いつかわからせる
松元珠洲は、生まれたときから半魔だった。
今年で十一歳。
母親は優しくて、ちょっと心配性。
父親も、たぶん人間。人間のはず。半魔と互角にやり合うくせに、本人は普通の人間だ、と笑っているから珠洲にはよくわからない。
物心つく前から、珠洲は感情の薄い子どもだったと聞かされている。
ほとんど泣かないし、怒らない。喜びも表に出ない。
今も、基本的にはそうだ。
――ただ1人の例外を除いて。
珠洲が二歳のとき、初めて出会った人。自分の世界に色をつけた人。
珠洲の心を動かす感情のほとんどを、まとめて独り占めしてしまった存在。
昴、昴、昴。
名前を心の中で呼ぶだけで、胸の奥がじわっと甘くなる。
昴はすごい。
可愛い。綺麗。頭が良い。たまにポンコツ、そしてとっても綺麗。
それから――とんでもなく強い。
師匠であり、局長であり、そして珠洲にとっては運命の人だ。
珠洲は学校に行かない。生まれつき半魔で、管理局で育てられてきたからだ。
代わりに、昴との訓練がある。
模擬戦、能力のコントロール、体術。全部、昴が教えてくれた。
今では珠洲も、そこそこ戦える。
昴は「もう一人前だよ」と笑ってくれるが、珠洲はまだ足りないと思っている。
あの烈志を叩きのめすまでは、一人前とは認めない。
――烈志は、やたらと頭を撫でてくる。嫌いではないけれど、触っていいのは昴だけだ。セクハラはれっきとした犯罪。
珠洲の一週間のうち、四日は昴の部屋で眠る。
残りの日は、母に言われた通り、ちゃんと家族の部屋に戻る。
「ずっと昴さんのところにいるのは、あの方に悪いでしょう?」
母はそう言って笑うけれど、珠洲にとってみれば昴と離れている時間は辛すぎる。
父も母も好きだ。けれど正直なところ、昴とは比べ物にならなかった。
今だにうまく喋ることができない珠洲。心の中ではいくらでも言葉が溢れてくるのに、唇まで来ると、いつも途中で絡まってしまう。
だからいつも、行動で伝える。
昴に会えば、ぎゅっと抱きつく。
ほっぺにちゅっとキスをする。
腕に絡みつき、袖を掴み、一緒に歩く。
竜司や紅葉に、そこまでしない。
頭を撫でられても、適当に受け流すくらいだ。
だけど昴はきっと、わかってない。
珠洲は、自分の部屋のベッドの上でうつ伏せになりながら、枕を抱きしめて考える。
昴は、あのスキンシップを家族に向けるものだと思い込んでいる。
小さい子が、お母さんに甘えるみたいな。
妹が、少し年上のお姉ちゃんに抱きつくみたいな。
だから、笑って受け止めてくれる。
ぎゅっと抱きしめ返してくれて、「はいはい、珠洲ちゃん可愛いねぇ」と頭を撫でてくれる。
それが少し、悔しかった。
昴は家族じゃない。お母さんじゃない。
本当は、そう言いたい。
けれど、言えない。
言って昴が傷付いたら? そう思うと言えない。
何も言えずに、胸の奥だけがじわじわと熱くなる。
そんな珠洲のいつもの一日は、昴との訓練で終わるはずだった。
だが今日は違った。
「ごめんね珠洲ちゃん、今日の訓練はお休みにしてね。ちょっと女の子に会いに行ってくるから」
昴はそう言って、軽く手を振って出て行った。
重病の女の子に会いに行くのだと、なんとなく聞いた気がする。
「治療なんてできるの?」
と珠洲が聞くと、昴は「できる。多分」と笑っていた。
治療……ただ治してあげるだけ。
それだけのはずなのに、胸がざわつく。
頭の中で、知らない女の子の姿が勝手に膨らむ。
珠洲より少し年上で、スタイルが良くて、笑顔が綺麗で、昴がすぐ好きになってしまうような、そんな女の子。
浮気だ。
珠洲は、枕に顔を押し付けてぐりぐりした。
心の中だけで何度も何度も繰り返す。
昴は浮気なんてしない、と頭ではわかっている。
それどころか珠洲は彼女ですらない。
それでも、嫌な想像は止められない。
本当なら、今頃は訓練場で昴と向かい合っている時間だ。
なのに、昴はいない。
もうとっくに治療も終わってる時間なのに、昴の気配が管理局のどこにもない。
……遅い
時計を見る。時計ぐらい珠洲にもわかる。
いつもの訓練時間はとっくに過ぎていて、夕ごはんの時間も過ぎていて、それでも昴は帰ってこなかった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
胸の中に、黒い水がじわじわと溜まっていく感覚がした。
