ある半魔の記憶5
満服乙葉は、今日もひとりでご飯を食べていた。
電子レンジの「チン」という音が、静まり返ったリビングに軽く響く。
テーブルの上には、スーパーの見切り品シールが貼られたグラタン、レンジで温める唐揚げ、袋から出しただけのポテトサラダ、菓子パンが二つ、コンビニのプリン。
テレビはつけてあるけれど、内容は全然頭に入ってこない。
笑い声だけが、遠くの世界みたいに見えた。
「……いただきます」
手を合わせる声は、自分でも情けないくらい小さい。
フォークでグラタンをすくって口に運ぶ。とろっとしたホワイトソースとチーズの味が舌に広がる。
美味しい。ちゃんと美味しい。
けれど、その美味しさが、胸の真ん中にぽっかり空いた穴を埋めてくれるわけじゃない。
みんなと食べたほうが、絶対美味しいのになぁ。
今日のお昼は、クラスメイトと一緒に購買のパンを食べた。
誰かがふざけてジュースを噴き出して、みんなで笑って、パンの一口交換もして、「これ美味しいね」「そっちも半分ちょうだい」とか言いながら。
あのときは、同じパンでも、何倍も美味しかった。
なのに、家に帰ってきたら――いつも通り、部屋は真っ暗で、冷蔵庫には「ごめんね 遅くなる 先に食べててね」のメモと、パック詰めのお惣菜たち。
グラタンを半分くらい食べたあたりで、胸の奥がちくりと痛んだ。
じんわりと、寂しさがせり上がってくる。
食べれば、少しは紛れる。
それはもう、ずっと昔からのクセだ。
グラタンを食べ終わっても、まだお腹は空いていた。
いや、本当はそんなに空いていないのかもしれない。でも、フォークを置きたくなかった。
唐揚げも、ポテトサラダも、菓子パンも、一つずつ減っていく。
気づけば、プリンにスプーンを突き刺していた。
甘さが、喉を滑っていく。
それでいて、胸の中はますます苦しくなる。
やめなきゃ。
そう思うのに、手が止まらない。
お腹が張ってきて、制服のスカートがきつい。
それでも、冷蔵庫の中にあるまだ開けていないアイスの存在が頭から離れない。
ふらふらと立ち上がって、冷凍庫を開ける。
冷気が顔に触れる。袋に入ったアイスたちが、ぎゅうぎゅうに詰まっている。
こんなに買わなきゃよかったのに。
そう思うのに、安い時についまとめ買いしてしまう。
「寂しい夜に食べる用」とか自分で言い訳しながら。
一つ取り出して、包装を破って、かじる。
甘くて冷たくて、幸せになるはずの味。
でも――今日は、どうしても涙が滲んだ。
「……ひとりで食べても、美味しくないよ……」
ぽつりとこぼれた声が、やけに大きく聞こえた。
誰もいない。
「美味しいね」と言ってくれる人も、「一口ちょうだい」と笑ってくれる人もいない。
テレビの中では、芸人たちが楽しそうにご飯を食べている。
あの輪の中に入れたら、きっとどれだけでも食べられるのに。
「やだ……」
胸がきゅうっと締め付けられる。
涙が一つ、ぽたりとアイスに落ちた。
食べても食べても満たされない。
お腹の中はいっぱいなのに、心の中はスカスカだ。
どうして、こんなに……。
喉の奥から、何かがこみ上げてくる。
叫びたいような、泣き出したいような、全部ぶちまけてしまいたいような衝動。
「……苦しい……」
胸元を握りしめた瞬間だった。
どろり、と。
目に見えない何かが、乙葉の体の中からあふれ出す感覚がした。
「え……?」
指先が痺れる。
足が重くなる。
胃のあたりにぎゅうっと熱が集まっていく。
床に膝をついた。
スプーンが皿に落ちて、ガシャンと音を立てる。
「なに、これ……っ」
視界の端で、影がうごめいた。
自分の影が、ぶくぶくと太っていく。
上腕、太腿、腹。
もともとふっくらしていたはずの身体が、さらに外側へ膨張していく感覚。
服の縫い目がきしむ。
呼吸が荒くなる。
鼻先に、獣みたいな匂いが混じる。
やだ、やだやだやだ。
けれど、止まらない。
胃の奥から、黒い渦が噴き出してくるみたいだ。
寂しさと、「満たされたい」という願いが、一つの塊になって暴れ出している。
手にあったアイスが、いつの間にか床に落ちていた。
なのに、口の中にはまだ甘さが残っている気がする。
視界が滲む。
涙か、何か別のものか、自分でもわからない。
そのときだった。
「――やあ」
軽い声が、リビングに降ってきた。
乙葉は、びくりと肩を震わせて顔を上げる。
