わからせは必須
電波ジャックから、どれくらい経ったのか。
珠洲は日付の感覚が、少しだけ曖昧になっている自分に気づいていた。
前は、魔物は月に一度出るか出ないか、そんなペースだった。
今は違う。
週に一度は必ず出る。多い週は、ほとんど毎日。
しかも、出てくるのはほとんどが深度2。
ときどき深度1も混ざるけれど、簡単な相手なんてもう滅多にいない。
それなのに。
(昴は……休まない)
廊下の窓から訓練場を見下ろしながら、珠洲はぼんやりとつぶやいた。
今日も誰かが出撃して、帰ってくる。
入口のゲートが開くたびに、珠洲の心臓はぎゅっと縮こまる。
そこにいつも、昴がいるからだ。
誰が討伐に向かうときでも、必ず一緒についていく。
誇と依里のペアでも。烈志と灯でも。根倉や竜司でさえ例外じゃない。
そして、いつだって一番危ないところに立つのは局長であるはずの昴だ。
電波ジャックのあとから、昴は少しおかしい。
いや、少しなんて言葉では足りないのかもしれない。
笑い方は、前と同じだ。
ふざけた言葉も、軽口も、全部同じ。
だけど、ふとした瞬間に覗く横顔が、前よりずっと遠くを見ている。
遠くて、手が届かない。
なのに、なぜかすぐそこにいて、いつも誰かの盾になろうとする。
こわい。
その違和感は、恐怖と一緒に胸の奥に沈んでいた。
珠洲がどれだけ「大好き」って抱きついても、腕に絡みついても、昴は笑って頭を撫でてくれるだけだ。
「はいはい、ママはここにいますよー」
そんな冗談の言い方をされると、胸のどこかがずきっと痛む。
珠洲の「大好き」を、昴は疑いもしない。
親子のソレだと、当たり前みたいな顔で受け取ってしまう。
……全然、気づかない。
それどころか。
自分のことを、まるで大事にしていない。
この前もそうだった。
深度2の魔物相手に、珠洲の足元の影が少しだけ遅れを取った瞬間――昴は何のためらいもなく目の前に飛び出してきた。
透明な壁のようなものが、一瞬で展開される。
魔物の一撃がそこにぶつかり、弾け飛ぶ。
本当なら、珠洲の体が吹き飛んでいた距離だ。
それでも昴は、なんでもないみたいに笑って言う。
「大丈夫? 怪我してない? 珠洲はそこにいて」
そう言うときの目だけが、やけに真剣で。
自分が何をされたかなんて、まるで気にしていない。
そのうえ、……手足のことも、しゃべっちゃった。
あれは、ついこの前のことだ。
食堂で皆が集まっている時、昴は唐突に言った。
「そういえばさー、私、今こう見えて胴体と頭だけでーす。手足とか全部虚飾でできてまーす」
一瞬、食堂の空気が止まった。
珠洲は思わず、フォークを落とした。
「局長?」
根倉の声が低くなる。
誇も烈志も「は?」という顔で固まり、乙葉と依里はいっせいに昴の手を見つめた。
いろはは真っ青になり、灯は無表情に口を結んだ。
そんな反応をまとめて受けておきながら、昴はへらりと笑う。
「まあまあ、能力で普通の手足と変わんないから心配しないでね。ほら、つねっても痛いよ?」
つねられて痛そうにするのも、もちろん虚飾の演技込みだ。
心配しない人なんて、ここには誰もいない。
そんなこと、少し考えれば分かるはずなのに。
……どうして
昴はそんなことも、分からないのだろうか。
それとも、分かったうえで、わざと話したのだろうか。
どちらにしても、珠洲にとっては同じだった。
どっちもこわい。
ひゅ、と風が鳴る。
「珠洲ちゃん」
背後から名前を呼ばれて、振り向いた。
扉のところに、昴が立っていた。
いつもの局長用の制服。袖口から覗く指先が軽く振られている。
手足が虚飾だと言ったあとも、その仕草は何ひとつ変わっていない。
「今ちょっといい?」
「……なに」
珠洲はブランケットの端をぎゅっと握る。
昴はその様子に気づいたのか、少しだけ柔らかく笑った。
「討伐。深度2。乙葉ちゃんと珠洲ちゃんのペアで行ってもらうことになりましたー」
「……うん」
「で、もちろん私も行きます」
「……やっぱり」
「やっぱりとはなんだね」