珠洲の周りの空気がひんやりとしてくる。
考えれば考えるほど、悪い方へ転がっていく。
――帰ってこなかったら。
――治療の途中で死んでしまっていたら。
――誰にも気づかれずに、どこかで倒れていたら。
どうしようどうしようどうしようどうしよう。
言葉にならないほどの不安が、喉の奥に溜まっていく。
知らないうちに、珠洲の能力が漏れ出していく。
コンコン、とドアがノックされる音が聞こえた。
珠洲は返事をする気すら起きない。暫くしてノブが回る音がした。
「珠洲」
入ってきたのは、父だった。
「派手にやってるなぁ」
父はそう言って、部屋の中を一瞥した。
結露した窓の水滴が冷やさられて凍っている。飲みかけのグラスは冷えすぎてひびが入っていた。紅葉が置いた観葉植物にも霜が降りている。
珠洲は、うつ伏せのまま顔だけを上げる。
「……なに」
「この部屋だけじゃなくて廊下まで、クーラー全開にしたみたいになってるぞ」
責めている感じはなく、心配の方が大きいことを珠洲は知っている。
「局長が心配か?」
図星だった。珠洲は、視線を床に落とす。
「……別に」
「別に、って感じではないよな」
父はため息をつくと、ベッドの端に腰を下ろした。
それから、珠洲の頭に大きな手を伸ばす。
竜司の手は、温かい。だけど、昴とは違う。
撫でられても、胸はあまり動かない。
安心はするけれど、心臓が跳ねたりはしない。
「大丈夫だ。局長は死なねぇよ」
父は軽く笑う。
「あの人は、そういう星の下に生まれてる。あの人の凄さはお前が1番知ってるだろ?」
珠洲は、父の横顔を見る。
父は、昴の昔の姿を知っている。珠洲の知らない時間を、昴と共に過ごしている。
そこに、ほんの少しだけ嫉妬した。
「局長に信じてくれなかったの? なんて言われたら
困るだろ?」
「…………困る」
小さな声が、ようやく喉を抜けた。
「だろ? あんまり心配しなくても大丈夫だ」
父は、ぽん、と珠洲の頭を軽く叩く。
「……」
珠洲の心が少しだけ軽くなる。それと同時に周囲の温度も元に戻っていく。
「そうそう。局長相手に心配したってしょうがないぜ?」
父が立ち上がろうとした、そのときだった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音と、ざわめきが聞こえてきた。
「どうやら待ち人は、到着したみたいだな。ほら、行ってこい」
珠洲の心臓が、跳ねた。
竜司に背を叩かれたのが先か、自ら動き出したのが先か。
ベッドから転がり落ちるようにして立ち上がり、部屋のドアに向かって走る。
「おい、珠洲転ぶなよー」
父の制止が背中の方で聞こえたが、足は止まらなかった。
廊下を駆け抜ける。
通路を曲がり、階段を降り、また曲がる。
昴の部屋は、このフロアの一番奥だ。
何度も通った道。目を閉じていても辿り着ける。
昴。
昴。
昴。
胸の中で名前を呼ぶ。
足音がうるさい。心音もうるさい。息が浅くなる。
曲がり角を抜けると、見慣れた扉が見えた。
ちょうどその前で、何人かの局員が集まっている。
「局長、本当に大丈夫なんですか?」
「無理してないですか?」
「倒れるならせめて医務室で……」
心配そうな声。
その中心に、いつもの姿の昴がいた。
少しだけ顔色が悪い気もするが、ニコニコ笑っている。
「大丈夫だって。ほら、どこもなんともないでしょ?
その姿を見た瞬間、珠洲は走る速度をさらに上げた。
「昴!」
叫びながら、昴の胸に飛び込む。
「うわっ」
昴はいつものように、しっかりと受け止めてくれた。
そしてこぼれるような笑顔で言った。
「ただいま、珠洲ちゃん」
その言葉を聞いた途端、胸の中の黒い水が一気に流れ出すような感覚がした。
「おかえり」
珠洲は、ぎゅっと昴の腰に腕を回す。
顔を昴の首元に押し付けて、深く息を吸い込む。
シャンプーと、昴そのものの匂い。いつもの昴の匂いだ。
本能に擦り込まれた、珠洲を心から安心させる匂い。
それを胸いっぱいに吸い込む。
良かった。本物の昴だ。
頬を寄せたまま、珠洲は昴のほっぺに小さくキスをした。
ちゅ、と小さな音がして、周囲の局員たちが「あー」「いつもの」と生温かい視線を送ってくる。
そんな視線、珠洲は気にしない。
「相変わらずだねぇ、珠洲ちゃんは」
昴が苦笑いしながら、片腕で珠洲を抱きしめ返す。
いつもと同じように、背中をぽんぽんと叩いてくれる。
――??
