29.バレエ1
以前にバレエを見たことがある。劇場で踊る女の人は手の指先まで感情があるようだった。音楽に合わせてくるくる回る。頭より高く上がる脚は細くて棒のようなのにとてもしなやか。私は感動したけれど、連れて行ってくれたライゾン様は、
「見てるだけで足のつま先が痛くなる」
と眉間にしわを寄せた。私の知識をつけるために歌劇やピアノの鑑賞会にも連れて行ってくれたこともある。私にとっては全てが勉強。
今回の依頼はバレエをしていた令嬢の偽物を仕立てなくてはならないらしく、ライゾン様とフランクは不機嫌そうにタバコをふかす。特化した能力は限られるから適役に巡り合える確率が下がるのだ。
確かにあんなふうに踊れる人がうじゃうじゃいるとは思えない。まずは体が柔らかいことが第一条件だろうか。
「ケガをしたとでも言えばいいのに」
私は言った。
「あっちの具合とかいろいろ違うんだろうよ」
フランクは幾人か目星をつけているようだった。
「あっちの具合?」
「フランク、キリーナに変なことを吹き込むな」
ライゾン様、大声を出すくらいなら仕事は会社で済ませてきてほしいわ。
「はいはい。じゃあバレエ教室をあたってみる」
私もいつかフランクのようにライゾン様の会社で働くのかしら。そうしたら本物の秘書としてお支えしてあげる。
「頼む」
ライゾン様も書類に目を通す。
「バレエってよくケガをするんでしょう? 元々やっていた人でケガをした方はいないの?」
私は尋ねた。舞台に立てない人でちょうどいい人がいればいい。
「身長160、ブロント、ブルーアイ」
とだけライゾン様は答えた。どれもどうにもならないものだ。髪は染めればいいのかしら。目の色と背丈は簡単には変えられない。
「それよりキリーナ、昨日の続きを」
ライゾン様が言う。
「はい」
もう文字は読める。でも読み聞かせをして、ちゃんと読めているか確認される。
「もっと滑らかに。台詞のところは感情を込めて」
「はい」
私のこれは別に台詞の練習じゃない。ライゾン様にとっては私がどんな令嬢にも化けられるようにかもしれないが。
『あの花の名前を教えてくれたのはあなただったわね。そう、スノードロップ。来年も見れるかしら』
ノックがした。ライゾン様は眠っていた。
「失礼いたします」
「スティーブ、しっ」
私は指を鼻にあてた。
「失礼いたしました。夕食の時間を確認しようかと」
ライゾン様、夕方なのにもう眠っていらっしゃる。しかもリビングで。
「お疲れなのかしら。少し遅めにしてもらえる? あなたたちが先に食べてもいいわ」
私は言った。
「そういうわけには参りません」
「ライゾン様でもきっとそう言うわ。主の言うことが聞けないの?」
と私が言うと、
「キリーナ様、まるで奥様のようですね」
とスティーブがふっと笑った。
「奥様になんてなれないわ。そんな人が来たら私なんてお払い箱。ライゾン様のことだからきっと美人でボインな人を選ぶに決まってる」
それでも私はライゾン様と奥様の幸せを願うの。この家を出て。
「キリーナ様だってもうすぐ麗しいレディになれますよ」
「なれないわ」
スティーブさん、忘れないで。私が拾われてきた日のこと。ノミだらけであなただって嫌そうに私を見ていたじゃない。
「本を読み聞かせていたのですか? キリーナ様の声が落ち着くのやもしれませんね」
スティーブさんはライゾン様にブランケットをかけ、私には飲み物を持ってきてくれた。
パタンとドアが閉まるたびライゾン様のまゆ毛の上が少し動いた。眠っているからこんなにも見ていられる。本を読んでいるふりをしてあなたを見てる。たぶんこの時間は一生ではないから。本当はその手を掴みたい。でも、それはしてはいけないことなのでしょう。




