾン様は披露目会まで催す本気ぶり。それだけ金になるのだろうし、選ばれなければエイミーの今後の処遇にも悩む。ここまでしたのだからなんとしても結婚してもらいたいと願っているのだろう。お金の使い損になってしまう。
依頼人についての詳しい話をライゾン様が仕入れてきた。どうやらどこぞの金持ちが若いときにバレエをしていた令嬢に惚れたものの、その人とは身分が違いすぎて諦めたが、数十年経った今では商人でも金持ちならある程度の令嬢ならば妻にできる。それなりの資産を築けば一代貴族にだってなり得る。そんな人に求められていると知ったらエイミーが嘆くのではないかと思い、話していない。
「キリーナさん、ここ教えて」
今日は普通の算数。簡単な引き算もできないようだ。エイミーだって商人の娘だったのなら習わないのかしら。まだ女を跡継ぎにする時代じゃないのね。
エイミーはお金持ちになっても親を探さないと言った。私もたぶんしない。恨んでいるからじゃない。むしろ救えなかった後悔があるのは私のほう。私の人生にはもう関係ない。縋られても困る。仕事が終わるたびライゾン様からいただく僅かな小遣いを親にあげるのはなんか違う。私は命をかけて仕事をしている。
当然、エイミーが屋敷にいるときは他の大きな仕事は請け負わなかった。それでも売り子の手伝いや人手不足の野菜の収穫などはやらざるを得ない。エイミーは手が汚れるからと除外されたが、私は収穫した芋をカゴに入れるバイト。楽だけど地味に辛い。大きさで大中小にわける。ちょっと前は、
「違う」
と私のような日雇いに怒りをぶつける雇い主がいたが、最近はとんと見かけない。暴力をふるう人は恨みを買って誰かに殺されたのかもしれない。淘汰されてしまえばいい。
あまりにも人が集められなくてライゾン様も芋ほり。芋を仕分けする私より大変そう。三本鋤で芋を傷つけないよう、収穫漏れがないよう土を掘り返す。
だからうちに帰るとソファでうたた寝。ついでに私も。私が目を覚ましてもライゾン様は眠っていた。
「いつもそんなふうに寝ているの?」
とエイミーが不思議そうな顔をする。
「たまによ」
「親でもないのにおかしいわ」
エイミーはちょっと怒っているようだった。
そうなの? そんなこと知らないけど、もっと小さいときは私も親と寝ていた。この時間、私はあたたかくて好きなんだけどな。