そこに、ほんのわずかな違和感があった。
昴の腕の感触が、少し、硬い?
うまく説明出来そうもないが、筋肉の付き方の問題ではなく、もっと根本的な何かが違う。
バランスの取り方がいつもより、不自然なような。
珠洲は、反射的に昴の腕をなぞった。
肩から肘、手首へと指先を滑らせる。
形は、いつもの昴の腕だ。
骨の位置も、筋肉の膨らみも、触った感触もいつも通り。
それでも、何かが違う。
昴の太ももに足を預けたときの感触も、やはり、どこか違っているように思えた。
珠洲だからこそ気がつく違和感。1日のほとんどを昴を見て過ごし、それを365日。物心ついてからずっとしてきた。
だからこそ気づけた。
珠洲は、ゆっくりと顔を離して昴を見上げた。
「……昴」
「ん?」
「いつもと、違う」
小さな声。だが、はっきりとした疑問だった。
「怪我、した?」
瞬間、昴の顔が固まった。
いつものへらっとした笑みが、一瞬だけ抜け落ちる。
周囲で見ていた局員たちには、おそらく気づけないほどの一瞬。
だが、珠洲にはわかった。毎日のように昴を見ているから。
昴はすぐに、照れ笑いに似た表情を作り直した。
「……さすが、珠洲ちゃん。勘がいいね」
そして、周りの局員たちに向き直る。
「悪いけど、ちょっと珠洲ちゃんと二人で話してくる。みんな、散った散った。心配してくれてありがとねー」
昴が手をひらひらと振ると、局員たちは名残惜しそうにもしっかりと解散していった。
「何かあったらすぐ呼んでくださいね!」
「無茶しないでくださいよ、局長!」
「休んでくださいよ、マジで!」
それぞれに声をかけて去っていく。
廊下が静かになったころ、昴は珠洲の肩を軽く叩いた。
「珠洲ちゃん、部屋行こっか」
珠洲は黙って頷き、昴の手を握った。
その手の感触も、やはり少しだけ違う。
昴の部屋に入ると、扉が静かに閉まる音がした。
外の喧騒がすっと遠のき、二人だけの空間ができる。
「さて、と」
昴はベッドの端に腰を下ろした。
珠洲は、そのすぐ隣にぴったりと座る。
いつもなら、それで終わる。
訓練の疲れを報告し合ったり、おやつを食べたり、どうでもいい話で時間を潰したり。
スキンシップも、その中に自然に溶け込んでいく。
だが今日は違う。
「さっきの話なんだけどね」
昴が、少しだけ真面目な声で言った。
「珠洲ちゃんが言った通り、怪我をしました。いや、正直に言うけど……手足無くなっちゃった」
珠洲の喉が、ひゅっと鳴る。
「……なくなった?」
「うん」
昴は、いつになく悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「見てみる? あとこれは、みんなには内緒だからね」
そう言うと、昴はゆっくりと寝そべった。
次の瞬間、珠洲にはそれが見えた。
昴の足首から先が、ふっと薄くなり、光の線となって空気に溶けていく。
同じことが、手首にも起きる。
指先が、掌が、ふくらはぎが、ももが――淡い光の輪郭に変わり、そのまま霧のように消えていった。
残ったのは、ベッドの上に座っている昴の胴体と、その付け根だけ。
膝膝上から先が、肩から先が、そこには存在していなかった。
肉の切断面は見えない。と言うより認識出来ない。
それでも、珠洲には理解できた。
――昴の手足は、本当に、もうないのだと。
息が止まりそうになった。
けれど、不思議と悲鳴は出なかった。
代わりに胸の奥から湧き上がったのは、圧倒的な衝撃と、それに続く明確な思考だった。
昴、手足、ない。
事実を飲み込む。
たしかに、多くのものが失われたはずだ。
戦闘力、自由、日常生活の一部。
普通の人間なら絶望する類の喪失。
でも昴はちょっと不便、それだけで終わらせてしまう。
昴は能力で手足があるように見せている。
だから、戦うことも歩くことも今までと変わらずできるのだろう。
けれど、その虚構の四肢は、本当の身体ではない。
無理をすれば、どこかに歪みが出る。
