第四章:奈落への転落 06
宿を出たミハエルは、慎重に街の裏道を歩いていた。街灯の光を避けながら、部下との合流地点へ向かう。宵闇が広がる裏道は、街灯があっても不気味だ。あんな事件があったのであればなおさらだ。
街の外れにある古い倉庫、そこで部下が待機しているはずだった。しかし、この夜の静寂は、あまりにも不自然な気がしてならなかった。
狭い路地を抜けようとしたその時、前方に人影が立っているのが見えた。首下しか月光に照らされてなくても、誰かと確認するまでもなかった。
「ミハエル」
つい先ほどまで聞いていた声が呼びかける。
「ロザリロンド?」
炎の修道女が、冷然とした表情でそこに立っていた。菱形状の乱れ髪に、背に伸びる二房の尾。間違いなくロザリロンド・ベタンクールその人だった。
「どうしてここに?」
ミハエルが困惑する。ロザリロンドは宿で待機しているはずだった。浮かぶ疑問と同時に、公安としての直感が危険を告げはじめた。
「お前を待っていた」
ロザリロンドが一歩近づく。その瞳には冷たい光が宿っている。
直観からの警鐘が鳴りやまない。
「待っていた? 何のために」
「決まっているだろう」
ロザリロンドが酷薄な笑みを浮かべる。本物のロザリロンドなら決して見せない、邪悪な表情だった。その笑みに、ミハエルの背筋に悪寒が伝う。
「口封じのためだ」
ミハエルの血の気が引く。公安として数々の危機を潜り抜けてきた彼でも、この状況の異常さに戦慄していた。
「まさか、あなたが……いや」
ミハエルの目が鋭くなる。長年の捜査経験が、思考を真相へとたどり着かせる。
「偽物だな。変身施術か……何者だ」
「ああ……」
偽ロザリロンドが冷笑する。その瞬間、仮面が剥がれ落ちたかのように、本性を現した。
「正解。おめでとう」
ロザリロンドがにこりと笑った。彼女には似合わない、人形の笑み。
「知りすぎたキミには死をプレゼントしようか」
ミハエルが武器に手を伸ばす。
その時、ミハエルに直観が走る。殺気。純粋で冷酷な殺意が、背後から迫ってくる。気配を感じ取った彼が振り返ろうとした瞬間――
鋭い刃が、彼の心臓を正確に貫いた。
「がっ――」
ミハエルに衝撃が走る。温かい液体が胸から溢れ、命が急速に失われていく。背後に立っていたのは、あの双子の片割れだった。
ジーネが無表情のまま、ナイフを深々と突き立てている。
「死んで」
ジーネが冷淡に呟く。その声には、人間を殺すことへの躊躇いが微塵も感じられない。ナイフを引き抜くと、ミハエルがその場に崩れ落ちた。
「ロザリロンド、気をつけ――」
最後の警告は、喉に刺されたナイフによって消し去られた。
ジーネがロザリロンドにナイフを手渡す。血に濡れた刃が月光を反射し、鮮烈な光を放つ。
街の向こうから、夜警の足音が近づいてくる。巡回の時間だった。
「さてさて、これで証拠も完成。天命体系で変身するの結構大変なんだよなあ」
ロザリロンドが血まみれのナイフを握りしめて笑う。眼前の死体など見慣れたものであるとばかりに。
「さて、そろそろかな?」
夜警の明かりが路地の入口に差し掛かった瞬間、ロザリロンドがわざとその姿を見せる。
「炎の修道女? なぜここに?」
夜警の驚愕の声が夜の静寂を破る。ロザリロンドは冷笑を浮かべると、血のついたナイフを持ったまま夜の闇に消えていった。
ジーネは既に姿を消している。最初からそこにいなかったかのように。
残されたのは、ミハエルの死体だけだった。
◇◆◇
宿の部屋では、沈鬱な時間が滞留していた。
レセナが時計を見る。秒針が刻む音がひたすらに不安を煽る。
「もう三十分は経ってるよ」
レセナの言葉に、ヴォルトも懸念の声を上げる。
「たしかに遅いな。何かあったんじゃないか?」
ロザリロンドが机に置かれた書類を整理している。だが、その手の動きには落ち着きがない。同じ書類が行ったり来たりしていた。
「既にシャルルには状況を報告済みだ。神天院も警戒態勢に入っている」
ロザリロンドが顔を上げる。眉間に深い皺が生まれる。
「ミハエルが戻り次第、すぐに動く予定だったが――」
その時、建物の外から重い足音が響いてきた。統制の取れた行進の音は、いまは決して聞きたくはないものだ。
レセナが窓から外を覗くと、思わず息を呑んだ。
「まさか……」
黒い制服の監査官たちが建物を包囲していた。徹底的な規律を感じさせるほど精緻に整列されている。その姿は、レセナにとっては悪夢を想起させる。
玄関の扉が乱暴に叩かれる。
「施術士特別査問法院である! 建物内の全員は即座に投降しろ!」
威圧的な声が鈍く響く。施術士にとって、処刑宣告に等しい名乗りだ。
「抵抗すればどうなるか分かっているな!」
ロザリロンドが舌打ちする。