茶化すような声。
でも、珠洲の胸は笑えなかった。
「場所は、郊外の工業地帯。人はもう避難済み。観測班いわく、怠惰個体っぽいからね。タンク乙葉ちゃん、サポート珠洲ちゃんでって感じ」
「分かった」
「準備できたらゲート前集合ね。あ、あと」
昴はくるりと回って、珠洲の前にしゃがみ込む。
目線が合う距離。
「さっきからずっと顔こわいよ」
「……別に」
「別に、の顔じゃなくない?」
昴が手を伸ばす。
虚飾の指先が、珠洲の頬にそっと触れた。
冷たくも熱くもない、曖昧な温度。
でも珠洲は、その触れ方をよく知っている。
こどもをあやすときの、やさしい撫で方。
胸の奥に、きゅっと痛みが走る。
「……だいじょうぶ」
珠洲はそっと顔をそむけ、ブランケットをぎゅっと掴んだ。
「昴と、一緒なら、だいじょうぶ」
「おお、出た。世界一うれしい依存宣言」
昴が笑う。
「はいはい、ママ頑張っちゃうよー」
また、それだ。
珠洲は、唇を噛んだ。
何も言えないまま、昴の手が離れていく。
「じゃ、行こっか。乙葉ちゃんにも声かけておいて」
昴は明るい声でそう言って、廊下を歩き出した。
背中だけが、ほんの少しだけ遠く見える。
……やっぱり、昴はわかってない。
郊外の工業地帯は、夕方の光の中で錆びた鉄骨の色を濃くしていた。
使われなくなった倉庫が並び、その間を抜ける風が、時々低い唸り声みたいな音を立てる。
人の気配はない。
避難はすでに済んでいる。
代わりに、空気の密度だけが重くなっていた。
甘ったるくて、腐った油の匂い。
それが、ひとつの建物から濃く漏れ出している。
「……ここ」
珠洲が小さく言う。
倉庫のシャッターは半ばまで捻じ曲がり、中から黒い粘液のような影がはみ出しそうになっていた。
その根元に、足跡のような影がいくつも踏み込んでいる。
人がここで一度立ちすくんで、逃げた痕跡。
「深度2」
昴が前に出て、指を鳴らす。
周囲の空気が少しだけ色を変える。虚飾の結界が、そっと張り巡らされていく。
「中でどんちゃん騒ぎになっても、外からは見えないようにしておくから」
「はい!」
乙葉が前に出て、小さく返事をした。
緊張しているのが分かる。指先がかすかに震えていた。
珠洲はその背中を見つめた。
乙葉も、昴が好き。
昴に弁当を差し出すときの視線。
名前を呼ばれたときの顔。
全部、誰が見たって分かる。
でも昴だけが、気づいていない。
……これは、多分、珠洲のせい。
珠洲が全部話しちゃったから。昴は全部諦めちゃったんだと思う。
乙葉はきっと、昴の言ってた未来に決めた人。でも自分の本性を知られて諦めちゃった。だから欠損のことも簡単に話しちゃった。
ちゃんと乙葉は昴が好きなのに。それを見ないふりなんて――許せない。
「行こっか」
昴の声がする。
倉庫の中は暗く、ぬるりとした匂いがさらに濃くなっていた。
床一面に、黒い半透明の塊が広がっている。
溶けたプラスチックと脂肪を混ぜて冷やしたような、嫌な手触り。
その中心で、何かがうごめいていた。
人の形が、いくつも飲み込まれている。
顔だけが、腕だけが、太腿だけが、ときどき表面に浮かんでは沈む。
珠洲の胸がぎゅっと締めつけられた。
「……遅かった?」
「半分くらい、かな」
昴の声は、いつも通りだ。
でも、その顔は一瞬だけ強張る。
「乙葉ちゃん。あれ、いける?」
「……はい」
乙葉が一歩前に出る。
暴食の半魔としての力が、彼女を包み込む。
制服のシルエットが少し膨らみ、体の輪郭が膨らむ。
「珠洲」
昴が振り返る。
「いつも通り、範囲で止めて。乙葉ちゃんが潰し終わるまでの時間稼ぎ」
「……うん」
珠洲はゆっくりと呼吸を整える。
「欲望解放――深化」
――停滞。
世界が、沈む。
光が鈍くなり、音が遠くなる。
倉庫の中の時間の流れが、重たい水の底に沈められる。
黒い塊のうねりが、ぴたりと止まった。
「……今」
珠洲の声に合わせるように、乙葉が飛び込んだ。
黒い塊の表面から、余分な部分が削り取られていく。
