表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浮気旦那の隠し方が完璧すぎたので、こちらも完璧に復讐の準備することにしました  作者: こまめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/33

第七章 真実と戦友

その夜、店の扉が閉まったあとも、

私はしばらくその場を動けなかった。


橙色の灯り。向かい合って座る二人の影。


疑い続けることは、少しずつ傷つくことだ。

その傷が積もると、決定的な場面を見た時、

人は案外静かになる。



私がそうだった。

通りの向こうにある小さなイタリアン。

窓際の席に、二人の姿が見える。

亮平は女と向かい合って、少し身を乗り出して話している。


女が笑う。亮平も笑う。


家では見せない笑顔だった。

子どもに向ける優しい父親の顔とも違う。

私に向ける、落ち着いた夫の顔とも違う。

一人の男が、ただ目の前の女に気を許している顔だった。




その事実が、何よりも残酷だった。




私は店から少し離れたカフェに入り、

通りが視界に入る位置に座った。

注文した紅茶には、ほとんど口をつけなかった。

スマホのメモを開き、淡々と記録する。



十八時五十七分  亮平、女性と合流。

十九時二分  二名で飲食店入室。

十九時三分  亮平よりメール受信。


了解と送信。


書き終えると、自分の手が震えていないことに気づいた。

泣くかと思っていた。

立っていられなくなるかもしれないと思っていた。



でも実際には、奇妙なほど冷静だった。

おそらく、まだ怒りが現実に追いついていない。

あるいは私は、この瞬間をどこかでずっと、

予期していたのかもしれない。



二十分ほど経った頃、店の窓際に二人の横顔が見えた。


女はワイングラスを持っていた。

亮平はビールらしいグラスを片手に、

何か楽しそうに話している。

仕事の話をしているようには見えなかった。


女は何度か、テーブルの上に置かれた亮平の手元へ視線を落とした。親しさのある目だった。

相手の指先や沈黙まで知っている人間の目だった。



私は紅茶のカップを持ち上げた。

唇につけたが、味はしなかった。



窓の外を人が行き来する。

笑い声が聞こえる。

金曜の夜の、普通の街の音。

その音の中で、私だけが別の時間を生きていた。



二十時十二分

二人が店を出てきた。

私は会計を済ませ、少し遅れて外に出た。

夜の通りは先ほどより人が増えていた。

会社帰りの男女。店を探して歩く若いグループ。

その流れの中に紛れながら、二人の背中を追う。



亮平と女は並んで歩いていた。

腕を組むわけではない。手をつなぐわけでもない。

けれど距離が近い。肩が触れそうで触れない、

その曖昧な距離。誰かに見られても言い訳はできる。

でも、互いが互いを意識していなければ保てない距離だった。

女が何かを言う。亮平が笑う。

女が少し拗ねるように口を尖らせる。

亮平が、なだめるように一言返す。

声は聞こえない。


それでも、二人の間に何度も交わされた会話の蓄積があることだけはわかった。

一度や二度会った程度では、あの歩き方にはならない。



二人は大通りを渡り、駅とは反対方向へ進んだ。

私は歩幅を落とした。


その先には、小さなホテルがいくつか並ぶ通りがある。

飲食店の灯りが減り、街の音が一段低くなる場所だ。



ここで曲がれば。

ここでタクシーを拾えば。

ここで別れれば


まだ、別の説明が残る。


けれど亮平は、迷わなかった。



女と並んで、一本奥の道へ入る。

そして、白い外壁のホテルの前で足を止めた。

看板の灯りが、二人の横顔を青く照らした。



私は通りの反対側で立ち止まり、

街路樹の陰に身を寄せた。


亮平が周囲を一度だけ見た。

その視線が、私の方へ来ることはなかった。

女は慣れた様子で入口へ向かう。

亮平は半歩遅れてついていく。


扉の前で、亮平が女の背中に手を添えた。

今度は、さっきの店の前よりはっきりと。

迷いのない触れ方だった。



私はスマホを構えた。



一枚  扉の前、二人の後ろ姿。

二枚  女が入る瞬間。

三枚  亮平が続く瞬間。

シャッター音は鳴らない。

画面だけが、冷たく事実を切り取った。



二十時三十一分  亮平と女、ホテル入室。



私はその場からすぐには離れなかった。

入ったのは事実。

でも、滞在時間も重要になる。

仕事の相談で短時間だけ、という言い訳を完全に塞ぐには、一定時間を押さえたい。

ホテル前から少し離れた自動販売機で水を買い、

飲むふりをしながら時間を置いた。



二十分。三十分。四十分。


夜の人波は何度も入れ替わる。

ホテルへ入っていくカップル。出てくる男女。

誰も私を気にしない。私はただ、その扉だけを見ていた。


そんな事をしていると亮平からまたメールが来た。


亮平

今日は遅くなる。盛り上がって今から二次会。


また、嘘に嘘を重ねたメール。

私は亮平が部の懇親会もない事をすでにわかっている。



一時間を過ぎた頃、

ようやく胸の奥に感情が追いついてきた。

ホテルに入った。亮平が。私の夫が。


美月と悠真の父親が。

「部の懇親会」と嘘をつき、私に始まったと送った、

その手で。怒りより先に、吐き気が来た。


だが私は目を逸らさなかった。

ここで目を逸らすなら、最初から追っていない。


二十一時三十五分


二人はまだ出てこない。

私はそこで一区切りをつけた。

店での合流。二人きりの食事。ホテル入室。

一時間以上の滞在。

今夜の私には、必要なだけの事実があった。



そのまま駅へ向かいながら、スマホを開いた。



紗季


ごめん、少し遅れる。まだ会える?

21:38


麻衣


もちろん。いつもの店で待ってる。何かあった?

