ある少女の記憶
私は、そこそこ恵まれた人生だと思う。
まだ16年しか生きていないけれど、それでも胸を張ってそう言えるくらいには、毎日がちゃんと幸せだ。
まず家族ガチャにそこそこ成功している。
お父さんは歳の割にかっこいい。スーツが似合って、背筋が伸びていて、部下にもそれなりに慕われているらしい。給料のことは知らないけど、少なくとも生活に困ったことは一度もないからそれなりに高収入なんだと思う。
お母さんは美人で優しくて、料理がすごく上手い。特にハンバーグ。じゅうじゅう音を立てる鉄板とかはないけど、あのふわふわで肉汁じゅわっと系のやつは、正直ファミレス完封できる。
ぶっちゃけお母さんじゃなかったら、普通に欲情してたかもしれない。あのエプロン姿でごはんできたわよなんて言われたら、男子高校生なら一瞬で落ちると思う。
残念ながら私は女の子だけど。いや、残念でもないか。私は女の子が好きだから。
そう。女の子が好き。
しかも最近、念願の彼女ができた。
名前は、瑞稀。
十年来の幼馴染で、小学校の入学式からずっと一緒にいてくれた、私のいちばんの親友で、そして今は恋人。
半分ヤケクソで告白したのだ。
どうせフラれる。
きっと距離を置かれて、今までみたいには話せなくなる。
それでも、このまま親友の顔をしたまま隣に居続けるなんて、きっといつか壊れてしまう。そう思って、放課後の教室で、机越しにうつむいたまま震える声で好きですって言った。
そしたら瑞稀は、ぽかんとしたあとで、ふにゃっと笑って「知ってるよ」って言った。
なにそれ。意味わかんない。
さらに追い打ちみたいに「私も、ずっとそうだよ」なんて言うから、脳みそが一瞬でショートした。
あの瞬間のことを思い出すたびに、今でもニヤニヤする。
やばい。ほんと人生ちょろい。
世界って案外、優しいのかもしれない。
そんな私の一日は、だいたいこんなふうに始まる。
ジリリリリリ……と、目覚ましの音が耳を殴ってきた。
「……うるさい」
反射で、枕ごとスマホを押しつぶす。
アラームが一度止まる。
勝った。私の勝ちだ。二度寝の権利を勝ち取った。
――三分後、ドアがノックされた。
「起きてるー?」
お母さんの声。
私は布団の中でうめいた。
「……起きてまーす」
「起きてない声ね。それ。ごはん冷めるわよー」
「愛と理解のある母は、娘の二度寝に寛容であるべきでは?」
「愛と理解のある母は、寝坊常習犯の娘のスマホを没収しても良いのよ?」
「……今すぐ起きます」
布団を蹴り飛ばして起き上がる。
髪の毛がすごいことになっているのを、窓ガラスに映った自分で確認して、ひとりで笑った。
寝癖で後頭部が完全に爆発してる。
これは人には見せられない。瑞稀にだけギリギリ見せられる。
制服に着替えて、洗面所で顔を洗う。冷たい水で一気に目が覚める。
歯を磨きながらスマホをちらっと見ると、通知が一件。
『おはよ〜。今日、駅で待ち合わせね。7時45分。寝坊したらチューして起こすから』
瑞稀からだ。
歯ブラシをくわえたまま、にやける。
口から泡が垂れて、慌てて洗面台に顔を突っ込んだ。
(やば。幸せすぎでは?)
返信を打つ。
『おは。今ちょうど起きた。チューで起こされるのはご褒美だから、遅刻しようか悩んでる』
送信してから、わざとらしく30秒だけ待つ。
既読。すぐ返事。
『ダメです。ちゃんと来たら、ちゃんとチューするから。』
死ぬ。
朝から殺しにきている。
ニタニタ笑いながらスマホをポケットに突っ込み、階段を降りてリビングに向かう。
「おはよー」
「おはよう」
「おはよう、ねぼすけ」
テーブルには焼きたてのトーストと、湯気の立つコンソメスープ。
それと、目玉焼きとベーコン、それから少しだけサラダ。
お父さんは新聞をたたんで、コーヒーをすすりながら私を見た。
「今日もデートか?」
「デートという単語が父親の口から出ると途端にキモくなるからやめて」
「ひどくない?」
お母さんが、くすくす笑いながら私の前にスープを置く。
「瑞稀ちゃん、今日も来るの?」
「うん。いつも通り駅で待ち合わせ」
「いいわねぇ。青春って感じで」
お母さんは、本当に自然な顔でそう言う。
それが、たぶんいちばんありがたい。
私が女の子を好きだと打ち明けた日。
お母さんは少し目を丸くしたけど、「そうなんだ」と言っただけだった。
「誰が好きなの?」
「……言わない」
「ふーん。あ、でも、あなたが好きになった子なら、きっと良い子なんでしょうね」
それで終わり。
ドラマみたいに泣かれもしないし、叫ばれもしなかった。
お父さんはその話を聞いて、ちょっとだけ黙り込んでから「男よりは安心かな」とかよくわからないことを言っていた。