能力が切れれば、昴は途端に動けない人になってしまう。
そう、能力が使えなければ何にも出来ない、一般人以下。
ふふふ。
珠洲の中で、何かがカチリと音を立ててはまった気がした。
昴は、軽く肩をすくめる。
「ね、びっくりしたでしょ」
いつもの調子だ。
自分の手足がないことを話しているとは思えないほど、飄々としている。
「でも、こうやって能力で手足作れるからさ。実質ノーダメージ……とは言わないけど、まぁなんとかなるよ」
昴は能力を発動させる。
消えていた手足が、再び光の線として伸び、すぐに元通りの形を取った。
先ほどまで空っぽだった空間に、また腕と脚がある。
触れれば温かく、ちゃんと力も入っている。
それでも珠洲には、もう騙されなかった。
それがニセモノであることを知ってしまったから。
「みんなには秘密だよ? 言ったら怒るからね。マジで」
昴がウィンクする。
「珠洲ちゃんだけ、特別」
その一言で、珠洲の胸が大きく跳ねた。
秘密を共有している。
昴の一番大事な弱点を、知っているのは自分だけ。
言葉にならない感情が、喉の奥で渦を巻いた。
「……昴」
ようやく、名前だけがこぼれる。
「なぁに?」
「……痛かった?」
昴は、少しだけ目を伏せた。
「まぁ、そりゃあね」
軽く笑おうとする。その笑みが、ほんの一瞬だけ歪む。
「でも、もう終わったこと。だから、珠洲ちゃんは気にしなくていいんだよ」
そう言って、昴は珠洲の頭に手を載せた。
虚構の手。けれど、その暖かさは昴そのものだ。
「……泣いてない」
「うん、えらいえらい」
ぽんぽん、と優しく撫でられる。
珠洲の胸の内側で、何かが静かに膨らんでいく。
珠洲の憂鬱の能力は、相手の意思を削ぎ落としたり、氷で動きを封じたりするものだ。
――もし。
自分の憂鬱を、もっと深く、もっと深く突き詰められれば。
全く動かないように出来たら?
全てを停滞させることができたら?
能力を使えなく出来たら?
昴は、手足を出せなくなる。
何もできなくなる。動けなくなる。
モゾモゾと体をよじらすことしかできなくなる。
――ゾクゾクっとした快感が珠洲の身を包み込む。
昴が手を伸ばす先に、自分しかいないような世界。
抱きしめてほしいときに、抱きしめてあげられるのが自分だけの世界。
そのとき、昴はきっと、珠洲を見る。
お母さんみたいな家族としてではなく、別の形で。
想像しただけで、下腹部が熱くなった。
「珠洲ちゃん?」
昴の声が、現実に引き戻す。
「さっきから、ずっと黙ってるけど。怒った?」
「……怒ってない。楽しみなこと思いついただけ。」
珠洲は首を横に振った。
それから、そっと昴の腕に抱きつく。今度は、さっきよりも少しだけ優しく。
「昴」
「ん?」
「……好き」
小さな、小さな声。
けれど、これは家族に向ける言葉ではない。
珠洲自身は、その違いをちゃんと知っている。
昴は、いつものように笑った。
「知ってるよ」
そして、さらりと言う。
「珠洲ちゃんは、いい子だもん。大事な家族だよ」
胸の奥で何かが、ぎゅっと縮む。
そうだ。昴はまだ、そういうふうにしか見ていない。
母親みたいな、妹みたいな、家族の一人としてしか。
でも――それでいい。
今はまだ、それでいい。
珠洲は、昴の胸に額を押し当てた。
昴の心臓の音が聞こえる。ちゃんと、生きている。
いつか、わからせる。
昴の髪に顔を埋めて、そっと匂いを吸い込む。
その香りだけで、胸の中の世界が満たされていく。
珠洲は、小さく目を閉じた。
昴の虚構の腕が、静かに自分の背中を撫でる。
その温もりを全身で受け止めながら、珠洲はただ一つの事実だけを、心の一番深い場所に沈めた。
――昴は、自分のものだ。
まだ昴は、それに気づいていない。
でも、それもいつか変わる。変える。
未来の決めた人? いいよ、その人は2番手だから。昴の1番は私。
その日が来るまで、珠洲は黙って、昴の傍にいるつもりだった。
ヤンデレ覚醒




