乙葉ちゃんきゃわわ
ゴールデンウィークってやつは、人類をダメにする魔物だと思う。
カレンダーの赤い並びを眺めながら、私はソファでだらだら寝転んでいた。
(いやー来ましたねポン吉さん)
《そうですね。今日はみどりの日ですね》
コイツ、分かっていってるな。しゃーねぇちょっと乗ってやるか。
(ゴールデンウィーク真っ只中!)
《何して遊ぶー? 縄跳び?》
(いや女児か!)
《じゃあ、一輪車!》
(だから女児かて! 違うだろ、休み明けたら乙葉ちゃん半魔化するじゃん!)
《いや知ってますけど》
(知っててそのテンションあり得んくね!?)
《恋焦がれてたのは昴であって、オレじゃ無いですし》
(あの大天使乙葉だよ? ムチムチふわふわのさいかわだよ!?)
《じゃあさ、逆にオレが乙葉好き好きってなってたらどうするよ》
は? 獣畜生如きが乙葉ちゃんに欲情するとか万死。
(殺す)
《怖》
(殺す)
《怖いて。そうなるんだからさっきの感じで正解だろうが》
ぐだぐだした会話をしながらも、胸の奥はずっとそわそわしていた。
資料で知っているあの日が、近づいてきている。
タイムスリップ前なら、乙葉は誰にも気づかれずに暴食の半魔として暴走して、両親を傷つけ、そのことに自分も傷つく――そんな未来になる。
けれども今回は、私がいる。
(ぶっちゃけさ、大天使乙葉になる前の、鬱屈したショボーンの乙葉ちゃん見れるの、ちょっと楽しみなんだよね)
《最低だなお前》
(好きな人の全てを知りたいと思うのは普通だろがい!)
《思っても、我慢するのが普通だろがい! これだから約七十年ものの熟成された童貞は》
(ど、童貞ちゃうわ! 処女じゃ!)
《大した違いねぇだろ》
(性別という超えられない壁があるだろぉ)
《くっそどうでもいい》
そんなふうに、どうでもいいことでわざと騒いでいないと、落ち着かなかった。
この先にあるのは、やり直しの大事なファクター。
一度失ったものを、もう一度拾い上げに行く作業だ。
……正直、怖くないわけがない。
ま、なんやかんやで休みはあっという間に溶けた。
そして、乙葉を迎えに行く日が来た。
夕方。住宅街。
私はとあるアパートの前で立ち止まる。
表札には満服の二文字。資料通りだ。
(ここが乙葉ちゃんの家……両親は居ない。ゴクリ)
《お巡りさん! 早く来てー!》
(ちょ、何にもしないって今は!)
《今は?》
(付き合ったらさぁ、そりゃやることやるっしょ! キ、キスとか?)
乙葉ちゃんとキスして気絶しないでいられるか自信がない。
《ピュアっピュアかよ》
(七十三歳の処女舐めんな)
《もうそれ、バケモンじゃん。人間国宝でいいと思う》
(貶されてる気しかしないんだが?)
《貶してるからな》
バカみたいなやり取りで、自分の緊張をごまかす。
息を吸って、吐く。いつもの笑顔を顔に貼りつける。
(……じゃ、行きますか)
《ホイホイ、昴きゅん。ちゃんとわからせろよ》
(任せなさい、私を誰だと思ってるの。わからせ、は得意なんだよ?)
私は玄関の前から一歩下がり、人気がないのを確認してから、鍵穴を軽く叩いた。
鍵穴にピッタリ合う鍵を生成し、扉を開ける。
なんかやましい気持ちになって、そっと音を立てないように扉を開けて入る。
閉める時も、もちろん静かに。
(なんか犯罪犯してるみたいな気分)
《いや、実際犯罪っしょ。不法侵入じゃん》
(そうだった!)
家に入って最初に感じたのは、食べ物の匂いだった。
グラタン、唐揚げ、ポテトサラダ、菓子パン、プリン、そしてアイスの甘さ。
色んな匂いがごちゃ混ぜになって、空気に重く沈んでいる。
テレビはついているけれど、笑い声がやけに遠い。
テーブルの上は空になった容器だらけ。
床にはスプーンと、途中で落とされたアイス。
そして――。
床に膝をついて項垂れている女の子。
制服のスカートがきつそうに食い込んで、影がぶくぶくと太っている。
体の輪郭も、ところどころぼやけて膨らんでいて、普通の人間のサイズかはみ出していた。
(……やっば)
《うわ、限界ギリギリって感じだな。あとちょっと放っといたら完全に返信してるな》
(生乙葉ちゃんやば。昇天しそう)
《そっちかよ!》
乙葉ちゃんからあふれた何かが、部屋の空気を黒く染めている。
寂しさと、満たされたいっていう願いが、ぜんぶ混ざって腐ったみたいな、あの嫌な気配。
私は一瞬だけ、胸がちくりと痛んだ。
――前の世界でも、この子は一人で泣いてた。
私が呑気に高校生をしていた頃、ずっとずっと一人で。
だから今度は、ちゃんと私がわからせる。
そう思って、私はいつもの調子で口を開いた。
「――やあ」
軽い声を、わざと明るく投げる。
女の子――満服乙葉が、びくりと肩を震わせて顔を上げた。
涙で潤んだ目が、私を凝視する。
窓から差し込む街灯の光を背負って、私はふわりと笑ってみせた。
制服とも私服ともつかない、青系のカジュアルな服装。
いつもの、スカウトのとき用の姿。