基準がどこにあるのかは不明だけど、少なくとも全否定じゃなかったので、私はそれで充分だった。
「そういえば、来週うちでごはん食べるんでしたっけ」
お母さんが、さりげなく爆弾を投げてくる。
「あ、うん……瑞稀が、来たいって」
「ハンバーグでいい?」
「ハンバーグならプロの味だからねぇ」
私は少しだけうつむく。
「……あんまり、お店の味を超えるとか軽く言わない方がいいと思う」
「事実じゃない?」
お母さんが得意げに笑う。
お父さんが小さく咳払いをする。
「お義母さん、って呼ばれる日も近いかな」
「やめて!? 朝から重い!」
トーストをかじりながら、内心ではニヤニヤが止まらない。
こうやって茶化されるくらいには、うちの家は平和だ。
私の恋愛対象が女の子であることは、少なくともこの家の中では、なんの問題にもなっていない。
それがどれだけ恵まれていることか、ニュースやSNSで時々見かける話を思い浮かべると、嫌でもわかる。
だから私は、この環境に心から感謝している。
素直に口に出す勇気はまだないけれど。
駅までの道を歩く。
朝の空気は少しひんやりしていて、制服のスカートの下で足がぞわっとする。
駅前のロータリーが見えてくると、ベンチのところに見慣れた後ろ姿があった。
「お待たせ」
声をかけると、くるっと振り向く。
肩くらいの長さの髪。少し垂れ目で、笑うと目尻にちっちゃいシワが寄る。
私の好きな顔をした女の子が、そこにいた。
「おはよー。セーフ。あと三分でアウトだった」
「ギリギリ勝利って言ってよ」
「じゃあセーフ。チュー1回分の勝利」
さらっと爆弾を投げる恋人。
私の心臓は、もうこの子に何発撃ち抜かれてきたかわからない。
「……人目が減ってからにしてください」
「じゃあ、ホームに降りたらね」
「具体的に段取りを立てるな」
そんなことを言いつつ、一緒に改札を抜ける。
Suicaをタッチする音が、ほとんど同時に鳴った。
「昨日の課題やった?」
「英語だけ」
「数学は?」
「これから取り組む予定です」
「それ、駅でノート出させられるやつ」
「瑞稀先生、宿題はベッドの上で教えてくれませんかね」
「下心でしかないじゃんそれ」
「愛情と言ってほしい」
「はいはい。じゃあ今日うち来る?」
さらっと言うな。
慣れてきたつもりだけど、たまにこうやって心臓にクリティカルヒットを入れてくるから困る。
「……テスト前、だよね?」
「そう。だから、ちゃんと勉強してからイチャイチャする」
「順番逆になってない? 勉強するまでイチャつかない、じゃなくて?」
「なんかそれだとモチベ上がんなくない?」
「ご褒美方式で釣ろうとすな」
電車がホームに滑り込む。
ドアの前に立ちながら、私はふと手を伸ばす。
瑞稀の指先に、自分の指を絡ませる。
その一瞬だけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……離したくなくなるよね」
ぽそっと呟くと、瑞稀が少しだけ目を丸くして、それから照れたように笑った。
「じゃあ、ちゃんと手、繋いどこ?」
「車内で?」
「端っこの方ならバレないよ。たぶん」
「バレても別にいいんだけどね」
私がそう言うと、瑞稀はちょっとだけ驚いた顔をした。
「……前は、気にしてたじゃん」
「うん。今もゼロではないけど」
電車の中はそこそこ混んでいて、私たちは端のスペースに並んで立つ。
背中にひやっとした壁の感触。腕と腕が触れ合う。
「なんか、最近思うんだよね」
私は、小さく息を吐く。
「うちらが手を繋いでたところで、死ぬわけでもないし、世界が滅ぶわけでもないし」
「大げさ」
「でもさ、うちらが遠慮して手を離しても、どっかの国の戦争が終わるわけでもないし」
「それはそう」
「だったら、せめて自分の好きな人には、ちゃんと好きって伝えて、ちゃんと触って、ちゃんと繋いどきたいなって」
言ってから、自分で照れくさくなって口をつぐむ。
瑞稀は数秒だけ黙って、それからぎゅっと私の手を握った。
「……こういうとこ、好きなんだよなぁ」
「今のは、ちょっとカッコつけ過ぎたから聞かなかったことにして」
「聞いたから。録音したから。心のレコーダーに保存したから」
「消去機能ないの?」
「ない」
電車がゆっくりと揺れる。
窓の外の景色が流れていく。
私たちは、手をつないだまま、学校へ向かった。
「起立、礼」
「「おはようございます」」
クラスメイトたちの声が重なる。
担任の先生はいつものように出席簿を開き、名前を読み上げていく。
「相川」「はい」「石田」「はい」
順番に、呼ばれた名前が点になっていく。
そして。
「かがみ――」
一拍、置かれる。
「鏡昴」
「はい」
手を挙げる。
