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浮気旦那の隠し方が完璧すぎたので、こちらも完璧に復讐の準備することにしました  作者: こまめ


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第二章 空白の2時間


靴底は、人間ほど上手に嘘をつかない。


疑いというものは、熱ではない。


もっと冷たい。もっと静かで、もっと生活に馴染む。


朝食の皿を並べ、子どもの水筒に氷を入れ、

洗濯機のボタンを押しながら

胸の奥に小さな石を一つ沈めてくる。



その石は、誰にも見えない。

夫にも。子どもたちにも。



たぶん、私自身にさえ。

亮平を疑い始めてから最初の日曜日

私はいつもより早く目が覚めた。



時計は五時三十七分を示していた。

カーテンの隙間から、まだ薄い朝の光が入っていた。

隣では亮平が規則正しい寝息を立てている。

反対側の部屋では、美月と悠真がまだ眠っている

はずだった。



私は目だけを開けて、動かなかった。

少しでも体を動かせば、亮平が目を覚ますかもしれない。

目を覚ました亮平は、いつものように優しい声で言うだろう。


「起こした? まだ寝てていいよ」


その声を聞いたら、私はまた迷ってしまうかもしれない。

疑っている自分の方が悪いのではないかと。



だから私は、寝たふりをした。



五時五十二分

亮平のスマホが震えた。

音は鳴らなかった。

枕元で一度だけ、短く。


亮平はすぐに目を開けた。

寝起きの鈍さがなかった。


まるで眠りの中でも、その合図を待っていたみたいだった。



彼はゆっくりと体を起こした。

私を起こさないようにしている。

その所作は、夫としては優しかった。

けれど、その優しさが今は気味悪かった。




亮平はクローゼットを開け、前夜から用意していたランニングウェアに着替えた。

黒いシャツ、グレーのタイツ、軽いウインドブレーカー。

何度も見た格好だ。



でも、その朝の私は夫を夫として見なかった。



シャツを着る順番。

靴下を履く時の速さ。

スマホをポケットに入れる位置。

洗面所に立った時間。水を飲んだ量。



夫を愛している妻として見ると、私は何でも許してしまう。疲れているのだろう。

悪気はないのだろう。

そんな言葉で、自分の違和感を柔らかく包んで

捨ててしまう。

だから私は、俯瞰で見ることにした。



藤堂亮平という三十九歳の男が、日曜の朝に家を出る。

妻と子ども二人を持ち、営業部の課長で、周囲からの信頼も厚い。その男は毎週、健康のために走っていると言う


本当に走っているのか。



六時二分

亮平は寝室のドアを開ける前に、一度だけ私を振り返った。私は呼吸を浅くして、眠っているふりを続けた。



廊下へ出た彼は、子ども部屋のドアを小さく開けた。

亮平はいつも、走りに行く前に二人の寝顔を見る。

美月の布団を直し、悠真の頭を撫でる。

私はその習慣を、ずっと良い父親の証拠だと思っていた。



今も、そう見える。



けれど疑いを持った目で見ると、

同じ行動が別の意味を持ち始める。

家族を大事にしているから見るのか。

それとも、自分がこれから家族を裏切りに行くことを

寝顔で帳消しにしているのか。



私は布団の中で唇を噛んだ。



六時五分

玄関のドアが閉まった。



私はすぐには起きなかった。

十秒。二十秒。三十秒。


エレベーターが下りていく低い音が、壁の奥から聞こえた。



そこでようやく、私は布団から出た。

裸足のままリビングへ行き、カーテンを少しだけ開けた。

うちはマンションの五階で、正面玄関へ続く歩道が見える。


亮平がいつも言うジョギングコースは、

マンションを出て左へ曲がり、

川沿いの道へ向かうものだった。



私は窓際に立った。



一分。二分。



朝の歩道を、犬を連れた老人が通った。

新聞配達のバイクが走った。

向かいの棟のベランダで、誰かが洗濯物を出していた。



亮平の姿は見えなかった。



もちろん、それだけで何かがわかるわけではない。

裏口から出たのかもしれない。

ストレッチをしていたのかもしれない。

私が見落としたのかもしれない。証拠ではない。



ただ、記録する価値のある違和感だった。



