第三十一話
山に行く最終バスの出発時刻は、夜の七時近かった。私たちは、夜の六時に駅のだるま壁画の前で落ち合った。よく、志乃ちゃんと待ち合わせたその場所だ。
武は、ニット帽を被っていた。珍しいことだ。
「帽子だ」
顔を合わせてすぐに、私はからかうようにして言って、そのニット帽をつんつんとさわる。
「くすぐったいな」
武はそう言って、笑う。
それはまるで、いつもの日常で――。
きょう、日常がすぱっと終わるだなんて、実感として信じられないというのが本音だった。
私は帽子から手を離し、しばし、武と向き合う。近い距離――。
「覚悟はいいか、やよちゃん」
「……うん。武こそ、いいの?」
「もちろんだ。まずは、やよちゃんの親父さんの番だ。その次は、俺の兄貴なんだから」
低い声で、呟くようにして武はそう言う。その真剣さを見て、ああ――ここはやはり、日常ではない、と思った。
「その帽子も、変装みたいな?」
「そうだよ。ちゃちいけどさ、なにもないよりましだろ?」
真夏とはいえ、遠くには紅色の光がかすかに見え、風もすこし涼しくなってきている。陽が、暮れるのだ――。
そして、陽が明けたとき。
私たちは、本物の非日常に生きはじめていることだろう――。
どちらともなく、バス停に向けて歩き出す。
この夕暮れの風があまりに気持ちよくて、気持ちよすぎて、こわくなる。こんなにも爽やかな感覚をおぼえるというそのことじたいが、なぜだか焦りを掻き立てる。
バスを待つ十分近くの時間は、互いに、無言だった。私はあえてなにも考えないようにして、ただ風を感じていた。
やがてバスがやって来て、乗り込む。
バスのなかにはちらほらひとがいたけれど、私たちみたいな目的を持っているひとは、まずいないだろう。みんな、この真夏の心地いい夕暮れに、平和で、愛しい目的がきっとあって――。
そう思うと、悲しかった。
私たちは、バスのいちばん後ろに向かう。そこは五人がけの席だけれど、だれも乗っていなかったのだ。
武は私を奥に促し、右隣に座る。
バスは、しばし停車したあと、発車した。
ゆっくりと。
私たちを、非日常へと連れて行く――。
車内のアナウンスには、たしかに、私たちが降りる山の名前もあった。
ああ。
いよいよ――。
私は、ひさしぶりに口を開く。
「……ねえ、武」
「なに?」
「もたれかかっても、いいかな」
武は驚いた顔をしたけれど、すぐに、いいよ、と笑った。気のせいか、なんだかすこし切ない笑顔だと思った。
私は、武に身体を預けた。
きょうも頭につけてきた、武からもらった真っ赤なりぼんを、強く意識する。
誓いの、あかし――。
私はそっと目を閉じて、思う。
神さま、信じてもいないけれど神さま。
私はこれから、大好きなこのひととともにひとを殺します――。
ゆるされるでしょうか。ゆるされないでしょうか。
どちらでも、いい。
ただ、私は――。
こわい。
どうぞ、意気地なしと嗤ってほしい。
だって、私は――。
バスは進む。陽は暮れていく。
私は、私と武は、このりぼんに誓って罪を背負う――。