飲み込まれていた人の輪郭だけを残して、肥大した欲望だけを潰して、弾けさせる。
その間、魔物は鈍い動きで抵抗しようとする。
粘液の触手を伸ばし、乙葉の体を絡め取ろうとして――。
それを、透明な壁がことごとくはね飛ばしていく。
昴の虚飾が、乙葉の周りに幾重にも重なっていた。
黒い塊の奥では、別の動きが生まれていた。
床の影が、ずるりと滑るように移動する。
倉庫の隅に積まれたコンテナの陰から、別の腕が伸びた。
さっきまで床に広がっていた影とは、質感が違う。
より濃く、より粘ついた――残りカスではなく、本体に近い部分。
それが、珠洲の足元に向かって、走る。
「……っ!」
珠洲が反応した瞬間には、すでに影は目の前に迫っていた。
足元に絡みつこうとする、真っ黒な腕。
停滞をそこに集中させるには、ほんの少しだけ時間が足りない。
影が、珠洲の足首を掴もうと――。
その前に。
視界が、昴で埋め尽くされた。
いつの間にか。
乙葉の後ろから離れて、一瞬で珠洲との距離を詰めていた。
透明な壁が、珠洲の足元で爆ぜる。
影の腕が砕け、黒い飛沫が四方に散った。
飛沫が頬にかかる寸前で、さらに細かな盾が弾き飛ばす。
珠洲の目の前で、昴の背中が大きく揺れた。
「……っぶな」
軽い声。
でも、その肩が一瞬だけ深く上下した。
「大丈夫?」
振り返った昴の顔は、いつも通り笑っていた。
珠洲は言葉が出なかった。
何もかもが、ほんの一瞬の出来事だった。
もし昴が動かなかったら――珠洲の足は、今ごろあの黒い塊の中に引きずり込まれていた。
そうなったあとのことを、珠洲は想像したくなかった。
「昴さん!」
乙葉の叫び声が飛ぶ。
黒い本体の方が、鈍りながらも再び抵抗を始めていた。
昴は軽く片手を上げる。
「はーい。今行くね。珠洲ちゃん、ちょっと下がっててね」
もう一度、背中を見せる。
珠洲は、そこから動けなかった。
拳を握る手が、震えている。
……なに、してるの。
胸の中で、何かが燃えるように熱くなった。
怒りとも、悲しみとも違う。
もっと粘ついて、重い感情。
なんで、そんな簡単に、盾になるの。
やがて、戦いは終わった。
乙葉が魔物の核を潰し、黒い塊は崩れて消えた。
残った人々は、虚飾と停滞の合わせ技で、昏睡状態のまま安全な場所に運び出される。
任務としては、成功。
犠牲者なし。被害、最小限。
管理局として、これ以上ない結果。
帰りの車の中は、妙に静かだった。
運転席には昴が座り、後部座席には乙葉と珠洲。
夕焼けが窓の外で流れていく。
「……さっきは、ごめんなさい」
ぽつりと、乙葉が口を開いた。
「私が、押さえきれてなくて。昴さんに、負担かけて」
「えー? 別に? あれくらい全然大丈夫。だって私だよ?」
昴は軽く笑う。
「乙葉ちゃん、前よりずっと上手くなってるし。今日のも、十分合格点だよ」
「ほんと、ですか?」
「ほんとほんと」
昴が親指を立てる。
乙葉の顔が、少しだけほころんだ。
「よかった」
その横顔を、珠洲はじっと見ていた。
昴が優しい言葉をかけるたびに、乙葉の胸の奥で何かが震えている。
誰が見たってそれが恋だってわかる。
昴は、それをきっと信頼とか尊敬って言葉でまとめてしまうんだろう。
珠洲は視線を落とした。
自分の膝の上で、ブランケットがくしゃくしゃになっている。
さっきの影の腕を思い出す。
その前に飛び込んできた昴の背中を。
「珠洲は?」
不意に、名前を呼ばれた。
顔を上げると、昴がこちらを見ていた。
「怖かった?」
「……別に」
「またそれ。今日何回目?」
昴が苦笑する。
「怖かったなら怖かったって言ってもいいんだよ。私、ちゃんと守るし」
「……知ってる」
それがいちばん、怖い。
珠洲は喉の奥に張り付いた言葉を飲み込んだ。
昴は、自分が守る側でいることを、何の疑いもなく当たり前だと思っている。
自分が傷つくことについては、考えもしない。
……嫌だ。
胸の奥で、はっきりとした言葉になる。
そんなの嫌だ。
世界のハッピーエンド?
皆の笑顔?
