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浮気旦那の隠し方が完璧すぎたので、こちらも完璧に復讐の準備することにしました  作者: こまめ


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第三章 私の過去

妻は何も気づいていない


夫はきっとそう思っている。


夫の朝を疑い始めたとき、

私が最初に見たのはスマホではなく靴だった。



人は手を洗う。

服を洗う。

言葉を整え、記憶さえ都合よく並べ替える。



でも靴は、本人が思っているほど従順ではない。



五月の終わり、その日曜日は朝から空気が重かった。

梅雨の前触れのような湿気が、

カーテンの隙間から静かに染み込んでいた。


私は午前五時半に目が覚めた。

隣では亮平が規則正しく呼吸している。

その音を聞きながら、私はしばらく天井を見ていた。



眠れないのではなかった。

ただ、眠ったふりをする準備をしていた。



五時五十二分

亮平のスマホが、枕元で一度だけ短く震えた。

着信音は鳴らない。

バイブレーションだけ。

前と同じそれだけで目が覚く男は、

眠りの中でもその合図を待っていたのだと思う。



実際、亮平は一秒も迷わず体を起こした。

寝起きの鈍さが、どこにもなかった。



私は呼吸を変えなかった。



目を閉じたまま、耳だけを鋭くする。

これは訓練ではない。


でも、かつての仕事が体に染み付けた

反射のようなものだった。

感情を脇に置き、情報だけを拾う。



クローゼットを開ける音

前夜から用意していたウェアを取る。迷いがない。


洗面所の水音三十秒。

短い。顔を洗っただけ。


布の擦れる音着替えている。

立ったまま、素早く。


スマホをポケットに入れる気配

右側。いつも右側だ。


夫の動きは静かだった。

妻を起こさないための優しさ

そう思っていた頃もある。


けれど今の私には、それが別のものに聞こえた。

生活の中で磨かれた、疑われないための慎重さ。

家庭という舞台で嘘を演じ続けてきた人間だけが持つ、

妙に整った静けさだった。



亮平は寝室を出る前に、一度だけ振り返った。

私はそれを、まぶたの裏で感じた。

視線が数秒、私の上に落ちた。

私は呼吸を少しだけ深くして、眠っているふりを続けた。



廊下へ出た彼は、子ども部屋のドアをそっと開けた。

毎日のことだった。



走りに行く前も美月と悠真の寝顔を見る。

布団を直して、悠真の頭を撫でる。

それは、どこから見ても良い父親の姿だった。

だから私は長い間、何も疑わなかった。



悪い男は、悪い顔をして帰ってくるものだと思っていた。

裏切る男は、家族への優しさをどこかで失うものだと思っていた。


でも亮平は違った。


彼は父親の顔を崩さなかった。

夫の役も降りなかった。

家庭を壊しながら、家庭の真ん中に座り続けていた。



六時五分

玄関のドアが閉まった音が、

マンションの静寂に吸い込まれた。


私はすぐには動かなかった。


十秒。二十秒。三十秒。


エレベーターが下りていく低い振動が、

壁を通して伝わってくる。

その感触が消えてから、ようやく布団を出た。



裸足でリビングへ行く。

フローリングが冷たかった。

カーテンを指一本分だけ開ける。


外はまだ薄暗く、街灯がオレンジ色に滲んでいた。

五階から見下ろすエントランス前の歩道に、

人影はほとんどない。

新聞配達のバイクが一台、遠くで折れていった。



川沿いへ向かうなら、

正面玄関を出て左に曲がるはずだった。



