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浮気旦那の隠し方が完璧すぎたので、こちらも完璧に復讐の準備することにしました  作者: こまめ


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第四章 仮面

夫が父親の仮面をかぶるなら、

私は気づかない妻の仮面をかぶればいい。


怒っている。


疑っている。



軽蔑し始めている。



それでも私は、

夫の好きな煮崩れたじゃがいもの火加減を気にしている。


夫婦とは、残酷なものだと思う。


憎しみが芽を出しても、

体は先に覚えた生活を続けてしまう。


その日の夕飯は肉じゃがにした。

美月はにんじんが苦手で、悠真はしらたきばかり

選んで食べる。

亮平は少し煮崩れるくらいが好きだと、

結婚した年に言っていた。

私はそれ以来ずっと、少し長めに火を入れている。



鍋の前に立ちながら、私は自分が今何をしているのかを、

少し遠くから見ていた。

夫を疑いながら、夫の好きな味を作っている。

その矛盾を、怒りに変えるよりも先に、

悲しみとして受け取っていた。



でも悲しみは今、私に必要なものではなかった。



亮平が帰ってきたのは、夕方五時を過ぎた頃だった。


「本屋に寄ってきた」


と言いながら、手ぶらで玄関を入ってきた。

悠真が


「パパおかえり」


と走っていく。美月が


「何の本?」


と聞く。


「ビジネス書」


と亮平は答えた。


「買わなかったの?」


「立ち読みしただけ」


美月はそれ以上、興味を失ったようだった。



私は鍋をかき混ぜながら、背中でその会話を聞いていた。

手ぶら。本屋。立ち読みだけ。


一つ一つは咎める材料にならない。

でも私の頭の中では、午後の商店街で見た亮平の後ろ姿が、まだ消えていない。

壁に手をついて、誰かと電話していた背中



「今日、肉じゃが?」



亮平がリビングから声をかけてきた。

嬉しそうな声だった。



「そう」と私は返した。



嘘をついた帰りに、夕飯の匂いで喜べる男。


誰かと電話した声の温度を残したまま、

息子の頭を撫でられる男。

罪悪感がないのではない


罪悪感と日常を、平気で同じ空気に置いておける

人間なのだ。


それが私には、何よりも怖かった。



夕飯の席で、私はいつもより少しだけ柔らかく笑った。

亮平に警戒されてはいけない。


疑われていると気づいた人間は変わる。


言葉を選び、履歴を消し、会う場所を変え、

相手に注意を促す。私はそれを避けたかった。



だからこちらも、仮面をかぶる。



何も知らない妻の顔。

夫を信じている母親の顔。

食卓で笑い、子どもの話に頷き、

夫の言葉に「そっか」と返す女の顔。

亮平が父親という仮面をかぶるなら


私は妻という仮面をかぶればいい。


「最近、仕事どう?」と私は聞いた。



亮平は味噌汁を飲みながら答えた。


「まあまあ。月末近いからバタバタしてる」


「そっか」


「来週、展示会の準備もあるしな」



展示会。


私はその単語を、心の中でそっと拾った。

表情は変えない。箸は動かし続ける。


「大変だね」


と言いながら、亮平の次の言葉を待った。



「玲……」



亮平の言葉が、そこでわずかに止まった。



箸の先が、じゃがいもに触れたまま動かない。

コンマ一秒にも満たない沈黙だった。

食卓の空気の中に、その一音だけが、

針を落としたように刺さった。




食卓に落ちた、たった一音。


亮平はすぐに続けた。


「連絡も多いし、まあ疲れるよ」


私は小皿に肉じゃがを取り分けながら、

平然と答えた。


「そうなんだ」



亮平が私を見た。

探るような目ではなかった。

自分が今どこまで口にしたかを、静かに確認するような目だった。

私は何も気づいていない顔で、

悠真の皿にしらたきを追加した。


「悠真、野菜も食べなさい」


「食べてるもん」


「じゃがいもは野菜に入れない」


「入るよ!」


美月が笑った。亮平も笑った。


その笑い声の下で、私は心の中に一文字だけ刻んだ。


玲。


名前かもしれない。

違うかもしれない。


玲子。玲奈。玲美。


あるいは、ただの言い間違い。

決めつけない。でも、忘れない。



