第四章:奈落への転落 05
深い青の世界が消え去る。
青の燐光と共に、まばゆい灯火が視界を焼く。目をしばたたかせたレセナは、再度転移が成功したことを悟った。
そこは、ストラストに来たばかりと同じ宿の一室だった。
一瞬の安堵。すぐにヴォルトへ意識が向こうとするも、レセナの頭に鋭い痛みが走る。今回使った転移魔法は技術的難度もそうだが、精神力を大きく消耗する。加えて、慣れない福音伝達者の感覚も使用していた。
施術の専門家とはいえ、レセナでも限界だ。
「無事だな」
ロザリロンドの声が部屋の静寂を破った。彼女も高位施術の疲労か、僅かに息を乱していたが、その猫目には安堵よりも警戒の色が濃い。
ヴォルトが剣を鞘に収めながら振り返る。
「ああ、何とかな。あの双子は何者だ? 斬ってるのにすり抜けるなんて施術、初めて見たぞ」
その声には、困惑がぬぐい切れていない。当然だ。物理的な攻撃が通じない敵など、武器を頼みとする彼にとってあまりに相性が悪い。
「私も驚きました」
ミハエルが壁にもたれかかりながら答える。公安という危険な職に就いているはずの男が、まるで病人のように青白い顔をしていた。額に浮いた冷や汗が、彼の動揺の深さを物語っている。
「理論上は存在するとされていましたが、実際に目にするとは……」
ロザリロンドが外套の埃を払いながら、猫の視線をミハエルに向けた。
「約束だ。我々が得た情報を話そう。その代わり、お前も知っていることをすべて話せ」
四人は部屋の中央に置かれた円卓を囲んだ。テーブルの表面には、宿の歴史を物語る無数の傷跡が刻まれている。ロザリロンドが簡素な茶を用意する音だけが、重い静寂を埋めていた。
「まず、我々からだ」
ロザリロンドが口を開く。
「ゾルデ・クーパーは、作られた犯人だ」
ミハエルの眉間に皺が寄る。公安の瞳に鋭利な光が宿る。
「やはりそうでしたか」
レセナが静かに口を開く。福音伝達者としての”感覚”が捉えた真実を、ついに話すときが来た。
「わたしが研究所で"感覚"を使って確認したことを話すよ」
ミハエルの顔色が変わった。レセナの言葉の意味がどういうことか、公安の彼が分からないはずがない。
「ゾルデによって酷死天使が七本奪われた。そして彼には外国の仲間がいる。ツウェルベル連邦から来た組織の人間」
レセナの声が重くなる。語らねばならない真実の重さが、ぎりぎりと身体を締め付ける。
「彼らの真の目的は、施術士特別査問法院、学術院、王国議会議事堂、そしてアウラ大聖堂への同時攻撃。福音伝達者の暗殺も含めた、国家中枢への総攻撃。つまりは国家転覆だね」
ミハエルの顔が見る見る青ざめていく。レセナが感覚で得た情報の重大さが、四人の狭間を黒く浸蝕していく。
部屋に重い沈黙が落ちる。四人それぞれの呼吸音だけが無常に響く。
ミハエルが十字を切り、短い祈りを捧げる動作を見せた。
「ツウェルベル連邦の組織――」
ミハエルの表情が険しくなる。
「四か所同時攻撃、しかも施術士関連機関を狙った組織的攻撃。この手口に見覚えがあります」
ミハエルが書類を取り出しながら続ける。
「我々が監視している危険組織のリストに、該当するものがあります」
レセナが身を乗り出す。
「それは?」
「《神の証人》――ツウェルベル連邦の反施術士組織です」
ミハエルの声が沈む。
「詳細は特務院の管轄ですが、我々が把握しているのは”施術士を標的とした暗殺組織”ということのみ」
ロザリロンドが眉をひそめる。
「情報部から聞いたことはある。だが、それだけの情報で確信できるのか?」
「攻撃規模と対象選択が一致しています。個人の復讐にしては組織的すぎる。レセナさんの感覚情報と合わせれば、可能性は高いでしょう」
ロザリロンドが拳を握り締めるのが見えた。
「まさか、奴らが十年前の事件にも関わっていたのか」
「断定はできませんが」
ミハエルが慎重に言葉を選ぶ。
「十年前の事件で不可解だった点がいくつかあります。証拠隠滅の手際の良さ、外国勢力の関与を示唆する痕跡の消失……」
「状況証拠的に、《神の証人》は黒ってこと?」
レセナが疑問を投げる。
「特定はできません。ただ、今回の攻撃手法と十年前の証拠隠滅技術には共通点があります」
ミハエルが続ける。
「そして何より、ゾルデ・クーパーが真犯人扱いされている状況。これは誰かが意図的に仕組んだものでしょう」
レセナの頭に嫌な推測が浮かぶ。
「つまり、ゾルデは騙されているってこと?」
ミハエルが頷く。