そんなもの、昴がそこにいないなら、意味なんてない。
少なくとも、珠洲にとっては。
なのに昴は、きっと心のどこかで「自分がいなくても皆が笑っていればいい」と思っている。
電波ジャックの後から、その色がますます濃くなった。
だから、怖い。
「……昴」
珠洲は、小さな声で訊いた。
「なに?」
「昴は……自分のこと、嫌い?」
「え?」
昴が目を丸くする。
「急にどうしたの?」
「なんとなく」
珠洲は窓の外を見た。
夕焼けが沈みかけていて、空の色が赤から群青へ変わるところだった。
「好きなら……もうちょっと、だいじにすると思うから」
「……」
一瞬の沈黙。
車内の空気が、ほんの少しだけ変わる。
乙葉が息を呑んだ気配がした。
根倉は何も言わない。運転だけに集中しているふりをして、耳は完全にこっちに向いている。
昴は、笑わなかった。
珍しく。
代わりに、少しだけ視線を落とす。
「むずかしいね、その質問」
ぽつりと、呟いた。
「私わねー、私のこと完全無欠だと思ってるからさぁ。大好きだよ?」
すこしだけ間を空けて、続ける。
「でも、みんなと比べちゃうと、どっちがどれだけ大事かとかって言うと優先順位は下がっちゃうよね」
冗談みたいな、冗談じゃない声。
「だって皆んなより私強いし? 出来ることも多いから、なんとかなっちゃうもん」
「……そういうところが、きらい」
珠洲の口から、考えるより早く言葉が飛び出した。
昴が目を瞬く。
乙葉がビクッと肩を震わせる。
根倉のハンドルを握る指先に、わずかに力がこもった。
「おーっと。辛辣な評価入りました」
ようやく軽口が戻ってくる。
でも、その笑いはほんの少しだけぎこちない。
「珠洲ちゃんから嫌われたら、昴さん生きていけませんよ?」
「……嫌いじゃ、ない」
珠洲は、ぎゅっとブランケットを抱きしめる。
「大好き。でも、今の昴は、きらい」
自分でも矛盾しているのは分かっている。
でも、そうとしか言えなかった。
昴はしばらく黙って――やがて、ふっと笑った。
「難しいこと言うねぇ」
「……」
「まぁ参考までに聞いておくよ」
真剣なのか、冗談なのか分からない声。
それでも珠洲は、それ以上追及しなかった。
今ここで、どれだけ言葉をぶつけても、昴はきっと、自分の覚悟を手放さない。
そのことだけは、分かってしまっているから。
昴に、自分の価値を。
昴にとって、昴がどれだけ大事なのかを。
昴が勝手に自分抜きのハッピーエンドを選ばないように。
そのためには、珠洲一人じゃ足りない。
誰よりも優しくて、珠洲と同じくらい昴を好きなもう一人、乙葉の力が必要だ。
その夜。
管理局の寮の廊下で、珠洲は乙葉の部屋の前に立っていた。
ドアの前で、ブランケットをぎゅっと握りしめる。
心臓がうるさい。
ノックしようとして、手が止まる。
何回か深呼吸して、ようやく指先が動いた。
こんこん。
「は、はいっ」
慌てた声。
ドアが少しだけ開いて、乙葉が顔を覗かせた。
「珠洲ちゃん? どうしたの?」
「話、したい」
「え?」
「昴のこと」
その名前を出した瞬間、乙葉の顔色が変わった。
驚きと、照れと、不安と――それでも逃げたくない、という決意。
珠洲は、その全部を見た。
「入って、いい?」
「うん。どうぞ」
乙葉がドアを開ける。
部屋に入った瞬間、ふわりと甘い香りがした。
焼き菓子とシャンプーが混ざったような、優しい匂い。
珠洲はベッドの端に腰掛け、乙葉はその向かいの椅子に座った。
二人の間に、小さなテーブル。
その上には、まだ飲みかけのハーブティーが湯気を立てている。
「さっきは、その……お疲れさまでした」
乙葉がぎこちなく笑う。
「珠洲ちゃん、危ないところだったね。昴さんが守ってくれて、怪我しなくて良かった」
「良くない」
珠洲は遮った。
乙葉の目が丸くなる。
「良くない。昴が、前に出るの。勝手に盾になるの。良くない」
「……」
「止めないと、いつか、いなくなる」
言葉にしてしまうと、現実味を帯びてしまう。
乙葉の顔が、みるみる青ざめていく。
「そ、そんな」
「だから」
珠洲は乙葉を真っ直ぐ見つめた。
逃げ道を塞ぐみたいに。
「昴に、わからせる」
「わからせる……?」
「自分が、どれだけだいじか。どれだけ、珠洲たちが好きか」
珠洲の声は震えていなかった。
「珠洲だけじゃ、足りない。だから――」
乙葉は、息を呑んだ。
頬がゆっくりと赤くなる。
目の奥に、決意の火が灯る。
「……うん」
小さく、でもはっきりと頷く。
「私も、昴さんに、ちゃんと……伝えたい」
珠洲は、ほんの少しだけ微笑んだ。
ほら、昴は何にもわかってない。
だから2人で、わからせるしか無い。