夕飯の片づけをしながら、私は亮平の様子を観察した。

夫は普段通りだった。

皿を運び、悠真の宿題を見て、美月に


「明日の体操服出したか」


と聞く。さっきの一音を、自分でもなかったことにしたのだろう。そうやって人は嘘を続ける。


言葉に出してしまったものを、空気の中で薄める。

相手が拾わなければ、それは存在しなかったことになる。



でも私は拾った。



食器洗いが終わったあと、

私はいつものように子どもたちを風呂へ入れ、

明日の準備を確認した。


その間ずっと、亮平はリビングでニュースを見ていた。

スマホはテーブルの上に、画面を上にして置かれていた。



隠していない。


それがまた、亮平のうまさだった。

スマホを必死に隠す人間は、疑ってくださいと言っているようなものだ。


亮平は逆だった。

見える場所に置く。

子どもが触っても慌てない。


でも、本当に隠したいものはスマホの中ではなく、

生活の外に置いている。

仕事という名前の中に入れている。

そのくらいは、もう私にもわかっていた。



子どもたちを寝かしつけたあと、

私はリビングのテーブルで古いスマホを開いた。

検索履歴は残さない。

調べる時は言葉を分ける。

場所と人物を同時に入力しない。



今の私は、夫の相手の名前をまだ知らない。

けれど昨日の夕飯で亮平が落とした一音がある。

それと、会社の名前、展示会、営業企画という言葉がある。



会社を検索した。結果が並ぶ。

採用ページ、古い展示会のレポート、集合写真、

広報の記事。

私は一枚ずつ開いていった。

焦らない。期待しない。

見つからなくても苛立たない。

昔の仕事で覚えた、情報を探す時の体の作り方だった。



無関係に見えるものを、無関係のまま置いておく。

つながって見えるものほど、最初は疑う。



三十分ほどで、一枚の写真に指が止まった。



展示会のブース前に並んだ集合写真だった。

亮平が写っている。

数人の社員たちと、胸にネームプレートをつけて立っている。


亮平の右隣に、若い女性がいた。

肩につくくらいの黒髪。白いブラウス。笑いすぎない笑顔。



ネームプレートの文字は、小さすぎて読めなかった。

私は画像を拡大しようとして、やめた。今は、まだ。



その時だった。



背後で、床が鳴った。



振り返ると、亮平が廊下に立っていた。

いつからそこにいたのか、わからなかった。

足音を聞いていなかった。

パソコンの画面に集中しすぎていた。

その一瞬の遅れが、背中を冷やした。



「何してるの?」



声は穏やかだった。責めていない。ただ、聞いている。



でも私は、その穏やかさを信用しなかった。



コンマ二秒。


それだけの間に、私は画面を切り替えた。

美月の塾の案内。学校の年間行事表。明日の持ち物リスト。


最初からそこにあったように見える画面。

いつものノートは膝の下に滑り込ませた。



こういう時、人は息を止める。

止めた息は、隠し事の匂いになる。

だからゆっくり、何でもない速さで呼吸した。



「美月の塾、どうしようかなと思って」



亮平は近づいてきた。

私の肩越しに画面を覗き込む。

その距離が、三十センチほどになった。

亮平の体温が、空気を通して伝わってくるような気がした。シャワーのあとのシャンプーの匂いが、かすかにした。



「もう決める時期か」


「周りが行き始めてるから」


「美月、嫌がってない?」


「微妙。行くなら友達と同じところがいいみたい」



亮平は数秒、画面を見た。

私は視線を画面から外さなかった。

膝の下のノートの角が、太ももに当たっていた。



「任せるよ。紗季の方が詳しいし」



そう言って、亮平は私の肩に手を置いた。



昔なら、その手に安心した。

今は違った。その手が肩の上で、

何かを測っているように感じた。



「最近、疲れてない?」



きた、と思った。



「どうして?」


「いや、なんとなく。考えすぎるところあるだろ、紗季は」



亮平は優しい顔をしていた。

その優しさが、私には刃物のように見えた。



考えすぎるところがある


もしこの先、私が何かを問い詰めた時、

亮平はきっとその言葉を使う。

最近疲れていた。考えすぎていた。

子育てで神経質になっていた。


自分が疑ったのは、妻の不安定さのせいだ、と

夫は今、逃げ道を先に置いている。



