第六章:黄金が蝕む白 04
エミール・シオランは、かつて神の前で透明だった。敬虔な信徒を両親に持つ彼は、毎日教会へ通い、世に生まれた感謝を神へと捧げた。
毎日が幸せだった。優しい両親も、いつも気にかけてくれる隣人も、自然の息吹溢れるストラストも、すべてを愛していた。
あらゆる善意は、神からの訪れだった。神は尊く、だからこそこの世は善に溢れている。自分が歩むその道程は、くまなく神の視界に入っていて、絶望が入る隙などどこにもない。この世界は幸いである。
そう、信じてやまなかった。
――地獄を見た。
幾千、幾万の人が、血と臓物の海に伏す、本物の地獄を見た。
街ひとつを食らった大災厄。エミールがなぜ生き残れたのか。もはや彼には、当時の記憶など残っていない。
ただ確かなのは、隣人らの悲鳴が世を壊すラッパのように聞こえたことでも、両親が尊厳を壊される形で殺されたことでもなく、神はいないと理解したことだった。
あの日、神は死んだ。
神は死んだのだ。
そうでなくば、かような悲劇が繰り広げられていいはずがない。
そしてエミールは、神の叛逆者となり、いまアウラ大聖堂にいる。
与えられた命令はただひとつ。
神を殺せ。偽りの神を殺せ。神を自称する愚か者に、我々人間は、人間だけで立って生きていけるのだと証明せよ。
それが、ようやく臨む。
「こんにちは、システィーナ様」
――やっと見つけた。
神がいる。アレラルが国を挙げて担ぐ、本物とされる神がいる。
システィーナ・レンディット。齢二十一の女性が、静かに祈りを捧げていた。
地下で光源も乏しいのに、どうしてか彼女がまばゆくて仕方がない。彼女を前にすれば、皆がその威光にひざまずく。
七色に揺れる瞳がエミールを視る。一瞬で、人生すべてを覗かれたような予感が走った。それでも、少年は笑みを貼り付けたまま歩みを止めない。
「賊か、動けば殺す」
重い警告が静かに響く。ローザンヌ修道騎士会のフェリクスが、東洋の刀を持って立ちはだかっていた。腰には説話施術士らしく、読み古したのであろう幾冊もの書物が引っかけられている。
修羅だ。
「はは、じゃあ止まるよ」
ふっと微笑んでみせ、エミールは両手をあげて立ち止まった。
視界には、祈り続けるシスティーナと、それを護らんと立ちふさがるフェリクスのみ。護衛は他にいない。
胃の底から笑いがこみ上げそうになって、エミールは笑んだままこらえた。
ご覧のありさまだ。二人いるはずの護衛は、いまやただ一人。すべては計画通り。いや、計画以上。このうえない、絶対的な好機。
エミールはシスティーナを凝視する。ただそれだけでいい。
システィーナもエミールを視る。瞳の色は警戒を宿した赤。今度は何も感じない。そうだ、こいつは人だ。ただの人だ。なんの力もない、非力な人だ。
だから、石化が始まる。徐々に、だが致命的に、石になっていく。
フェリクスが異常に気付く。修羅が動く。もう遅い。修羅の瞳に怪訝、そして足が止まる。足元が既に石になっている。
「――くふっ」
笑いが落ちた。誰のものでもない、エミールの、本物の笑い。
「やっと、やっと、やっと……!」
二人は石像となった。敵を討った。神を、その御座から引きずり落とした。
人が神を破ったのだ。
エミールは顔を覆う。すべてが終わった。奇蹟などなく、人の身で、ここまでやってのけた。
エミールは、よろこび、笑った。
――亀裂音。
神の石像が壊れる。ぼろぼろと表面が崩れ落ちると、システィーナだったはずの女が、黒髪にヴェールの淑女となって立っていた。つい先ほどまでエミールと戦っていたカルラが、そこにいた。ヴェールから覗く唇が、三日月を描く。
「は?」
顔を上げたエミールの意識に空白が生まれる。三日月が頭から離れない。
さらなる亀裂音が、エミールの意識を取り戻させた。無表情の修羅が鍔尻に指をかけている。
「どうなっている?」
ゾルデの荒い声が耳朶を打つ。理解は追いつかない。
「遊戯はしまいか?」
修羅の声が圧し掛かる。ゆっくりと刀を抜く。抜刀の音が、エミールの心の臓を震わせた。
「そうか。では俺の使命を果たそう」
修羅が刀の切っ先をエミールに向けた。
「我こそ世の理を正す、神の下僕なり。喜べ外道。貴様らの果てがこの俺だ」
ゾルデが叫ぶ。
「なぜその女がここにいる!」
修羅は答えない。三日月の淑女も、ただ不気味に微笑むのみ。
「嵌められた……」
エミールの身体がわなわなと震えて止まらない。
窮地の際、福音伝達者はアウラ大聖堂の最奥部に身を隠す。パスカルから受け取った情報だ。間違いはない。ただ、裏切者すらも織り込んで保険を用意していたとしたら、どうなる。
ぞっとした。
エミールは、フィアラルの手を読み切ったはずだった。パスカルがいたからだ。それすら超えて、老獪な政治家は手を打ち、致命的な罠を張った。エミールはそれに両足で飛び込んだのだ。
無様。操り人形ではない。そう思って進んだ先がこの袋小路。絶望とは、このことか。
「……どうすればよかった?」
エミールの口から、泣き言が落ちた。心はぐちゃぐちゃ。思考も紡げない。この土壇場で、十年間彼を支え続けたなにかが折れた。
「ボクたちはどうすればよかった!」
答えはない。そも、こんなものを敵に訴えることすらどうかしている。
修羅が刀を右に握りながら歩みを進める。ゆっくりと、だが確かに、死が近づいてくる。
でも、叫ばずにはいられない。
「神よ。どうしてボクたちを見放したのです!」
十年前、神の前で透明だった少年は、どん底に落ちて神を恨み、復讐を誓った。そして、再びどん詰まりに転がり堕ちた。縋れるものはなにもない。寄る辺のない世界で、唯一縋れるものが神なのだ。
神を捨てた者に救いはない。だけど、こんな状態になってなお、エミールは神を叫ぶ。
「神よ。神よ。信じていたあの日は、確かにあった信仰なのに。どうしてこんな悲劇ばかりの訪れを寄越すのですか!」
影が差す。フェリクスが刀を振り下ろした。