教室の後ろの窓から差し込む光が、ちょうど私の横顔を照らす。
先生は特に何も言わず、次の名前へ進んだ。
私は、一瞬だけ、自分の名前を舌の上で転がしてみる。
鏡昴。鏡に映る光。
名前負けしないように、って両親は笑っていたけど、別に光になるつもりはない。ただ、隣で笑っている人をちゃんと照らせたら、それでいい。
前の席の瑞稀が、振り向きざまに小さくウインクを投げてくる。
心拍数が二段階くらい跳ね上がる、我ながらチョロすぎる。
授業は、正直いつも通りだ。
現代文はそこそこ得意。英語はまあまあ。数学は、瑞稀と一緒じゃなかったら絶対赤点。
黒板の文字をノートに写しながら、今日の放課後のことを考えてしまう。
放課後、瑞稀の家。テスト勉強。
たぶんその後、口づけ。
それから――それは、さすがに妄想が過ぎるので途中で止める。
窓の外では、雲がゆっくりと流れている。
教室の空気は、春の終わりの温度。
この何の変哲もない時間が、ずっと続くと信じて疑っていない自分が、ちょっとだけ怖くなるくらいには幸せだった。
瑞稀の家のリビングは、私の家より少しだけ広い。
テーブルの上に教科書とノートを広げて、その向こうで瑞稀が眉間に皺を寄せている。
「ここさぁ、なんでこの式になるの?」
「そこは、こうやって因数分解して……」
「因数分解って単語がそもそも嫌いなんだよね」
「概念を嫌うな」
シャーペンを持つ手をそっと取って、ノートの端に解き方を書く。
距離が近くなりすぎて、瑞稀のシャンプーの匂いがする。
集中力の分配が明らかにおかしくなる。
「ねえ、昴」
「ん?」
「勉強終わったらさ」
瑞稀が、シャーペンを机に置く。
真面目な顔。少しだけ、不安そうな目。
「将来の話、しよ」
「……将来?」
「うん。進路とかさ。その先とか」
少しだけ沈黙が落ちる。
私は、ペンを置いて瑞稀の方を見る。
「結婚とか?」
「まあ、そういう話も、含めて」
瑞稀は、視線をテーブルの上に落とした。
「うちら、女の子同士だからさ。法律的には、まだ簡単じゃないじゃん。
一緒に住みたくても、親とか社会とか、壁はそれなりにあるしさ」
「うん」
「でも、なんか……ちゃんと考えたいなって」
ああ、この人はやっぱり真面目だ。
私は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じながら、口を開いた。
「考えようよ。ちゃんと」
「……うん」
「私、瑞稀と一緒なら、どこに住んでもいいし、どんな仕事でもいいよ」
「いや、それはちょっと雑すぎない?」
「具体的には、瑞稀が休みの日に一緒にごろごろできて、たまにハンバーグ作ってくれる仕事がいい」
「仕事の条件ハンバーグなの?」
「うちの母直伝の最強ハンバーグ、教えてあげるから」
「それは……ちょっと魅力的」
瑞稀が、ふっと笑う。
その笑顔を見ていると、胸の奥がじわっと満たされていく。
(ああ、私、ちゃんと幸せだな)
そう思う。
この先、何があってもいい。
世界が、少しくらい理不尽でもいい。
せめて、この人の隣で笑っていられる時間が、少しでも長く続きますように。
そう願っていた。
世界が明日終わるかもしれないなんて、本気で想像したこともないくらいには。
勉強をそこそこ真面目に片付けたあと、約束通り、ソファの上でキスをした。
最初よりはだいぶ慣れた。心臓が爆発しそうになる頻度も、たぶん減ってきた。
それでも唇が触れるたびに、体の芯がじんわり熱くなる。
「ね、昴」
「ん?」
「さっきの、進路の話だけどさ」
瑞稀が、私の肩に額を乗せながら言う。
「ちゃんと、同じ方向見て歩こうね」
「当たり前でしょ」
「うん。わかってるんだけど、言葉にしたかった」
「言葉にしてくれるの、嬉しいよ」
私は、瑞稀の髪を撫でる。指先に伝わる柔らかさ。
この感触を、いつまでも忘れたくないと思った。
(……この日常が、ずっと続きますように)
心の中だけで、もう一度だけ願う。
もし神様とか、世界のどこかにいるのなら、ちゃんと聞いておいてほしい。
私は、私の人生を、わりと気に入っているから。
だからどうか、この世界をもう少しだけ優しくしておいてください、と。
ふぁーよく寝た。
《お前寝すぎだろ》
(ぴちぴちの16歳はいっぱい眠るんです)
《ババァが何言ってんだよ》
(それを言ったら、戦争するしかなくなっちゃうよ)
《こいよ昴。女なら拳で勝負しろ》
(いや、私筋肉もりもりの人じゃ無いですし)
《ベネットォ……。ってそれよりもさぁ》
(うん。来たねこの年が)
《世界がほう――》
(乙葉ちゃんに会える年が!)
《いやまぁ間違ってねぇけども》
(うん。わかってるよ2050年は文字通り勝負の年だからね)
もう1人の昴




