愛らしい人
待機という名の自由時間は、管理局の空気をいちばん変にする。
訓練場のほうからは、ときどき食べ物の匂いが流れてくる。乙葉の特訓に使う差し入れだろう。廊下の奥からは、誰かの笑い声。会議室のドアが開いたり閉まったりする音。みんな、戦闘服ではなく、ラフな格好で散らばっている。
いろははラウンジの端、壁際のソファに座って、膝の上のタブレットを眺めていた。待機シフト表、現場の通報ログ、避難誘導の確認。やることは山ほどあるのに、手が止まる瞬間がある。
――理由は単純だ。
廊下の向こうから、鼻歌が聞こえる。
それも、ふざけたテンポの。
「……」
いろはは眉をひそめた。鼻歌が近づき、曲がり角から姿を現す。
局長、鏡昴。
制服はちゃんと着ている。髪も乱れていない。表情だけが――どうしようもなく、にやけている。
何が嬉しいのか、口元が勝手に上がっているみたいに。目尻がだらしなく下がっているみたいに。見ているだけで、いろはの胃がキュッと縮む。
「……局長」
つい、声が低くなる。
昴は、いろはに気づいた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「いろはー! ちょっと聞いて聞いて。ねぇねぇ?」
話しかけ方が、完全に子どもだ。
いろはは深呼吸してから立ち上がった。怒鳴らない。怒鳴るのは最後。まずは冷静に――冷静に。
「今、待機中です。鼻歌は控えてください。あと、その顔も」
「えっ、顔も!? 顔は私の自由じゃん?」
「自由ですけど、職場で出す顔じゃありません」
いろはが真顔で言うと、昴は「えぇ〜」と肩を落とし、わざとらしく口を尖らせた。それから、机の上にタブレットを置いて、指でトントンと画面を叩く。
「でもさ、ちゃんと仕事してるよ? ほら、見て」
画面に表示されていたのは、現場の配置図と避難ルートの更新履歴だった。しかも最新。いろはが今まさに確認していた箇所まで、すでに修正が入っている。
「……」
いろはは言葉を失った。
昴の指が、次の画面へスライドする。出撃ログ。隊員ごとの疲労度の推定。補給申請の承認。救護班の回し方。どれも、驚くほど整っている。
ちゃんとしている。仕事だけ。
なのに、顔と態度だけがダメだ。
この矛盾が、いろはを一番イラつかせる。
「……だからって、その態度が許されるわけでは……」
「え、でも仕事は完璧じゃん? ね、完璧だよね?」
昴は身を乗り出した。褒めてほしい圧が強すぎて、いろはのこめかみがピクっと跳ねる。
「局長」
「なに?」
「今、自分がどんな顔してるか分かってます?」
「最高の顔」
「最悪の顔です」
言い切った瞬間、ラウンジの向こうから小さな笑い声が漏れた。誰かが堪えて失敗した、みたいな。いろはは振り向かない。振り向いたら負けだ。
昴は傷ついたふりをして胸に手を当て、それから、急に真面目な声を作った。
「……ちなみに、いろはは、なんで私がこうなってると思う?」
「こうって、どれですか」
「この、気分が上がりきってる感じ。ねえねえ、当てて。当ててほしい」
うざい。ものすごく、うざい。
いろはは、タブレットを持ち直し、なるべく局長を見ないように視線を落とした。
「知りません。というか、勤務中です」
「えー。勤務中でも雑談くらいするじゃん。人間だもの」
「局長は局長です」
「局長も人間だもの」
言い返しのテンポだけはいい。余計腹が立つ。
いろはは口を開きかけて、閉じた。言っていいのか悪いのか、迷う。
――仕事はできている。
――でも、空気はゆるむ。
――しかもそれを、局長が率先してやっている。
最悪だ。
「……局長」
結局、いろはは言った。耐えきれなかった。
「やることをやってるのは、分かりました。でも、態度がふざけすぎです。周りが緊張してるの、見えてますよね?」
昴は一瞬だけ、きょとんとした顔をした。それから、ふっと笑って、肩をすくめる。
「見えてる見えてる。だから、ちょっとだけ空気を軽くしてるんだよ」
「軽くしすぎです」
「えぇ……難しいなぁ、局長業」
いろはの指先がきゅっと握られる。局長業を舐めているわけではないのも分かる。分かるから余計に腹が立つ。
「それにさ」
昴は、いろはの前に回り込むようにして、顔を覗き込んだ。
「いろは、今、眉間すごいことになってる。ほら、こう……」
自分の眉間を指で押さえて、真似までしてくる。
「……やめてください」
「やだ」
「局長」
「やだ」
いろはは、限界が近い音を自分の中で聞いた。
そのときだった。
廊下の天井スピーカーが、乾いた警告音を鳴らした。
ピッ、ピッ、ピッ――。
