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第三十二話

 バスに揺られること、およそ二時間近く。目的地に、着いた。

 そっとバスから降りる。ここで降りたのは、私たちだけだった。バスはあっさりと発車し、振り向くこともなく私たちを置いて行った。

 すっかり、暗くなっていた。もう、光の残滓もない。夜だ。

 降りた場所は、山のふもと。道路があり、木々が生い茂り、畑が広がり、沈黙する家が何軒かあるほかには、なにもない。

武も辺りを見回し、スマホを取り出した。

「たしか、歩いて行けるよな」

「別荘? 行けるよ」

「あー、ううん。そうじゃなくてさ。まずは、ガソリンスタンド行かなきゃだろ」

 意味を理解したと同時に、背筋が凍るようだった。

 ああ、そっか――。

 燃やす、んだもんね。

 よく燃やすためには、灯油が必要だ――。

 武はスマホを確認して、言う。

「うん、だいたい歩いて十五分か二十五分くらいってとこだ。歩けるか、やよちゃん?」

「……歩けるよ」

「こわい?」

 武は、直球で訊いてくる。

 私は頷くわけにもいかず――。

「そんなことないよ」

 小声で、答えた。

 武はすこしのあいだじっと黙っていたが、やがて、そっか、と言うと、私の手を握った。

 いきなりのできごとに、私は驚いて武の顔を見る。

 武は、にっこりと笑った。

「やよちゃんと、いっかい、こういうことしてみたかったんだ」

「こういうこと、って」

「恋人らしいじゃん?」

 武はそう言いながら、歩き出す。私も武の手をきゅっと握り返し、恋人つなぎで静かな道を歩きはじめた。

 ここまで来ると田舎だし、もう夜だし、だれも歩いているひとはいなくって、だからだれに自慢するわけでもない。

 でも、私と武は。

 たしかに恋人だってことを、こうやって確認できて――。

 私は、この時間が永遠に続けばいいのにと思った。

「だいじょうぶだよ、やよちゃん」

 武は、愛しそうな声で言った。

「俺がやよちゃんを守るから。なにがあっても、やよちゃんを不幸にしないから」

「……うん」

 その言葉は、とてもとても幸せなものだったけれど。

 ひと殺しになる時点で、私に幸せなんかありえないよ――。

 そう、言おうかと思ったけれど。

 やめておいた。

 そんなの、武だっておんなじなのだから。

 わかっている、ことなのだから。

 手をしっかりと繋いで沈黙したまま歩いて行くと、やがて、ガソリンスタンドに着いた。

 怪しまれないかと私は心配で、冷や冷やしていたけれど、ガソリンスタンドのお兄さんは、笑顔で灯油を売ってくれた。

 帰り道、武に灯油を持ってもらい、もうひとつの手を繋いで歩きながら、私は不安になって言う。

「怪しまれなかったかな」

「俺って明るいかんなー。怪しまれようがないだろ」

「でもさ」

 真夏に、高校生がふたりで、灯油を買いに行ったら。

 それはやはり、怪しいんじゃないだろうか……。

「んー。どうだろね。もしかしたら、怪しんだのかもしれない。でも向こうも商売だし、怪しいです、って言って売らないわけにもいかないだろ。それに」

 武は前を見据えたまま、言う。

「いくら怪しまれたって、関係ないさ。俺はきょうの作戦をやり遂げられればいだけだ。そのあと、あの店員がなにを証言しようが、かまわない」

 それは、つまり、そういう意味――?

 そう思ったけれども、さすがにそんなことは訊けなかった。

 手を繋いだまま、小さな山の道を登る。別荘は、山の中腹にある。もう暗いせいで、いくら小さな山とはいえ、木々が風でがさがさと鳴ったりふくろうの鳴き声がするのは、なかなかに不気味だ。

「やよちゃんはさ」

 武は、唐突に口を開く。

「この別荘って、来たことあるの?」

「あるよ。いっかいだけだけど」

「そんときって、楽しかった?」

「……まあね。それなり」

 楽しかった、と言い切るのは癪で、私はそんな曖昧な言いかたをした。

 もちろん、あの男と出かけたのが楽しかったというわけではない。お母さんと出かけたことが、そこまで嬉しかったわけでもない。夏休み、避暑かなにかでこの別荘に来たときはたしか三年ほど前で、私は小学五年生だった。そのときに、中学三年生だった志乃ちゃんとそのお母さんである飛鳥さんも、なぜかいっしょにいたのだ。まあ、なぜか、というよりは、あのときはあの男の正式な妻は飛鳥さんだったのだから、私とお母さんが同行しているほうが不自然だったのだけれど。あの男は、ほんとうに頭がおかしい。

 じつに複雑で下劣な関係であろう三人のおとななんか放っておいて、私たちは、きゃっきゃと遊んだ。広い別荘のなかを探検して回ったり、川まで出かけてわざわざ水着にまで着替えて水遊びをしたり、山のなかにダンボールで秘密基地をつくり、漫画やお菓子を持ち込んでゆっくりと過ごしたり。志乃ちゃんと、あんなにゆっくりと過ごせることなんて当時はまだほとんどなかったから、とてもたいせつな時間だった。

別荘の部屋に射し込む光や、水のきらめきや、山の木漏れ日を、私は、いまもよくおぼえている。

「いいのか、やよちゃん? これはさ、確認なんだけど」

「なにが?」

「俺はこれから、やよちゃんの思い出までも破壊しようとしている」

「……いいよ。そんなの」

 私は武と目を合わせないように、前をじっと睨みつける。

「新しい未来に行くためには、過去も破壊しなくちゃ」

 じぶんに言い聞かせるように、そんなことを言う。

 武は、すこしのあいだじっと黙っていたけれど。

「そうだよな。やるしか、ないもんな」

 強張った声で、呟くようにして、そう言った。

 ふと見た、武の横顔は。

 とても険しくて、こわくって。

 私は脅えてしまったけれど、もちろん、そんなことも言わない。

 やがて――。

 近づいて、きた。 

 別荘だ。

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