それだけで十分
珠洲の「言っちゃったの」という一言で、時間が一瞬だけ本当に止まった気がした。
さっきまで穏やかだった夕方の光が、やけに色を失って見える。
(……今なんて?)
聞き間違いであってほしい。いや、絶対違うんだけど、それでも一回くらいは脳内で確認作業を挟みたい。
喉がひゅっと変な鳴り方をしたあと、私はなるべくいつも通りの声を出した。
「ん? 言っちゃったって、なんのことかな?」
自分でも分かるくらい、声が軽かった。
中身は、嫌な予感でぎゅうぎゅうに詰まってるのに。
《フラグの匂いがする》
(今は黙って)
珠洲は、私の袖を握る手にぎゅっと力を込めた。
「……その、ね」
さっきまでより、ずっと小さい声。
目線が落ちて、前髪が影になって表情が見えない。
「乙葉に、言っちゃったの」
「うん」
「昴が……局長で。不老なんだって」
ぽつ、ぽつ、と。
床に落ちる水滴みたいに、珠洲の言葉が続く。
「昴のこと……取ろうとしてる、って。思って……」
そこまで言ったところで、珠洲は一回、息を詰まらせた。
「だから、言っちゃった。珠洲の昴なのにって。なっちゃって……ごめんなさい」
顔を上げたときには、目の端にうっすら涙が溜まっていた。
あー。
(あーあ)
やってくれたな、とは思った。
でもその感情は、怒りよりも先に、変な納得と諦めに塗りつぶされる。
(えー、謝って済む問題じゃないんですけどー。いや実際問題としてはだいぶアウト寄りなんですけどー)
《とはいえ、やりそうではあったよな》
(わかる)
珠洲が、乙葉に対してずっとピリピリしていたことは知っている。
その結果として、「お母さんとられると思ったから」が発動した。
《お母さんとられると思ったんだから、しょうがないわ》
(それなすぎる。マジ母親辛たん)
珠洲にとって、私は世界で一番の依存先であり、親みたいなものでもある。
そう育てちゃったのは他ならぬ私だ。責任の半分以上は私にある。
だから、こうなったこと自体は、ある意味で予定調和だ。
《……ただしダメージはデカい》
(黙秘権を行使しまーす)
廊下の窓から、少し離れた訓練場が見えた。
夕方の光の中で、誰かがランニングしている。距離があるから誰かは分からない。
世界は相変わらず平和そうで、私だけが小さなバッドエンドをくらっている。
《これで乙葉ルートも珠洲ルートも潰えたわけだが、どうするよ?》
(うっさいなぁ……)
だけど、ポン吉の言う通りだ。
不老で、局長で、ずっと前からこの姿のままで。
しかも、本人はそのことについて一言も説明する気がない。
おまけに手足もない。
そんな存在を、まともな恋愛対象として見ろという方が無茶だ。
ただでさえ、前の世界での関係性は全部なかったことになっているのに。
(……もういいの)
ぽつりと、心の中で呟く。
(みんなが笑ってる未来さえあれば、何もいらない)
《だよな。そのためだけにわざわざやり直したんだからな》
(うん)
最初から、分かっていたことだ。
乙葉と、もう一度会えるとしても。
珠洲と、もう一度一緒に生きられるとしても。
そのもう一度は、私だけのものだ。
向こうからしたら、全部がはじめて。
私がクリア済みのデータ持ってても、相手のセーブデータは真っさら。
そんなの、フェアじゃない。
(それにさ)
私は、珠洲の顔を見た。
泣きそうで、でも怒られる覚悟を無理やり固めた子どもの顔。
(ポン吉はずっと一緒にいてくれるでしょ?)