21:39


紗季


会って話す

21:40


麻衣なら、それだけで来てくれる。

それだけでわかってくれる。二十年、そういう友人だった。


麻衣のこと  


麻衣と出会ったのは、高校一年の秋だった。

クラスは違ったが、文化祭の準備委員で同じ班になった。

私が地味な作業を黙々とこなしていると、隣で麻衣が


「あなた、損な役ばっかりやってるね」


とさらりと言った。嫌みではなかった。

ただの観察だった。その正直さが、なぜか心地よかった。



麻衣は私とは正反対の人間だった。

声が大きく、誰とでもすぐに打ち解け、感情が顔に出る。

泣く時は大声で泣き、怒る時は真正面から怒る。

私がいつも感情を内側に折り畳んでいるのとは違う生き方をしていた。

それでも、不思議と波長が合った。



麻衣は一度も、私に「もっと素直になれ」と言わなかった。

「紗季はそういう人だから」と、ただ受け取ってくれた。


その受け取り方が、私には何よりの安心だった。

大学が別々になっても、社会人になっても、連絡は絶えなかった。

私が亮平と結婚する時、麻衣は


「いい人そうだけど、何かあったら絶対連絡して」

と言った。その「何かあったら」が、まさか今夜のことを指すとは、あの頃の私は思っていなかった。



麻衣は今、都内の中学で美術を教えている。

結婚はしていない。


「好きな人ができるたびに、面倒くさくなって終わる」

と笑う。

でも、子どもたちの話をする時の顔は本当に楽しそうで、

生徒に慕われているのがよくわかった。

麻衣が選んだ生き方と、私が選んだ生き方は違う。

でも、互いの選択を否定したことは一度もない。



だから今夜も、麻衣を選んだ。


いつもの店は、駅前の小さな和食居酒屋だった。

学生時代から、落ち込んだ時も祝い事の時も、

何となくここを選んできた。

木のカウンター、燗酒の匂い、おかみさんの低い声。

私にとって「何かあった夜」の場所だった。



扉を開けると、奥の半個室に麻衣が座っていた。

私を見るなり、表情が変わる。


「紗季」

それだけで、もう言葉の半分は伝わっていた。


「遅くなってごめん」


「それはいいけど……顔、大丈夫?」


「大丈夫じゃないかも」


自分でそう言った瞬間、喉の奥が詰まった。

麻衣は何も聞かずに、向かいの席へ座るよう促した。

店員が来て飲み物を尋ねる。

私は烏龍茶を頼んだ。麻衣はしばらく黙っていた。


私が話し出すのを待っている。

それがありがたかった。二十年、麻衣はいつもそうだった。先回りしない。遮らない。ただそこにいる。



私はバッグからスマホを出し、画像フォルダを開いた。

店の前で合流する二人。並んで歩く後ろ姿。

ホテルの入口へ入る瞬間。

麻衣は写真を一枚ずつ見て、途中から言葉を失った。


「……これ、亮平さん?」


「うん」


「この女は?」


「知らない」


「知らないって……今日初めて見たの?」


「顔を見たのは初めて」


麻衣はスマホから顔を上げた。


「紗季、いつから気づいてたの」


「確信は今日。違和感は少し前から」



私は順に話した。

日曜朝の空白。走っていないように見える靴。

白い粉。紺のジャケットに残った知らない匂い。

存在しない本の話。