「嵌められたか」
玄関の扉を蹴破る音がして、査問法院の監査官たちが建物に侵入してくる。重い足音が階段を上がってくる。
部屋の扉が乱暴に開くと、見覚えのある人物が現れた。その瞬間、レセナに戦慄が走る。
「やあやあ、これはこれは」
人を小馬鹿にしたような軽薄な声。現れたのは、レセナとヴォルトにとって忌まわしい記憶を呼び起こす男だった。腰まで届く長髪をうしろに撫でつけた長身痩躯。銀縁の眼鏡の奥にある小さな目が、獲物を見つけた蛇さながら鈍い光をたたえていた。
「お久しぶりですねえ、レセナ・グランジャさんに、ヴォルト・ハーデルさん」
特別監査官トゥクローが、いつもの薄ら笑いを浮かべて立っていた。眼鏡のレンズが、室内灯の明かりを反射し目元を隠す。
「トゥクロー」
ヴォルトが低く唸る。
レセナはトゥクローをにらみつける。十年前、自分とヴォルトを拘束した男。終わったはずの悪夢が、目の前に現れたようだった。
だが、トゥクローはそんなことは些細だとばかりに、ロザリロンドに向き直った。
「ローザンヌ修道騎士会ロザリロンド・ベタンクール」
トゥクローが軽い調子で告げる。だが、その奥に冷酷な本性が隠されていることをレセナは知っている。
「公務執行妨害ならびに公安職員殺害の容疑で拘束しますよお。国家非常事態宣言下では、査問法院に特別捜査権が付与されていますからねえ。施術士犯罪の専門機関として、関連する全ての事件を扱う権限がありますので」
「何だと?」
ロザリロンドが目を剥いて立ち上がる。
「公安殺害とは何のことだ?」
「いいですかあ? 物事には道理というものが存在します」
トゥクローがいつもの口調で続ける。だが、その瞳の奥に普段とは違う冷たい光が宿っていた。
「それを破れば人以下、クズです。それは何者であれ変わりませんよお? 言いたいこと、分かりますかあ?」
一枚の書類を机に突きつける。その紙には、ミハエルの死という現実が記されていた。
ぞっとした。
「つい先ほど、ストラスト市内で公安職員一名が殺害されました。背後から心臓をナイフで一突き。そのあと喉を刺してとどめ。なかなか鮮やかな手口です」
レセナの血の気が引く。人が死んだ。ついさっき、ようやく協力関係を結べたと思ったひとりの公安職員が死んだ。現実の闇は、想像していたものより遥かに深い。
ロザリロンドが呆れの混じったため息を落とす。
「証拠もなしに」
「証拠ならありますよお」
トゥクローが別の書類を見せる。表向きは軽薄だが、その声には微かな怒気が混じっていた。
「貴女が血まみれのナイフを持って現場から逃走する姿を、夜警が目撃しています。背に伸びた二つの尾と証言されていますよ? まあ、殺害手口は確かにあなたらしくないでしょうが」
ロザリロンドの顔から表情が消えた。完璧に仕組まれた罠だった。
「それに」
トゥクローが続ける。相変わらずの口調だが、声が僅かに硬くなった。
「貴女方がここにいること自体が公務妨害ですよお。施術災害対策本部の指揮系統外で勝手に動いている。これだけで我々としては十分です」
監査官たちが三人を取り囲む。施術封じの枷が準備されている。
「大人しく来てくださいねえ。抵抗すれば罪がどんどん重くなりますよお」
レセナとヴォルトも拘束の対象に含まれていた。共犯の疑いをかけられているのだ。
トゥクローがレセナとヴォルトを見る。蛇の瞳には、十年前と変わらない強烈な執着さがあった。
「ヴォルト・ハーデルさん、レセナ・グランジャさん。十年ぶりの再会ですねえ。今度こそ、きちんとお話を伺わせていただきましょうかあ」
ロザリロンドが歯軋り。
施術封じの枷がロザリロンドの手首に嵌められようとした時、レセナが声を上げた。
「ロザリロンド、転移を!」
だが、ロザリロンドは首を振る。
「いや、ここは従った方がいい」
炎の修道女の声は、氷のように冷静だった。修羅場をくぐり抜けた者だけが持ちうる言葉の説得力があった。
「列車でカルヴァリアまで輸送されるなら、どのみち脱出できる。その方が確実だ」
ヴォルトが眉をひそめる。
「だが、このまま拘束されれば……」
「いまは従え」
ロザリロンドの声に、議論を許さない強さがあった。
施術封じの枷が、金属の冷たい音を立ててロザリロンドの手首に嵌められる。彼女の施術能力が完全に封じられた瞬間、部屋の空気が重くなった。
トゥクローが満足そうに頷く。
「それでは、カルヴァリアまでご同行いただきますよお。ゆっくりとお話を伺わせていただきましょうねえ」
ですが、と振り返った時の瞳には、組織への侮辱を許さない冷酷さが宿っている。査問法院を軽んじた炎の修道女への、執拗な報復の炎だった。
「我々から逃げられるなどとはゆめゆめ思わないように」