私はキッチンの引き出しから小さなメモ帳を取り出し、

時間を書いた。六時五分、外出。正面歩道には姿なし。



それから、玄関へ向かった。

亮平のランニングシューズはない。

代わりに、普段履きの革靴とスニーカーが並んでいる。

私はしゃがみ込み、玄関マットの隅を見た。

砂はほとんどなかった。



亮平はきれい好きではない。

走って帰ってきた日には、

玄関に細かい砂や枯れ葉のかけらが落ちていることがあった。それが、その日は妙にきれいだった。



私は掃除をしなかった。

何も触らない。

変えない。気づいていないふりをする。

夫が嘘を完璧に隠すなら、

私も完璧に知らない妻を演じなければならない。



その時、美月が起きてきた。


「ママ、早いね」


寝癖のついた髪で、目をこすっている。


私はメモ帳をすばやく裏返した。

「目が覚めちゃった。まだ寝てていいよ」

「パパ走りに行った?」

「うん。たぶんね」



たぶん、という言葉が口から出た瞬間、

自分でも嫌になった。



美月は気にしていない様子で冷蔵庫を開け、麦茶を飲んだ。

「パパ、えらいよね。日曜日なのに」

「そうだね」


私は笑った。母親の顔で。妻ではない顔で。


それから朝食を作った。

トーストを焼き、スクランブルエッグを作り、

悠真の好きなウインナーを焼く。

いつも通りの朝に見えるように、いつも以上に丁寧に動いた。



人は嘘をつく時、不自然になる。

でも、嘘に気づいた人間もまた、不自然になる。

私はそれを避けたかった。

疑っていることを知られた瞬間、亮平は証拠を消す。

行動を変える。嘘をもっと深いところに沈める。



だから私は、何も知らない妻でいなければならなかった。



七時五十一分

玄関の鍵が回った。


「ただいま」


亮平の声は明るかった。


私はトーストを皿に並べながら返事をした。


「おかえり。早かったね」


本当は早くない。

出てから一時間四十六分。

朝のジョギングにしては長い。


亮平は笑いながらリビングに入ってきた。

首にはタオルをかけている。

額は少し湿っていた。

頬もほんのり赤い。

走ってきたように見えた。

あまりにも自然だった。



「今日は川沿い、風が気持ちよかった」


亮平は自分からそう言った。


私は皿を置きながら、夫の足元を見た。

靴下の甲に泥はない。

ふくらはぎに草のかけらもない。

呼吸も乱れていない。

でも、汗をかいたようには見える。



完璧だった。

おそらく、この男は自分の帰宅後の見え方まで

計算している。


どれくらい濡れていれば自然か。

どんな話をすれば、走ってきたと信じられるか。


下手な嘘なら、怒れた。

雑な裏切りなら、見下せた。

でも亮平の嘘は、生活の中に溶け込むように作られていた。


正直ぞっとした。


「川沿い、混んでた?」


私は何でもない声で聞いた。


「まあまあ。犬の散歩してる人が多かったな」

「いつもの公園まで?」

「うん。東公園を回って帰ってきた」


迷いがない。


私は冷蔵庫から牛乳を出しながら、

もう一つだけ聞いた。


「藤の花、まだ咲いてた?」


亮平は一瞬も止まらなかった。

「もう終わりかけかな。ちょっと寂しい感じ」



私は牛乳パックを持つ手に、力が入るのを感じた。



東公園に藤棚はない。



藤棚があるのは、西公園だ。

美月が幼稚園の頃、毎年写真を撮りに行っていた場所。

亮平も一緒に行ったことがある。

けれど亮平は、私の問いに答えた。

見ていないものを、見たように。



私はその場で何も言わなかった。


「そっか」


たったそれだけを返した。


亮平は安心したように、

悠真の頭をくしゃっと撫でた。


「起きたか、寝坊助」

「パパ、今日も走ったの?」

「走ったぞ」

「速かった?」

「めちゃくちゃ速かった」

「うそだあ」


家族の笑い声が、朝の食卓に広がった。


その真ん中に、私は座っていた。

妻として。

母として。

そして、夫の嘘をひとつ掴んだ女として。



朝食のあと、亮平は自分のランニングウェアを洗濯機に入れた。


「汗すごいから、先に入れとく」

そう言って、シャツとタオルを丸めて放り込む。

私は食器を洗いながら、背中でその音を聞いた。