一分待った。二分待った。三分待った。



亮平の姿は、どこにも現れなかった。



もちろん、これだけで何かが決まるわけではない。

裏口を使ったのかもしれない。

階段で降りたのかもしれない。

私が見落としただけかもしれない。

だから結論は書かない。事実だけを書く。



引き出しからメモ帳を出し、鉛筆で書いていく。

六時五分、外出。正面歩道に姿なし。三分間確認。



それだけ。感情は書かない。

感情は、紙に残すものではない。



七時五十一分

玄関の鍵が回る音がした。

私はその瞬間、鍋の前に立っていた。

昆布だしの匂いが台所に漂っていた。

何でもない朝の、何でもない匂い。

でも私の心臓は、鍵の音を聞いた瞬間から、

静かに速くなっていた。



「ただいま」



亮平の声は明るかった。

帰宅した夫の、ごく自然な声だった。



「おかえり」



と私は返した。

鍋の中身を見たまま。振り返らずに。



靴を脱ぐ音。

廊下を歩いてくる足音。

リビングのドアが開く。

亮平が入ってきた時、私はようやく顔を向けた。



額にうっすら汗が浮いていた。

頬が少し赤い。

タオルを首にかけている。

走ってきた男に見えた。

とても自然だった。自然すぎた。



「今日はどこまで?」



「橋の手前で戻ってきた。風が強くて」



先週は東公園。

今週は橋の手前。

場所を少しずつ変えてくる。

毎回同じでは作り物めいてしまうことを、

この男はよく知っていた。


「寒くなかった?」


「最初だけ。途中からちょうどよかった」


「そっか」


会話はそこで終わらせた。

問い詰めるための質問はしない。

相手の警戒心を高めてはいけない。



亮平がシャワーに向かったあと、私は玄関へ行った。



ランニングシューズは、きちんと揃えて置かれていた。

それ自体が既におかしかった。

走った後の靴というのは、もう少し無造作なものだ。

疲れた足が脱いだ靴は、どこか崩れている。

でも亮平の靴はいつも、

まるで外出前に並べたように整っていた。



私はしゃがんだ。

靴底に顔を近づける。

湿った土の匂いがするはずだった。

五月の朝、露を含んだ遊歩道を走ってくれば、

靴底に地面の気配が残る。



匂いがしなかった。



代わりに、かかとの溝に白い粉のようなものが

挟まっていた。先週も同じものを見た。



公園の土ではない。川沿いの砂でもない。


コンクリートの粉塵に近かった。

乾いた室内の床、古いビルの廊下か、

駐車場か、あるいはホテルの一室か。


少なくとも、外を走ってきた靴が拾う

種類のものではなかった。



私はキッチンから綿棒と紙封筒を持ってきた。

透明なビニール袋ではなく紙にするのは、

密封すると水分がこもって付着物の状態が変わるからだ。

そんな知識がまだ指先に残っていることを、

私は少しだけ苦く思った。



靴底の端から、ほんの少しだけ採取した。

封筒に入れ、日付と時刻をボールペンで書く。

これは証拠ではない。

まだ何も証明しない。

ただ、次にどこを見るべきかを決めるための、

最初の座標だった。


「ママ?」


背後から声がして、心臓が跳ねた。

美月だった。寝癖のまま、目をこすりながら廊下に立っている。

私は封筒を反射的に手のひらの中に隠した。

ほんの一瞬、指に力を込めながら、母親の顔を作った。



「ごめん、起こしちゃった?」


「ううん。パパ帰ってきた?」


「うん。今シャワー浴びてるよ」


美月は玄関に目を向けた。

その視線が、亮平の靴の上で止まった。



「パパの靴、綺麗だね」


 

