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お嬢様とわたし  作者: ふとん
長いエピローグ
19/19

彼と彼女のこと

 私は、生まれてから両親に逆らったことなどなかった。

 生まれた時から囲まれていた世界は本当につまらなくて、平凡で、それが全部当たり前だと思っていた。  

 きっとそのつまらない箱庭のような世界でずっと生きていくのだと疑いもしていなかったから、私はずっと気付かないふりをしていた。


 でも、もう私は知っている。

 箱庭の外が苦しくて、厳しくて、とても美しいことを知っている。


「……いやです」


 灰色の世界になんて、もう戻れない。


「何?」


 その場に押し留まる私を見て、父は顔を真っ赤にした。


「誰のおかげで育ったと思っているんだ! 娘なら恩返しぐらいしたいと思わないのか!」

   

 会社の受付で騒ぎを起こしたと知られれば、私はクビになるかもしれない。

 でも、それでも私はもう父の言葉に頷けなかった。それが悲しくてたまらなかったけれど、それでも頷けなかった。


「私は、お父様のペットじゃないのよ!」


 言ってしまった。

 とうとう口にしてしまった言葉をぶつけられた父は一瞬言葉をなくしたけれど、すぐ顔を思い切りしかめた。


「何て恥知らずなことを言うんだ! お前は親の言うことを大人しく聞いていればいいんだ!」


 振り上げられた手に反射的に身が竦む。

 部屋に連れ込まれて男に手を上げられそうになった光景が蘇って私を硬直させてしまったのだ。

 突然のフラッシュバックに叫ぶこともできなかった私はただ目をきつく閉じる。


 でも、いつまで経っても覚悟した痛みは襲ってこなかった。

 

 恐る恐る目を開けると、父は誰かに手をつかまれていた。


「――高円寺さん。契約違反ですよ」


 穏やかな声だというのに、言葉は厳しかった。


「僕との契約を破ったときの約束は、覚えていらっしゃいますか?」


「し、知らん!」


 父は自分の腕を取り返し、焦ったように吠えた。


「お前のような奴との契約など、守る義理はないぞ!」


「その場合は返済を待たず、あなたの私財すべて差押えさせていただきます。もちろん、契約違反のペナルティも履行させていただきますよ」


 無情ともいえる声に父は舌打ちして、踵を返す。


「勝手にしろ! そんな親不孝な娘、こっちから縁を切ってやる!」


 走り去っていく父の後姿を私は呆然と見送った。

 私は、借金返済を盾にあっという間に父から縁を切られてしまったらしい。

 それが悲しいのかどうかも分からないでいると、こつ、とこちらへ近づく靴音を聞いて我に返る。


「……大丈夫?」


 私の頬に手を伸ばしかけたけれど、それは宙で留まって彼は取り繕うように苦笑した。

 灰色のスーツを着た、優しい笑顔の借金取り。


「……吉之助」


 彼は私の顔を見下ろして、今度は優しく微笑んだ。


 

