第五章 未発売の本
嘘は、ひとつ見つければいいわけではない。
同じ方向を向いた嘘がどれだけあるか。
人は、嘘をついた出来事を無意識に補強しようとする。
一度置いた設定が不安になると、
別の会話の中に自然な形で差し込み、
既成事実のように馴染ませようとする。
問われていないことを説明し始める人間は、
その説明が必要な理由を心のどこかで知っている。
朝の台所は、いつもの匂いがした。
トースターの熱、珈琲の湯気、亮平の整髪料が
かすかに混じった空気。
私はヤカンに火を入れながら、
それらを一つずつ、意識の底で確かめていた。
この家の匂いを知っているのは、
それが変わった時に気づくためだ。
亮平がリビングから入ってきた時、
私はパンをトースターに入れるところだった。
「紺のジャケット知らない?」
と彼は言いながらダイニングの椅子に片手を置き、
少しだけ視線を上げた。記憶を探るような間だった。
「薄手のやつ。ほら、この前、本屋に行った時に着てた」
本屋。
私は足を止めなかった。表情も変えなかった。
ただ、その言葉をゆっくりと心の中で一度だけ反芻した。
ジャケットの説明なら、いくらでも別の言い方があった。
「薄手のやつ」
「去年買ったやつ」
「ネイビーのやつ」
それなのに亮平は、わざわざ
「本屋に行った時に着てた」と言った。
土曜日の行き先を、もう一度、会話の端に置いた。
誰も聞いていないのに。
聞かれてもいないのに。
昔の仕事で、私はそういう人間を何人も見てきた。
経費不正をした役員が、誰も尋ねていないのに
「出張先のホテルで」と言葉を挟む。
社外に資料を流した社員が、
「あの日は確か在宅で」と会話の端に置いていく。
自分がついた嘘の設定が薄れていくのを恐れて、
別の文脈の中でそっと塗り直す。
そうすることで、自分の記憶の中でも
本当のことに近づけていく。
亮平は今、自分の嘘を補強している。
「玄関の横にあるよ」
「ああ、そこか」
彼はすぐに歩き出した。
玄関脇のフックに、紺のジャケットは掛かっていた。
几帳面とは言えない亮平が、珍しく皺にならないよう
肩を整えて掛けている。
私はそれを手に取った。
その瞬間、布の奥からごく微かな匂いが立った。
香水ではない。
煙草でもない。
飲食店の油でも、外気の湿った匂いでもなかった。
うちで使っている洗剤の残り香でもない。
クローゼットの木の匂いでも、
亮平自身の整髪料や体温が染み込んだ布の匂いとも違う。
どこかの部屋に長く掛けられていたような。
置かれていたような。
閉じた室内の空気を、
布だけが連れて帰ってきたような匂い。
名前をつけられるほど強くはない。
だからこそ、私は引っかかった。
亮平は気づいていない。
自分の服に移ったわずかな異物は、
本人にはいちばんわかりにくい。
私は何も言わず、ジャケットを差し出した。
匂いではなく、違和感としてだけ、
その記憶を胸の内に残した。
「ありがとう」
亮平はジャケットを受け取り、袖を通した。
何事もなかったように。
本当に、何事もなかったように。
「今日は少し早く出る。午前中、客先の打ち合わせが入ってて」
「朝イチ?」
「うん。直行」
自然な流れだった。
出勤を早める理由はいくらでもある。
亮平なら、そうする。
私は心の中で頷いた。
この男は、やはり雑ではない。
「朝ごはん、もう食べる?」
「軽くでいい。会社近くでコーヒー買うから」
私はトースターに食パンを入れた。
焼き上がるまでの数分、亮平はスマホを見ながら
ダイニングチェアに座っていた。
画面は私から見えない角度だったが、
隠しているようにも見えない。
あえて見せる。
あえていつも通りでいる。
何も隠していない人間の空気を、室内に薄く撒いている。
嘘をつく人間が必ず目を逸らすとは限らない。
むしろ、よく目を見る人ほど厄介なこともある。
パンが焼けた。
私は皿に乗せて亮平の前に置いた。
そして、何でもない声で言った。
「この前の本屋、何かいい本あったの?」
自分でも驚くほど、声は柔らかかった。
亮平はバターを取る手を止めなかった。
「ん?」
「ほら、土曜に行ったって言ってたでしょ。
仕事の本でも探してたのかなと思って」
「ああ」
亮平はほんの少しだけ視線を下げた。
考えているのか、思い出しているのか、
外からはわからない。
「部下の育て方みたいな本。最近そういうの多いじゃん」
「へえ」
「タイトル何だっけな。確か……『任せる上司の技術』とか、そんな感じ」
彼は言いながらパンを齧った。
あまりに軽い口調だった。
用意していた答えには見えない。
けれど私は聞き逃さなかった。
タイトルまで出てきた。
それだけ鮮明に覚えているなら、
確かに本屋へ行ったのだろう
そう思わせる答えだった。
「課長も大変だね」
「ほんとにな」
亮平は苦笑した。その会話は、そこで終わった。
子どもたちが起きてきて、食卓はいつもの朝になった。
美月は髪を結びながら牛乳を飲み、
悠真はパンの耳を最後まで残す。
亮平はジャケット姿のまま悠真のランドセルの肩紐を直し、美月に
「今日、図工あるんだっけ」
と声をかけていた。
父親として、何の破綻もない。
私はその姿を見ながら、静かに考えた。
もし亮平が本当に不倫をしているなら、
彼は家族を嫌って外へ逃げているわけではないのだろう。
家族も欲しい。
外の女も欲しい。
尊敬される上司でいたい。
頼られる父親でいたい。
優しい夫とも思われていたい。