そして今日、子どもたちを実家へ預け、夜を空けたこと。



麻衣は途中で何度も口を開きかけたが、

最後まで遮らなかった。



話し終えると、彼女は低い声で言った。


「……あんた、一人でここまでやったの?」


「まだ何もやってないよ。見ただけ」


「見ただけで、ここまで揃える人はあまりいない」



麻衣はスマホの写真をもう一度見た。

ホテルに入る直前の亮平の横顔で指が止まる。


「最低」


短い言葉だった。でも、私の中に重く落ちた。


私は今まで、その言葉を使わないようにしていた。

決めつけるのが怖かった。

夫をそんなふうに見たくなかった。

けれど、友人の口からその言葉を聞いた時、

少しだけ救われた。私がおかしいのではない。

これは、誰が見ても裏切りなのだ。



「紗季、これからどうしたい?」


「まだ決めてない」


「離婚する?」


「わからない。子どもたちもいるし……」


「許せる?」——私は答えられなかった。



麻衣は少し黙ったあと、静かに言った。


「じゃあ今は、許すか別れるかじゃなくて、知る段階だね」


「知る?」


「いつからなのか。誰なのか。どこまで続いてるのか。相手が既婚者だと知ってるのか。全部」


「……私も、そう思ってる」


「なら、ここからは一人じゃ難しいよ。」


その言い方が、いつもの麻衣ではなかった。

柔らかいけれど、はっきりしている。


「一人で抱えると、感情が先に壊れる。冷静でいられる人ほど、自分の限界を見誤るから」



それは麻衣だから言える言葉だった。

二十年、私の「冷静さ」が実は危うさだと知っている人間だけが、言える言葉だった。


高校の頃、私が初めて失恋した時も、麻衣は「大丈夫?」と聞かなかった。


「あんた今、相当しんどいはずなのに顔に出てないね。それ一番危ない」


と言った。あの頃と同じ目で、今の私を見ていた。


「でも、誰に相談すればいいかわからない」


「いる」


麻衣は即答した。


「先輩に、探偵やってる人がいる。ちゃんとした調査会社。浮気案件もやってる。

前に友達が依頼して助けてもらったことがある。

変な煽り方する人じゃないし、証拠の取り方も現実的」



探偵。


その言葉が、今まで自分の中で曖昧だった怒りに、

輪郭を与えた。


「紹介してくれる?」


「もちろん。ただし、紗季が本気ならね」


「本気って?」


「中途半端に知って、中途半端に許すつもりなら、

今夜の写真だけでも見なかったことにする方が楽かもしれない。でも、最後まで真実を見るなら、私も全部付き合う」



最後まで見る。


その言葉が怖かった。真実を知れば、もう戻れない。

今までの家族の記憶まで色を変えるかもしれない。

それでもホテルの入口へ消えた亮平の背中が、

脳裏に残っている。


「見る」


「全部?」


「全部」


その瞬間、麻衣の目つきが変わった。

友人のものから、共犯者のものへ。


「わかった」


彼女はスマホを取り出した。


「先輩には私から連絡する。名前はまだ出さない。状況だけ伝える。紗季が会うかどうか決めるのは、その後でいい」


「ありがとう」


「あと、今日の写真は必ず元データで残して。加工しない。トリミングもしない。時刻情報もそのまま」


「うん」