亮平が子どもたちとリビングへ行ったあと、

私は洗濯機の前に立った。

ふたを開ける。

黒いシャツ。

グレーのタイツ。

タオル。

私は指先でタオルに触れた。



濡れていた。

けれど、その濡れ方が変だった。


体温がなかった。


走った後の汗を含んだ布は、もっと生々しい。

温かく、重く、少し酸っぱい匂いがする。


けれどそのタオルは、蛇口の水を吸わせたみたいに

冷たかった。汗ではない。


たぶん、水だ。


私はタオルから手を離した。

心臓が、嫌な速度で動いていた。

それでも、洗濯機のボタンを押した。



証拠を残すなら、ここで止めるべきだったのかもしれない。

袋に入れて保管すればよかったのかもしれない。

でも、その時の私はまだそこまでできなかった。


夫の濡れたシャツを証拠品として扱うことに、

どこかためらいがあった。


夫婦だったから。まだ、夫婦のふりをしていたから。


洗濯機が回り始める音を聞きながら、

私は思った。

亮平は嘘をついている。

でも、まだ足りない。


「東公園にも藤棚くらいあるだろ」

「水をかぶっただけだ」

「お前、考えすぎだよ」

「最近疲れてるんじゃないか」


亮平なら、そう言う。

そして私は、また自分を疑うことになる。

それだけは嫌だった。


記 録  第二頁

前回:日曜朝ジョギング、汗の量不自然、ホテルの匂い

前回:金曜飲み会帰宅零時過ぎ、説明に乱れなし


五時五十二分、アラームなしで起床(スマホ振動の可能性)

六時五分、外出。正面歩道に姿なし。

七時五十一分、帰宅。呼吸の乱れほぼなし。

「東公園」と発言。

藤棚を見たと答えるが、東公園に藤棚はない。

タオルは濡れているが冷たい。

体温なし。汗臭なし。水の可能性。

書き終えた時、手が震えていた。


悲しかった。

夫が浮気しているかもしれないことよりも、

私が夫を疑うところまで来てしまったことが。


リビングから亮平の笑い声が聞こえた。

悠真とゲームをしているらしい。


「パパずるい!」

「勝負の世界は厳しいんだよ」


美月が呆れた声で

「大人げない」と言う。


私はノートを閉じた。

亮平は完璧な父親だった。

少なくとも、その瞬間までは。

子どもたちと笑い、朝食を食べ、妻に優しく声をかける。

何一つ壊れていない家族の中心に、彼は自然に座っていた。



だから私は決めた。

この人を責める時は、

絶対に言い逃れできないところまで行ってからにする。

涙ではなく、怒鳴り声ではなく、勘ではなく、証拠で。


その日の夜、亮平が風呂に入っている間に、

私は玄関の靴箱を開けた。



ランニングシューズは、一番下の段に揃えて置かれていた。私はそれを手に取った。


軽かった。


走った靴は、もう少しだけ疲れているものだと思っていた。土や湿気や、足の熱を吸っている。

けれど亮平の靴は、ただ役目を終えた

小道具みたいに乾いていた。



靴底を見た。


泥も、草も、砂利もついていなかった。



ただ、右足のかかとの溝にだけ、

白っぽい粉のようなものが挟まっていた。


公園の土ではない。川沿いの砂でもない。


どこか、乾いた建物の床に落ちているような粉。


私はそれを指で触れようとして、やめた。

まだ触らない。まだ、壊さない。

まだ、夫に気づかせない。

私は靴を元の位置に戻し、靴箱を閉めた。


洗面所から、亮平の鼻歌が聞こえていた。

その声は、いつも通りだった。

いつも通りすぎて、気持ちが悪かった。


私はリビングに戻り、子どもたちの連絡帳を開いた。

明日の持ち物を確認し、給食袋を畳み、

美月の漢字ドリルに丸をつけた。

母親の日常を続けながら、

頭の中では別のことを考えていた。


来週の日曜日。

私は、亮平の空白の二時間に、小さな印をつける。

それが何を連れて帰ってくるのかは、まだわからない。


でも一つだけ、確かなことがあった。


夫が走っていないなら、


靴は必ずどこか別の場所を踏んでいる。


そして靴底は、人間ほど上手に嘘をつかない。

最後までお読みいただきありがとうございました少しでも心に残るものがありましたら、リアクションや評価のお星様をポチッと押していただけますと、とてもとても嬉しいです。

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