何一つ手放さず、自分だけが損をしない位置に
立ち続けようとしている。
それは愛情の深さではなく、欲の深さだ。
八時前、亮平は出ていった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
私は玄関まで見送った。
ドアが閉まり、足音が廊下の向こうへ消える。
エレベーターの到着音。
ドアの開閉。遠ざかる気配。
そこまで待ってから、私はキッチンへ戻った。
美月と悠真を送り出し、洗濯機を回し、食器を片づける。
いつもと同じ作業を、いつもと同じ順番で終わらせた。
急いで調べる必要はない。
けれど、忘れる前に確かめる必要はある。
私はノートパソコンを開いた。
検索窓に入力する。
『任せる上司の技術』
似たタイトルの本はいくつか出てきた。
マネジメント。部下育成。リーダー論。
似たような言葉が並んでいる。
亮平が言い間違えただけかもしれない。
ざっくり記憶していただけかもしれない。
私は候補を一つずつ開いていった。
焦らない。期待しない。見つからなくても苛立たない。
三冊目で、手が止まった。
タイトルが、亮平の言葉と一致していた。
ページを開く。
出版社の紹介文。著者のプロフィール。
目次のサンプル。そして、発売日の欄に目が止まった。
発売予定日:六月十二日
私は画面を見つめた。
亮平が本屋へ行ったと言ったのは、
五月の終わりだった。
その本は、まだ店頭に並んでいない。
もちろん、広告を見かけたのかもしれない。
別の本と混同しただけかもしれない。
私の問いが突然だったから、
記憶違いで適当に答えただけかもしれない。
まだ決めつけない。
でも。
タイトルをここまで正確に言えるほど印象に残った本が、
まだ本屋の棚に存在しない。
部下の育て方に興味のある上司が、
発売前の本の広告を見てそのタイトルを記憶する
あり得なくはない。ただそれなら、
「本屋で見た」
とは言わない。
「広告で見た」か「ネットで見た」になる。
亮平は「本屋に行った」という事実のために、
タイトルを用意した。
本屋へ行ったかどうかを証明するために、
本の名前を出した。
でも、その本はまだそこにない。
私はメモ帳を開き、日付と時刻を書いた。
手が冷たかった。
記 録 —— 第五頁
土曜外出の説明:本屋。
朝食時、「部下の育て方の本」「任せる上司の技術のようなタイトル」と発言。
該当タイトルの発売予定日:六月十二日。本屋での閲覧不可。
記憶違いの可能性あり。
ただし、タイトルの一致は偶然とは言いにくい。
土曜の行き先を「本屋」と設定するための、
後付けの裏付けと考えられる。
最後の一文まで書き、ペンを置いた。
記憶違いの可能性あり自分のために書いた。
疑いに酔わないために。
夫を悪人に仕立てるための記録にしないために。
私が欲しいのは真実だ。
それが私にとって残酷なものであっても。
その日の午後、鷺沼から連絡が来た。
古いスマホの画面に、短い文面が並んだ。
鷺沼透より
比較はできる。
必要なら、同素材と思われる衣類から微量サンプル。
ただし今は急ぐな。先に行動パターンを取れ。
物証は、時間の流れと結びついて初めて意味を持つ
私はその文章を読み、ほんの少しだけ口元を緩めた。
鷺沼らしかった。こちらが何も説明していないのに、
私が何を焦り始めているのかを見抜いている。
物だけでは弱い。時間と結びつける。
行動と重ねる。言葉の矛盾に置く。
その積み重ねが、最後に逃げ場を奪う。
嘘は、ひとつ見つければいいわけではない。
同じ方向を向いた嘘が、何度現れるかを見るものだ。
亮平の嘘は、今、同じ方向を向き始めていた。
その夜、亮平の帰宅はいつも通りだった。
「疲れた」とネクタイを緩め、子どもたちの話を聞き、
夕飯を食べた。
紺のジャケットは何事もなかったように
ハンガーへ掛けられた。
あの淡い匂いは、もう薄れているのだろうか。
それとも私が気づいた時から、
ずっとそこにあったのだろうか。
確認はしなかった。
一度嗅ぎ直せば、自分で意味を強めてしまう。
曖昧なものは、曖昧なまま残す。
大切なのは、匂いそのものではない。
亮平が、この家には存在しない空気をまとって
帰ってきたという事実だ。
寝る前、共有カレンダーを開いた。
亮平の予定欄に、金曜日の夜が入力されている。
部内懇親会。帰宅遅め。
見覚えのある文面だった。
以前、同じように「飲み会」と言った夜があった。
あの夜を、私はまだ偶然の棚に置いている。
今回も本当に飲み会なのかもしれない。
私の思い過ごしなのかもしれない。
だからこそ、確かめる価値がある。
翌朝、亮平からメッセージが届いた。
亮平より
『金曜、部の懇親会入った。多分遅くなると思う。』
私は画面を見たまま、しばらく指を動かさなかった。
家の中の共有カレンダーと、個別のメッセージ。
同じ予定を二度知らせてくる。
念押しに見えた。それとも、ただの気遣いか。
私は答えを決めないまま、いつもの妻の文面を送った。
紗季より
『了解。』
送信してから、古いスマホを手に取った。
存在しない本の話は、まだ小さな綻びにすぎない。
紺のジャケットに残ったあのわずかな匂いも、
今は意味を持たない。でも私は知っている。
亮平の嘘が、どこまで続いているのか。
金曜の夜。
今度は、夫の言葉だけで終わらせない。
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