その一言が、静かに胸の奥へ落ちた。

子どもは証拠という言葉を知らない。

でも子どもは、大人が必死に見て見ぬふりをしている

違和感を、何の悪意もなく口にする。


「走る場所が綺麗なのかもね」


私は笑って言った。

美月はしばらく靴を見てから、


「ふうん」


とだけ言ってリビングへ戻っていった。



私は封筒をエプロンのポケットにしまった。

この子を、こちら側に立たせてはいけない。

美月が拾ったその違和感は、私が預かる。

父親の嘘の重さを、あの子に渡すわけにはいかなかった。



 夫さえ知らない私の過去 結婚前のこと

結婚前、私は企業の不正調査を専門とする会社に

勤めていた。

コンプライアンスコンサルタントという肩書きだったが、

実際の仕事は、訴訟や捜査機関が動き出す前の段階で、

法廷で使える証拠を静かに集めることだった。

依頼人のほとんどは上場企業だった。

横領が疑われる役員。

競合に情報を流している幹部。

二重帳簿の痕跡。

不正アクセスのログ。



私の役割は、現場に出ることではなかった。

集められた資料を精査し、

矛盾の輪郭を描き、次の手を提案する。

経費の流れ、メールの文体の変化、

出張記録と交通系ICカードのログのズレ。


人は自分では気づかないところに、

嘘の断片を落としていく。

私はそれを拾い集め、繋ぎ合わせる仕事をしていた。



完璧な嘘というものは存在しない。

あるのは、まだ見つかっていない嘘だけだ。



そう教えてくれたのは、当時の上司だった。

私はその言葉を、今でも信じている。



結婚を機に、その仕事を辞めた。

亮平と出会い、子どもができ、普通の暮らしを選んだ。

誰かを疑う技術を、もう使わないと決めた。

必要にならない人生を、自分で選んだつもりだった。



それなのに亮平は、私をまたそこへ引き戻した。

昼過ぎ、買い物に行くと言って家を出た。

スーパーへは向かわず、駅とは逆方向の路地を選んだ。

人通りが少なく、顔見知りと鉢合わせる心配のない道だ。

古いスマホを取り出す。

今の生活ではほとんど使わない端末だった。



連絡先の中から、一つの名前を探した。


鷺沼透。


かつての同僚だった。

民間の調査会社にいて、

企業案件で付着物や繊維片、電子機器の初期鑑定を請け負っていた男だ。

感情を持ち込まない。

余計なことを聞かない。

物だけを見て、事実だけを返す。

十年以上連絡を取っていない。


でも、あの業界に一度入った人間が完全に足を洗えることはほとんどない

それも、昔から知っていた。



鷺沼透宛 送信


ご無沙汰しています。

森下紗季です。今は別の姓です。

個人的な件で、白色の付着物について初期所見を頼める人間を探しています。

正式な鑑定ではありません。つないでもらえますか。



送信する前に、指が一瞬だけ止まった。

これを送れば、私は昔の扉を開けることになる。

普通の妻でいるために閉じた扉を、自分の手で。



でも亮平が先に、その扉を開けた。



私は送信した。


返事は翌々日の昼に来た。

パートのない日で、私はコインランドリーへ

洗濯物を持ち込み、乾燥機が回っている間に

古いスマホを確認した。


蛍光灯の白い光の中で、画面だけが妙に鮮明に見えた。


鷺沼透より


久しぶり。名前も相手の情報もここには書くな。

送るなら昔の手順で。サンプルの保管状態は?