そこに、女の子が立っていた。
窓から差し込む街灯の明かりを背負って、ふわりと笑っている。
肩までの黒髪。すっと通った鼻筋。大きな目。
制服とも私服ともつかない、青系のカジュアルな服装。
全体的に、やたらとキラキラしてる印象だけが、やけに強く残った。
「……だれ?」
自分の声が、さっきよりも低く響いたことに、乙葉自身が驚く。
喉が震えるたび、胸の奥で何かが揺れた。
女の子は一歩、乙葉に近づいた。
足音がやけに軽い。
「私は鏡昴。八罪管理局ってところで働いてるんだけど、君をスカウトしにきたんだ」
「すかうと……?」
「そう。ひらたく言うと、魔物とかそういうのから人を守るお仕事。で、今ここにいるのが、その魔物になるちょっと手前の子って感じ」
さらりと言われて、乙葉は固まった。
「……私が、魔物?」
「半分くらいね。半魔って呼んでる」
昴と名乗った少女は、まるでコンビニの商品説明でもしているみたいな口調で続ける。
「ひとりでご飯食べるの、嫌だったでしょ。でもどうしようもなくて、ずっと、ずっと食べてたでしょ」
胸の奥に、鋭い何かが刺さった。
図星だった。
誰にも言っていないことを、目の前の女の子は当然のように言い当てる。
「……なんで、知ってるの」
「顔に書いてあるよ?」
「か、顔には書いてないと思う……」
反射で否定してしまうあたり、いつもの乙葉だ。
けれど、今はそれどころではない。
自分の身体が、まだおかしい。
視界の端で、さっきよりも家具が小さく見えた。
自分が巨大化している、という実感が、じわじわと湧いてくる。
床に落ちたスプーンを拾おうとしても、指が思うように曲がらない。
ごつごつとした感触。肉と何か硬いものが混ざったような、自分の手じゃない感触。
ほんとに……醜い。
乙葉は震えた。
怖い。
こんなの、嫌だ。
両親に見られたらどうしよう。
友達に見られたらどうしよう。
みんな、きっと気持ち悪がる。
そんな未来が一瞬で頭を駆け巡って、息がつまりかけたとき。
昴が、ふっと笑った。
「よかったら、一緒に来てくれない?」
「……どこに?」
「私のとこ。管理局。君みたいな子が他の人を傷つけないで済むように、力を扱えるようにする場所」
そう言って、手を差し出してきた。
白くて細い指。
乙葉の、今の手とは正反対の、綺麗な手。
もし触れたら、汚してしまうんじゃないかとさえ思う。
「……私なんかが行って、いいの?」
「なんかは、禁止」
即座に、言葉を切られる。
昴の瞳が、まっすぐ乙葉を射抜いた。
「君がどんな姿でも、どんな体型でも、どんな過去でも、関係ない。今、君は生きてる。それだけで、私が君を助ける理由には十分」
その言葉は、あまりにもまっすぐで。
ごまかしがなくて。
キラキラしていて。
乙葉は、自分の心臓がドクンと跳ねるのをはっきり感じた。
――なに、この人。
初対面なのに、目が離せなかった。
自分とは違って、細くて綺麗で、きっとモテるんだろうなと思わせる見た目で。
でも、上から目線じゃなくて、ちゃんと同じ目線まで降りてきてくれる感じがする。
こんなふうに真正面から助けるなんて言われたのは、たぶん生まれて初めてだった。
「……行ったら」
乙葉は、震える声で尋ねる。
「行ったら、私……誰かと、一緒にご飯食べられる?」
昴の目が、一瞬だけ丸くなって。
次の瞬間、くしゃっと笑った。
「もちろん。私が一緒に食べたいくらい。ってか食べる」
「……ほんと?」
「うん。約束する」
その笑顔を見た瞬間、乙葉の中で何かが決壊した。
恐怖も、恥ずかしさも、全部ひっくるめて。
「……行く。行きたい」
「よろしい」
昴は、ひらりと体を傾けると、魔法みたいに乙葉のそばまで距離を詰めた。
鼻先が触れそうな距離。
ふわっと、シャンプーのいい匂いがする。
「じゃあ、行こっか。満服乙葉さん」
「……なんで、名前」
「それくらい調べてから来るよ。スカウトなんだから」
軽くウィンクをされて、乙葉はまた心臓を撃ち抜かれた。
差し出された手は、相変わらず綺麗で。
自分のごつごつした手がそっと触れると、不思議なほど自然に握り返してくれた。
あたたかい。
それだけで、涙が出そうになる。
こうして乙葉は、半魔になったその日に――
自分の世界に光を落としてくれた女の子に、人生を丸ごと持っていかれることになった。
メインヒロイン再登場