同時に、壁の大型モニターが赤く点滅し、地図が立ち上がる。
「――魔物発生、複数反応」
機械音声が読み上げる。
「推定深度3。発生地点、複数。繰り返します――」
ラウンジの空気が、一気に張り詰めた。
さっきまで座っていたメンバーが立ち上がる。談笑が止まる。誰もがモニターに目を向ける。いろはの背筋も反射的に伸びた。
そして、昴が――変わった。
表情のゆるみが、すっと消える。声が低くなる。無駄がなくなる。
「全員、出れる?」
短い。けど、よく通る声だった。
返事が重なった。複数の「行ける」「大丈夫」が聞こえる。いろはは視線だけで確認する。誰も怯んでいない。いい。ここまではいい。
昴はモニターに近づき、反応地点を指で追った。
「……五箇所。うち一箇所は、反応が複数。残りは単体っぽいけど、油断はしない」
指示が、あっという間に組み上がっていく。
「根倉といろは、ここで。誇と依里、ここ。烈志と灯、ここお願い。乙葉と珠洲、ここにしよう」
いろはは、昴の横顔を見た。さっきまでのうざ絡みは何だったのか、というくらい、迷いがない。
それなのに――。
いろはの胸の奥に、さっきのイラつきが残っている。仕事ができるから、なおさら腹が立つ。仕事ができるのに、ふざける。ふざけるのに、仕事は落とさない。ずるい。
昴が最後の地点を指した。
「……狩野と竜司は」
そこで一度、昴はちらっと後ろを振り返り、軽い調子に戻す。
「んー、2人余ったからペアくんどいて」
「余ったって言うな」
竜司の低い声が飛ぶ。狩野は何も言わないが、眉がぴくりと動いた。いろははその反応を横目に見て、心の中で「言い方!」と叫ぶ。
昴は、悪びれずに手をひらひらさせた。
「はいはい。んで――」
モニターの赤点が密集している箇所を、昴は指先でぐるりと囲む。
「複数反応のあるここは、私が行くね。文句あるなら私に土つけてから言ってね?」
言い方が、またちょっと軽い。
だが、その目は笑っていなかった。
その瞬間、いろはの中で、さっきから絡まっていた感情が一本にまとまる。
――この人は、こういう人だ。
ふざける。甘える。ウザ絡みする。空気を軽くする。
でも、最後は自分がいちばん大変なところを持つ。
その「最後」がいつも当たり前みたいに置かれているから、腹が立つ。
「局長」
いろはは一歩前に出た。
昴がこちらを見る。
「……言いたいこと、あります」
「今? 緊急出撃だよ?」
「今です」
いろはは、息を吸って吐いた。ちゃんと、言葉にする。
「仕事ができるのは認めます。でも、態度がふざけすぎです。さっきのねえねえも、勤務中にやることじゃありません」
昴は一瞬、目を丸くして――それから、困ったように笑った。
「え、そこ?」
「そこです」
「いろは、厳しいなぁ」
「厳しくさせてるのは局長です」
言い返した瞬間、昴は小さく手を上げた。
「はい、ごめん。反省」
軽い。軽いけど、ちゃんと受け取っている。
いろはは、そこでようやく息を整えた。怒鳴らなかった。よし。
昴が視線を戻し、全員を見渡す。
「よし、行くよ。各ペア、現地着いたらまず一般人の有無を確認。深度3相手に無理はしない。撤退判断は早く。合流ルートは――」
指示が続く。いろはは頷きながら、装備を確認した。
そして、昴がまた言った。
「いろは、準備いい?」
「もちろんです」
「……頼りにしてる」
その一言だけが、さっきのうざ絡み全部を上書きするみたいで、いろはは余計にむっとした。
ずるい。
ほんとにずるい。
「……だったら、せめて局長らしい顔してください」
「え、今してない?」
「してません」
昴は「ひどいなぁ」と言いながらも、歩き出した。もう、ふざけた鼻歌はない。背中が、まっすぐだ。
いろははその背中を追いながら、胸の奥でまだくすぶるイラつきを、無理やり鎮めた。
文句を言うべきか、言わないべきか。
言った。言ってしまった。
でも――これでいい。
局長がちゃんとしているなら、部下はちゃんと文句を言っていい。
そうじゃないと、この人は、どこまでも背負ってしまう。
ラウンジを出る直前、昴が振り返った。
「ねえねえ、いろは」
いろはの眉が動く。
「今はダメです」
「えっ、今もダメ?」
「今はダメです」
昴は肩をすくめて、だけどどこか楽しそうに笑った。
「じゃあ、帰ってきたら聞いて。なんで私がこうなってるか」
いろはは返事をしなかった。
返事をしたら、またペースに乗せられる。
ただ、出撃ゲートへ向かう足を止めずに、心の中でだけ言った。
――帰ってきたら、ちゃんと聞きます。
だから、ちゃんと帰ってきてください。私の可愛い上司さん。
完結まで走り抜く