短かった。

それでよかった。

鷺沼はいつも、必要最低限しか言わない男だった。

背景も、動機も、感情も、一切聞かない。

物だけを見る。事実だけを返す。

それが、あの仕事をする人間の流儀だった。

私はまだその言語を、体で覚えていた。



返信を打ちながらコインランドリーを出て、

駅前の商店街を歩いていた。

用事はなかった。

子どもたちは学校で、今日は休みで家には亮平がいる。


昼前に亮平が


「少し出てくる」

とだけ言って出かけていった。

行き先は言わなかった。私も聞かなかった。



聞かなかったのは、信じていたからではない。

聞いても嘘しか返ってこないと、もうわかっていたからだ。



そこで、顔を上げた。



商店街の中ほど、青果店の軒先のあたりに、

亮平の後ろ姿があった。



三十メートルほど先だった。

人通りの中に溶け込むように、ゆっくりと歩いている。

休日のカジュアルな格好

薄手の紺のジャケット、細身のダークパンツ。

きちんとしているが、仕事着でもない。

どこかへ行く気配がある、あの微妙な力の入れ具合だった。



私は歩調を落とした。

反射的に、隣の店の庇の陰へ体を寄せた。

昔の習慣が、十年の眠りから覚めるように戻ってきた。

追うのではない。ただ、距離を保ちながら見る。



亮平はスマホを耳に当てた。



歩きながら電話をする時、亮平にはいくつかの癖がある。

仕事の電話では肩がわずかに上がり、歩幅が広くなる。


義母への電話では足が自然と止まり、

片手をポケットに入れる。

子供の学校からの連絡では、立ったまま周囲を見回す。



十二年で覚えた、夫の小さな語法だった。



でもその電話では、どれでもなかった。



肩が、すうっと落ちた。

歩くペースが落ちた。

人混みの中で、亮平だけが少し違う時間を生きているように見えた。

青果店の前で立ち止まり、

並んだ夏みかんには目もくれず、壁に片手をついた。



その仕草を、私は知っていた。



気を許した相手と話す時の、亮平の姿勢だった。



相手が誰なのか、わからない。

旧友かもしれない。

部下かもしれない。

声は届かない。顔も見えない。わからない。



わからないのに、胃の奥が冷えた。

亮平は電話口に向かって、何かを言った。

低く、短く。

それから少しの間、黙って聞いていた。

やがて、また何かを言った。今度は少し長く。



その時、風が商店街を抜けた。

青果店の値札がばたついて、

どこかの店からカレーの匂いが流れてきた。

普通の昼下がりの、普通の匂いだった。

なのに私はその場に立ったまま、

足の先から体温が抜けていくのを感じていた。



電話を切る直前、亮平は小さく笑った。



声は聞こえなかった。

後ろ姿だったから、表情も見えなかった。

ただ、肩のあたりが、笑う人間の形をした。

それだけだった。それだけで、十分すぎた。



誰と話しているのか、わからなかった。

わからないのに、確信に近いものが育っていた。


わからないからこそ、余計に。

私はそれ以上、近づかなかった。

引き返して、来た道を戻った。


背後で亮平がどこへ向かうのか、

電話の相手が誰なのか、見届けなかった。

見てしまえば、確信に変わる。

確信は感情に火をつける。

感情で動けば、負ける。今日のところは、これだけでいい。



スマホの画面には、

鷺沼への返信の途中の文字が残っていた。


家に戻ると、子どもたちがまだ学校から帰っていなかった。私はキッチンに入り、夕飯の下ごしらえを始めた。

玉ねぎを切った。目が沁みた。

涙ではなかった。そう思いたかった。



亮平が帰ってきたのは、夕方五時を過ぎた頃だった。


「ちょっと本屋に寄ってきた」


と言いながら、手ぶらで玄関を入ってきた。悠真が


「パパおかえり」

と走っていった。美月が


「何の本?」


と聞いた。


「ビジネス書」と亮平は答えた。


私は鍋をかき混ぜながら、背中でその声を聞いていた。

本屋。手ぶら。ビジネス書。


一つ一つは、それだけで咎める材料にならない。

でも私には今日、商店街の青果店の前で壁に

手をついた亮平の背中が、網膜に焼き付いていた。



「おかえり」



とだけ言った。振り返らずに。


その夜、子供たちが寝てからノートを開いた。

日付を書き、記録した。

土曜昼。商店街にて後ろ姿を目撃。

私服。通話中。肩が落ちていた。

壁に寄りかかる仕草。笑い。相手不明。



証拠にはならない。

断定もできない。ただ、

記録する価値のある違和感だった。



怒りは、静かだった。

叫びたくなるような怒りではなく、

泣き崩れるような怒りでもなく、

もっと冷たく長く続く種類の怒りだった。

炭火のように、酸素さえあれば何時間でも燃え続けるような怒りだった。



鷺沼への返信の続きを打った。

指は震えていなかった。


亮平は私を知っているつもりでいる。


妻は忙しい。子どもに追われている。

多少の違和感には目をつぶる。

問い詰めるより、信じることを選ぶ女だと。


その読みは、かつては正しかった。


でも今の私は、もうその女ではない事に気づいていない

最後までお読みいただきありがとうございました少しでも心に残るものがありましたら、リアクションや評価のお星様をポチッと押していただけますと、とてもとても嬉しいです。

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