(もうやばい泣きそう。乙葉ちゃんきゃわわ。食べちゃいたいキスしたいハグしたい。んああああ)
《バグってしまったか》
「……だれ?」
乙葉の声は、さっき泣いていたせいか少し低く掠れていた。
「私は鏡昴。八罪管理局ってところで働いてるんだけどさ、君をスカウトしにきたんだ」
笑顔で名乗ると、乙葉が固まった。
「すかうと……?」
「そう。ひらたく言うと、魔物とかそういうのから人を守るお仕事。で、私の目の前にいるのが、その魔物みたいになっちゃう感じの女の子」
さらっと言う。
脅かさないように、でもごまかさないように。
前の世界で学んだことだ。中途半端な優しさは、後で誰かをもっと傷つける。
乙葉の視線が、自分の手や足に落ちる。
膨らんだ影、私の手首ほどもある指先。
服の縫い目がきしむ感覚。
たぶん今、全部わかってしまったんだろう。
「……私が、魔物?」
「半分だけね、だから大丈夫。半魔って呼んでるよ」
コンビニの商品説明みたいな口調を崩さないようにしながら、私は乙葉の顔だけをちゃんと見る。
怯えと、恥ずかしさと、自己嫌悪と……それでも、助けてほしいっていうかすかな願いが、ぐちゃぐちゃに混ざった目。
(絶望感と驚きで頭ぐしゃぐしゃになってる乙葉ちゃんも可愛い)
《お前、今それ言うタイミングじゃねぇ。本当最低》
「ひとりでご飯食べるの、嫌だったでしょ。でもどうしようもなくて、ずっと、ずっと食べてたでしょ」
乙葉の胸が、びくんと跳ねた。
図星。
これは未来の記録じゃなくて、目の前の乙葉を見ればわかること。
テーブルの上に残った容器の数。落ちたアイス。泣き腫らした目。
それでもフォークを手放せなかった癖。
「……なんで、知ってるの」
「顔に書いてあるよ?」
「か、顔には書いてないと思う……」
即座に否定できるあたり、根っこはいつもの乙葉だ。
少しだけホッとする。
「ところがどっこいほっぺに証拠がね」
「え?」
慌てて袖で口元を拭う。その動作さえ愛らしい。
(やばいよ、ポン吉。乙葉ちゃん確変に入ったみたい)
《何がやばいんだ? いつもと変わらねぇじゃん》
愛らしさはあるものの現状の乙葉ちゃんを、このまま放っておくわけにはいかない。
影はさっきよりもさらに太ってきている。
部屋の中の空気も、どんどん悪くなってる気がする。
ここで手を差し伸べられなかったら、私がここに来た意味がなくなる。
「よかったら、一緒に来てくれない?」
「……どこに?」
「私のとこ。管理局。君みたいな子が他の人を傷つけないで済むように、力を扱えるようにする場所」
そう言って、私は手を差し出した。
白くて細い、自分の手。
乙葉の、今のごつごつした手とは正反対の、綺麗な手――に、わざと見えるように。
(作り物だからね!)
《本体はだるまさんだしね》
(おい、差別用語だろ!)
「……私なんかが行って、いいの?」
「なんかは、禁止」
即答で切る。
乙葉の瞳を真正面から射抜く。
虚飾なんかじゃなく、本音だけをそのまま乗せて。
「君がどんな姿でも、どんな体型でも、どんな過去でも、関係ない。今、君は生きてる。それだけで、私が君を助ける理由には十分」
これは、前の世界で言えなかった言葉だ。
助けたつもりで、ちゃんと見ていなかった部分が、きっといっぱいあった。
だから今度は、最初からはっきり言う。
「……行ったら」
乙葉が震える声で聞いてくる。
「行ったら、私……誰かと、一緒にご飯食べられる?」
一瞬だけ、私も目を丸くしてしまった。
その質問の仕方が、あまりにも乙葉らしくて。
すぐに、くしゃっと笑う。
「もちろん。私が一緒に食べたいくらい。ってか食べる」
「……ほんと?」
「うん。約束する」
乙葉の目に、また涙が溜まる。
さっきまでの絶望だけじゃなくて、別の色が混ざった涙。
(よし、惚れた!)
《お前の判定ガバガバのガバだからなぁ》
(超絶美少女の私に惚れない奴いる? いねぇよなあ!)
《男ならいねぇかもしれんが、乙葉女ぞ? 恋愛対象多分普通に男ぞ? 前がイレギュラーなだけだろ。高望みすんなよ》
(なんでそんな酷いこと言うんだよー。なくぞー? そんなの分かってるもん)
「……行く。行きたい」
「よろしい」
私は軽く体を傾けると、魔法みたいな足取りで乙葉のすぐそばまで距離を詰めた。
鼻先が触れそうな距離。ふわっと、自分のシャンプーの匂いが流れる。
「じゃあ、行こっか。満服乙葉さん」
「……なんで、名前」
「それくらい調べてから来るよ。スカウトなんだから」
ウィンクひとつ。
差し出した手に、ごつごつした手がそっと触れる。
それを、私は何事もないように、自然に握り返した。
あたたかい。
この温度を、今度こそ最後まで守り切る。
(よし、王子様ムーブ完璧。アタックアタックアタックだ!)
《グイグイ来られると人って引いちゃうらしいぞ》
こうして乙葉は、半魔になったその日に――
私の差し出した手を取って、新しい未来へ連れて行かれることになった。




