第三十五話
そのあとは他愛ない話をしていると、驚くほどあっというまに夜の零時を越えた。
別荘の明かりが、そっと消える。
風の吹く音が、やけに大きく聴こえた。
「……よし、やるぞ、やよちゃん」
「うん」
ああ、いよいよ、だ。
いよいよ、これで――。
ほんとうのほんとうに、取り返しのつかないところまで行くんだ。
武は、買って来た灯油をひょいと持ち上げると――。
躊躇なく、辺りにばら撒いた。
すごく、あっさりとしていた。
拍子抜けするくらいに。
こんなに簡単に、ひとって殺せるんだって思うくらいに――。
あとは、火をつけるだけだ。
そんな段階なのに、武はポケットをまさぐっている。
「あれ? どこやったかなー?」
「……どうしたの?」
「んー、なんか、ライターがないっぽい」
「え、ほんとに?」
「ほんとほんと。俺ってば、だいじなときにドジするなー」
困った。
ライターがないと、火をつけることはとうぜんできない――。
でも、もしかしたら。
もしかしたらだけれど、いまならば。
思いとどまれるんじゃないか、なんて思ったそのとき。
「やよちゃん、わるいんだけど買って来てくんない?」
「……え?」
「だからさ、ライター。ちょっとコンビニ遠くってわるいけど、ここもだれかが見張ってなきゃだろー」
このりぼんの誓いは――。
そんなに簡単に、破れない。
破ることは、できない。
私は、わかった、と返事をすると、くるりと背を向けて歩き出した。
夜の山道を、ひたすらに歩いていく。当然のことながら暗い。足もともおぼつかず、どこを歩いているかすらよくわからない。
不気味を通り越して、こわい――。
ふと、違和感を、おぼえた。
武はこんな危ない夜道を、私ひとりで歩かせるようなひとだったっけ――?
……戻ったほうがいい、と直感的に思った。
きっといま、取り返しのつかないことになっているかもしれない。
なぜだか、そう思った。
駆け足で別荘に戻ると。
そこでは――。
信じられない、ことに。
武が、マッチで、火をつけていた。
「なにしてるの!」
私は言うと、武の手からマッチをはたき落とした。
「やよちゃん」
武はめずらしく、驚いた顔をしている。
「なんで戻って来ちゃったんだよ」
「戻って来ちゃった、って……やっぱり、やっぱりそういうつもりで」
武は――自分ひとりで、火をつけるつもりだったのだ。
「どういうつもり?」
武はとぼけると、もう一本煙草を取り出そうとする。私はその背中にしがみつき、腕をぎゅっと握る。
「武だけが罪を背負うんじゃ……そんなの、意味ないじゃんっ……!」
「あのね、やよちゃん」
武は言う。いつもののんきな声で。
「俺はね、ぶっちゃけ、つまらない人生を送ってきたと思うよ。べつにそれでいいって思ってた。俺は落ちこぼれだし、それが俺の人生だ、って。でもね、あるとき気づいたんだ。ああ、俺、生きててもだれの役にも立ってないんだなあ……って」
「そんなこと」
「聴いて。でもやよちゃんと出会った。出会えた。俺は、こんなに燃えるような気持ちになったのは生まれて初めてだった。やよちゃんの役に立ちたいって、思った。自然な気持ちなんだ。嘘なんか、ひとつもついてない」
武はひまわりのように、笑う。
「俺は、弥生の幸福のためなら、悪にだってなる」
「武……」
私はうつむいて、唇を噛みしめる。
「でも」
「でも?」
顔を上げて、言う。
私の、たどり着いた、答えを言う――。
「武のいない未来なんか、幸福じゃない」
武は――衝撃を受けたような、顔をした。