「今夜見た店とホテルの名前、位置、時間、全部メモした?」


「してる」


「さすが」


麻衣は少しだけ笑った。

けれどその笑みはすぐに消えた。


「紗季。もう一回だけ聞くね。あんた、本当に大丈夫?」


答えるまでに少し時間がかかった。


「大丈夫じゃない。でも、壊れるのは後でいい」



麻衣は目を伏せた。


「……そういう言い方する時のあんた、

ほんとに危ない。高校の時からずっとそう」


「ごめん」


「謝らないで。代わりに、これからは何でも共有して。変だと思ったことも、些細なことも。私に送って。自分一人の頭の中だけで整理すると、どこかで麻痺するから」



その提案は、想像以上にありがたかった。

私はこれまで、ノートにだけ書いてきた。

事実を自分の中で並べ、感情を沈め、

誰にも知られないように抱えてきた。



でも今夜からは、一人ではない。

麻衣という証人がいる。

私が見たものを、私以外に知っている人がいる。

それだけで、世界が少し違って見えた。



店を出る頃には、日付が変わりそうだった。

駅まで歩きながら、麻衣は言った。


「まずは相手の身元だね」


「うん。亮平が玲って言いかけたことがあって。

会社の写真で、桐島って名字の女性も見つけた」


「玲……桐島……」


麻衣はゆっくり繰り返した。


「じゃあ、その線は残す。でも決めつけない。

探偵の先輩に会う前に、今ある情報は整理しよう」


「わかった」



改札前で、麻衣は私の肩に手を置いた。


「紗季。これから長くなるよ」


「うん」


「でも、一緒にやる」



その言葉に、ようやく胸の奥が少しだけ緩んだ。

泣くつもりはなかった。

ここで泣いたら、今夜の自分が崩れてしまう気がした。

でも目の奥が熱くなった。

私は笑うふりをして、顔をそらした。

麻衣は何も言わず、私が落ち着くまで待ってくれた。

二十年、ずっとそうしてくれる人だった。



家へ戻ったのは、深夜一時を少し過ぎた頃だった。

亮平はまだ帰っていなかった。


玄関の暗がりに立ち、私はしばらくそこにいた。

子どもたちは実家。

夫はホテルか、その帰り道。

そして私は今日、初めて味方を得た。


リビングの明かりをつけず、ソファに座る。

ホテルの写真をもう一度確認した。

時刻。画質。二人の距離。


その画像を、麻衣との共有フォルダに入れた。

フォルダ名は、何でもないものにした。


レシピ


誰が見ても、家庭的な名前。

けれどその中には、これから亮平を追い詰めるための記録が、一つずつ増えていく。



スマホを伏せた。この夜、夫の不倫は私一人の疑いではなくなった。

証拠を持つ者が二人になった。

そしてそれは、亮平が思っているよりずっと危険なことだった。


一人で抱えた疑いは、やがて自分を侵食する。


でも二人で持てば、それは武器になる。


亮平は今夜、ホテルにいる。


私は今夜、味方を得た。


どちらが有利か、言うまでもない。

最後までお読みいただきありがとうございました少しでも心に残るものがありましたら、リアクションや評価のお星様をポチッと押していただけますと、とてもとても嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