《当たり前だろ? 相棒様だぜオレは》
(そういうこと。だから)
ひとつ、息を吸う。
「……珠洲ちゃん」
なるべく、いつも通りの声で。
「言っちゃったのは、しょうがないよ」
珠洲の肩がぴくっと揺れた。
「珠洲ちゃんがそうだって思ったんでしょ。だったら仕方ない。それにさ」
軽く両手を広げて、肩をすくめてみせる。
「まあ、そのうちバレちゃうもんだしね」
本当に。
ちゃんと調べようと思えば、いくらでも証拠は転がっている。
初代局長の頃の記録映像。
創設期の集合写真。
古い資料の中の鏡昴の名前。
そこに写っている私は、今と同じ顔、同じ体だ。
だから、いずれ誰かが「おかしくね?」と気づく。
それが少し早まっただけの話だ。
「ごめんなさい」
珠洲の声は震えていた。
「昴、嫌いになった?」
「嫌いになんか、なるわけないよ」
そこだけは即答できる。
私は、そっと珠洲の頭に手を置いた。
「珠洲ちゃんは、私にとってずっと大切な存在だよ。何があったってそれは変わらない」
「……ほんと?」
「ほんと」
撫でると、珠洲は目を閉じて、子どもみたいに小さく息を吐いた。
ああ、やっぱりこの子にとって私は、母親みたいな存在なんだろう。
同時にそんなもの、恋愛対象としては致命的でもある。
(そりゃお母さんと結婚したい人は、なかなかいないよねー)
《禁断の関係が好きな人種も世の中にはいるらしいが。身近に、兄妹とか》
(そういうジャンルを自分の人生に適用しないでもろて)
「……でも」
珠洲が、私の服の裾をぎゅっと掴んだ。
「ほんとに、ごめんなさい」
「うん」
撫でる手を離して、一歩だけ下がる。
「じゃあさ、これから今後の計画練らなきゃだから、ちょっと一人にしてくれる?」
「計画?」
「うん。色々、調整しないと。もともといつかはやらなきゃいけなかったやつ」
嘘は、言ってない。
ただ、今この瞬間に心の防御壁を総動員して再構築する作業、という一番大事な要素を説明してないだけだ。
珠洲は、少しだけ逡巡したあと、こくりと頷いた。
「……わかった」
「ありがと」
ブランケットをぎゅっと胸に抱き込んでから、珠洲は小走りで廊下の向こうへ消えていった。
足音はしないのに、気配だけが少しずつ遠ざかっていく。
完全に感じなくなったところで、私はゆっくりと壁にもたれかかった。
(……ふぅ)
肺から空気が抜けていく。少し笑いそうになって、代わりに息を止めた。
声は震えてなかっただろうか。
変な顔してなかっただろうか。
(なにさ?)
《別に誰も何も言ってねぇけど》
(言われる前に言っちゃうタイプなんだよ)
首を仰け反らせて、天井を見上げる。
真っ白なパネルの継ぎ目が、やけに鮮明に見えた。
「……別に、泣いてないし」
口から勝手に言葉が漏れた。
《誰も何も言ってませんが?》
「うるさい」
目元を指で押さえる。
そこが熱いのは、きっとさっきまで笑ってたからだ。そういうことにしておく。
(もともとさ)
じわじわと、自分の中身を言葉にしていく。
(乙葉ちゃんとか珠洲ちゃんが、私を好きになること自体、だいぶ奇跡だったんだよね)
前の世界。
死ぬほど忙しい中で、あの二人は、わざわざ私を好きになってくれた。
どこをどう評価した結果そうなったのか、今でもよく分からない。
でも、事実としてそうだった。
だからあれは、多分一回きりの奇跡だったのだ。
それを、もう一度やり直そうとした方が図々しい。
《でもお前、ハッピーエンドチャートにはわりと堂々と恋愛項目も入れてたよな》
(あれは願望。計画書に願望書き込むのは自由)
今の世界線で、もし私のことを好きになってくれたとしても。
それはこの世界の、その人の選択であって、前の世界の焼き直しじゃない。
向こうの記憶は一切なくて、経験の共有もなくて。
同じ人間だけど、別の人生を歩いた個体だ。
そこに、前の世界で恋人だったから、今回もお願いしますなんて、私は口が裂けても言えない。
(元々忘れられても、好かれなくても良いって思ってたんだから)
それは、タイムスリップを決めた夜に、何度も何度も自分に言い聞かせた言葉だ。 
乙葉が私を知らない未来になっても。
珠洲が、別の誰かを選ぶ未来になっても。
それでも、その人生が幸せなら、それでいい。
そのために、私は時間をひっくり返したんだから。
《……昴》
(だから大丈夫)
膝に力を入れて、壁から体を離す。
(何もかも予定通り!)
自分で言って、自分で笑ってみせる。
胸の中で、何かがきしんだ気がしたけれど――それは、いつものことだ。
きしんだままでも、世界はちゃんと前に進む。
それで、いい。それだけで十分。