「可能性は高いでしょう。真犯人が別にいて、ゾルデを隠れ蓑に使っている」
レセナは立ち上がり、窓辺に向かった。ストラストの夜景が、街灯の明かりと共に静かに広がっている。しかし、その美しい光景も今の彼女には、偽りに満ちた世界の象徴にしか見えなかった。
「なんて……ひどい」
レセナの声が震える。
「真相を知らないまま復讐に駆り立てられ、今度は利用されている」
感傷の余地などなかった。ミハエルは実務的な話を始める。
「我々がここからカルヴァリアに戻るのも容易ではありません」
ミハエルが重い口調で続ける。
「聖都の防衛は施術感知が三重構造になっています。同様に、酷死天使のような兵器を持った者の侵入は、正規路では不可能です。彼らの目的遂行は現実的には無理でしょう」
ですが、とミハエルの眉間には苦悩が生まれた。
「《神の証人》をツウェルベルの工作機関だと仮定すると、さすがにこの認識は甘いでしょうね」
ミハエルの懸念にロザリロンドが頷く。
「工作機関なら必ず裏ルートを持っている。侵入される前提で考えた方がいいだろう」
ロザリロンドの声が低くなった。
「奴らの最終目標は、猊下の命……か」
部屋の温度が、急激に下がったような気がする。ロザリロンドが殺気立っていた。
「ここで根絶やしにせねば猊下が危険だ。奴らをここで捕らえる必要がある」
「七本でしたね……」
ミハエルが息を呑む。その数字が意味する破壊力を、公安として彼は理解していた。
「それだけあれば、街ひとつ消し飛ばせます」
その時、遠くから鐘の音が聞こえてきた。ストラストの街に響く、夜警の鐘の音。
レセナが窓の外を見つめる。
人の背には糸がある。糸の終端は神の指先に結ばれている。神に操られる人形たちが生み出した結末。それがこれだ。
こんな惨いものはない。
「わたし、決めたよ」
レセナの声から迷いが消えた。数日前まで、こんな状況など想像もできなかった。研究者として静かに暮らしていたはずが、今や混沌と化す国家の陰謀に巻き込まれた。
「誰に強制されるでもなく、わたしの意志で戦う」
レセナが三人に振り返る。
たとえどれほどの絶望に追われようと、運命がこの場所へと駆り立てた。
レセナは神が嫌いだ。ならば、操り人形から抜け出すには己の強い意志が必要だった。
これが、今のレセナにとっての羅針盤だ。
「事件を解決して、すべてを明らかにする。国でも、立場でもない、わたしが決めた。それでいい?」
窓の外に見えるストラストの夜景が、まるで彼女の決意を見守るかのように静かに広がっていた。街灯の光が、これから始まる戦いへの道標のように輝いている。
ロザリロンドが身を起こし、レセナの肩に手を置いた。
レセナは思わずロザリロンドを見上げた。猫の瞳には、いままでレセナを責めていた色はもうなかった。
「やっとその気になったか」
ロザリロンドの声に、これまで聞いたことのない響き。承認と僅かな満足。
「悪くない。それがお前の本懐か」
レセナが小さく頷く。ロザリロンドの言葉が、不思議と心を軽くした。
ヴォルトが静かに口を開く。
「レナが自分で決めたことなら、俺は何も言わない」
彼の声には、妹の成長への驚きと、危険への不安が混じっていた。
「ただし、一人で背負うな。俺も一緒だ」
レセナがヴォルトを見やる。彼のまっすぐな視線が、どうしてか照れ臭かった。それでも、夜は深く、時間は刻一刻と過ぎている。
「ありがとう、ヴォルト。でも今は――」
「その通りだ」
ロザリロンドが遮る
「猶予はない。神天院に急報を送る必要がある」
炎の修道女が指示を出していく。
「公安、レセナの事情はいまは忘れろ。お前は公安筋から情報をあげろ。私は神天院に大至急連絡する」
ミハエルが立ち上がり、外套を羽織る。
「分かりました。私の部下が外で待機しています。合流して本部に報告します」
レセナがミハエルに声を投げる。
「気をつけてね。敵はまだ街にいるだろうから」
「ご心配なく」
ミハエルが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「公安を舐めてもらっては困りますよ」
扉に手を掛けたミハエルが振り返る。
「一時間後に再度合流しましょう。それまでに本部から何か引き出してみましょう」
ミハエルが扉に向かいかけて振り返る。
「レセナさん、あなたのことはいまは伏せておきます。ですが、頼りにさせてもらいます」
扉が静かに閉まる。階下で宿の主人と短く言葉を交わす声が聞こえ、それも遠ざかっていった。