 様子を見にきてくれていた先輩に吉之助は「後見人です」と挨拶すると、私が早退できないかと先輩に交渉した。

 騒ぎを見ていた先輩は二つ返事で肯いてくれ、


「今日は時差ボケがひどいから体調が悪いみたいですって言っておくから」


 あとは任せて、と私のカバンとコートまで持ってきてくれた。


「ありがとうございます」


 そう頭を下げた私に先輩はぽんと肩を叩いてくれる。


「大丈夫。頑張って」


 にっこり微笑んだ先輩に背中を押されて、私は吉之助と会社を出た。



 会社を出ると、長い街路樹が続く。

 古いビルが多いこのあたりは平日の昼間は特に静かで、誰もいない道に静かに落ち葉が舞っている。

 少しだけ肌寒いけれど日差しは暖かくて、穏やかな空気に先程までの騒ぎの熱が少しだけおさまった。


「――吉之助」


 少し前を歩いていた吉之助が問いかけるように振り返るので、私も問い返す。


「……どうして、ここへ来たの?」


 吉之助は足を止めて私を見て少し苦笑する。


「大貴くんに連絡をもらったから」


「弟に?」


 弟の大貴は吉之助と話したと言っていた。    

 けれどそれと吉之助がやってきたことが繋がらなくて眉根を寄せると吉之助は「怒らないでね」と言い添えた。


「大貴くんは、ご両親が隠れて何かやっているんじゃないかと疑っていたんだ。だから僕にお姉さんのことを見守ってほしいって頼まれてた」


「そんな…」


 弟は私に話したときにはすでに両親を疑っていたのだ。


「心配してるんだよ、大貴くん。……君は優しいから」


 私は別に優しくなんてない。父の望む娘ではなかった。

 押し黙る私に吉之助は苦笑をこぼした。


「そうやって、どんなに理不尽なことを言われても自分が悪いと思ってしまうんだから」


 俯いた私の目に、吉之助の靴が目に入った。


「――田上くんが知らせてくれたんだよ。君のお父さんが君の会社に向かったって。嫌な予感がしたから僕が来た。田上くんは契約の詳しいことは知らないから」


 吉之助の靴は少し汚れていて、もしかしたら彼は大急ぎで走ったのかもしれない。


「……契約違反の時のペナルティって何なの?」


 私の質問に吉之助は少し黙ったけれど、怯まなかった。彼は静かに告げてくる。


「高円寺と君との縁を切って、僕が君と結婚すること」


 思わず顔を上げてしまった。でも私はすぐ後悔する。驚いた私を吉之助が表情の読めない顔でじっと見つめていたのだ。

 熱くも冷たくもない、ほとんど無表情のような顔でただ私を見つめていた。


「君のご両親は、僕の家柄がとてもお嫌いでね。だから、君と大貴くんのことを静かに見守ることを条件に差押えを止めたんだ」         


 呆然と見上げる私に、吉之助は淡々と契約内容の説明を続ける。


「もしも君や大貴くんの進路や生活を邪魔するようなことをしたりして、この条件を破った場合は、僕が君を奪うことをペナルティとして」


 私は両親に人質だと言われたことを思い出す。

 この条件では、確かに私は人質だ。

 でも、目の前の人は決して私を人質として扱わなかった。

 それは、もしも私と結婚する時のための予行演習のようなものだとしたら。

 最悪の推測が私を絶望させていく。

 

 全部が吉之助の思惑なら。

 優しくされたことも、笑いあったことも、すべてが色褪せていく。


「――信じてもらえないかもしれないけれど」


 呟くような声で吉之助は溜息をついた。


「僕はこのペナルティが絶対に履行されないと思っていたんだ」


 吉之助はまるで泣き出しそうな顔で微笑んだ。


「家族にまだ夢でも見ていたみたいで、自分でも馬鹿だと思うよ。こんな条件で契約するなんて」


 でも、と彼は吐き出すように言う。


「僕は、君を自由にしたかった」


 静かな声が優しくて、たまらなかった。

 どうしてこの人はこんなに優しくなれるんだろう。


「何でもいいんだ。君をペットなんて呼ぶような場所から、自由にしたかった」


 たったそれだけ。

 それだけのことに、この人はどうして自分まで差し出したんだろう。


「……あなた、本当に馬鹿よ」


 そばにいる吉之助からはひどい煙草の匂いがする。

 苦くて、苦くて、それでも私を落ち着かせる香り。


(ああ、そうか)


「……吉之助だったのね。あのパーティで私を助けてくれた人は」


 あの人もこうやってひどい煙草の匂いで、とても優しい声だった。

 半ば確信して吉之助を見上げると、彼は目を瞬かせて照れたように笑う。


「……これは絶対言わないつもりだったのに」


 吉之助は観念したように頷いた。


「そうだよ。あの日、君を助けたのは僕」


 そう答えた吉之助は「やっぱりすごい」と苦笑する。


「君は、ちゃんと自分で自由になれる人だ」


 どういうことかと首を傾げると、吉之助は自嘲した。


「僕にはできなかったことだから。君の手助けをしたかったんだ」


 何でもいいから、私を自由にしたかった。

 ただそれだけのことに、この人はたくさんの労力を惜しまなかったのだ。


「……吉之助」


 私はどれだけこの人に返すことが出来るんだろう。

 でもどれだけ感謝しても返せないような気もする。

 それでもちゃんと彼の目を見て言おう。


「ありがとう、吉之助」


 自分の気持ちを全部、この人に伝えよう。


「――私、あなたのことが好きなの」


 この想いがどういうものなのか、本当は分かっていない。

 でも、私はどんなに吉之助のことを忘れようとしても忘れられない。

 この優しい人のことを嫌いになんてなれない。

 きっとこの先、一生。


「迷惑なのは分かっているけれど、私、吉之助が好き」


 見つめた瞳が苦し気に細められたかと思えば、吉之助は私の頬を両手で包んだ。


「……分かってる? 僕は君を奪いに来たんだよ。家も君自身も」


 契約違反のペナルティを履行するために、彼は今日現れたのだ。

 だというのに、吉之助の手は私を優しく包むだけ。


「君を自由にしたかったのに、その僕に君を縛れっていうの?」


 ふわりと顔が寄せられたかと思えば、吉之助は自分の額を私の額にこつりと合わせた。


「君は、本当に馬鹿だ。やっと自由になれたのに」


 吐息に混じりに呟く声は、優しく甘い。


「……本当は、君と暮らすはずじゃなかったんだ」


「え?」


 問い返すと囁くように吉之助は笑う。


「僕の作った契約書をどこかで見たんだろうね。父が僕に業務命令を出したんだ。君と暮らすように。たぶん、僕を君と結婚させてしまいたかったんだろう」


 まんまとやられたよ、と笑う吉之助はそれほど悔しそうでもなかった。


「……僕が君を好きになるなんて、息を吸うより簡単なことだったのに」


 囁きが甘くてめまいがしそうだ。

 吉之助の煙草の苦い香りがこんなにも甘くなるなんて。

 私の世界を彩ったすべてがここにあるような気がした。


「麗子さん、僕も君が好きだよ。――愛してる」


 優しい香りに包まれて、私は目を閉じた。



 

                                           おわり



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