「疲れてるかもね。月末だし」


「無理すんなよ」


「ありがとう」


亮平は安心したように、また寝室へ向かっていった。


私はその背中が廊下の角に消えるまで、

笑顔を崩さなかった。


ドアが閉まった瞬間、私は一度だけ、深く息を吐いた。



怒りは、胸の奥に沈めたままにする。


出してはいけない。

今はまだ。私が感情を見せれば、

亮平の準備した物語に乗ることになる。


疲れた妻。疑い深い妻。夫を責める妻。

そんな役は、演じない。


演じるなら、もっと別の役にする。

何も知らない妻。夫を信じている妻。

夜になると記録を開く女。



膝の下からノートを取り出した。日付を書き、記録した。


記 録  第四頁

夕飯時。

亮平、展示会について話す中で「玲」と言いかけ、止める。


すぐに「連絡も多い」と続けた。不自然な間、あり。


「玲」名前の可能性。断定せず。


夜、帰宅後に接近。疲れていないか確認。

「考えすぎるところがある」と発言。

逃げ道の先置き、と判断。警戒を要する。



翌日の昼、改めて展示会の写真を開いた。

今度は自宅の、一人でいる時間を選んだ。


画像を最大まで拡大する。

輪郭が粗くなる。

でも、亮平の隣に立っていた女性のネームプレートの

上段に、二文字だけ読めた。



桐島。


下の名前は潰れて読めない。



私はノートに書いた。手が、ほんの少しだけ冷たかった。



記 録  追記

展示会写真。亮平の右隣、若い女性。黒髪、白ブラウス。

ネームプレート上段、「桐島」と読める。

下の名前、判読不可。



夕飯での「玲」と合わせると


桐島玲子、桐島玲奈、桐島玲美、いずれかの可能性。


断定はしない。ただし、姓が生まれた。

名前のない女に、姓が生まれた。



輪郭だけだった相手が、少しだけ像を結び始めた。

まだぼんやりしている。

でも、何もないところに比べれば、

月と地面ほどの差があった。



二日後の朝、古いスマホに鷺沼からの連絡が入った。

パートへ行く前、洗面所で鏡に向かいながら開いた。

蛍光灯の白い光が、タイルの白に反射して、

やけに明るかった。



《サンプル確認。屋外土砂ではない。石膏系に近い粉体。

微細な繊維混入あり。場所は断定不可。

ただし、通常のジョギングコースで付くものではない》



つづけて、もう一通。



繊維は濃紺。

ウール系。スーツ地か業務用カーペットの可能性。

粉と一緒に靴底に入っている。

屋内で付着したと見る方が自然

私は画面を伏せた。



鏡の中に、自分の顔が映っている。

普通の妻の顔だった。

母親の顔だった。

どこにでもいる三十七歳の女の顔だった。

でもその奥で、昔の私が静かに目を開けていた。



夫の靴は、走っていない。

屋内のどこか。石膏の粉が落ちている場所。

濃紺のウールが擦れる場所にいた。



その時、リビングから亮平の声がした。



「紗季、俺の紺のジャケット知らない?」



私は鏡の中の自分を見たまま、ゆっくりと瞬きをした。



濃紺。


鷺沼の報告書にあった言葉が、今、夫の口から出てきた。



もちろん、それだけで何かが決まるわけではない。

濃紺のジャケットを持つ男は、この国に何万人もいる。

靴底に残った繊維が、亮平のジャケットのものだという証拠もない。


でも、偶然が重なるたびに、

偶然の可能性は小さくなっていく。



亮平は知らなかった。

その一言が、今どれほど余計だったのかを。


私は古いスマホを引き出しにしまった。

笑顔を顔に乗せて、リビングへ向かった。



「どのジャケット? この前、本屋に行った時に着てたやつ?」


亮平は「そうそう」と頷いた。



「洗濯して戻してあるよ。クローゼットの右側」


「あ、ありがとう」



亮平はクローゼットへ向かった。



私はキッチンに戻り、お湯を沸かし始めた。

ヤカンが温まるのを待ちながら、窓の外の空を見ていた。

五月の朝の空は、信じられないほど青かった。



桐島。


名前の下半分は、まだ読めない。



でも私は、もう追いかけ方を知っている。

夫が完璧に隠すなら、


私は完璧に知らないふりをする。



夫が仮面をかぶるなら、



私はもっと上質な仮面をかぶる。



夫が仮面を外す瞬間まで


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