第三十六章 森下と父の過去
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父は、森下家の長男だった。
けれど、家を継ぐ気はなかった。
祖父の会社に入る気もなかった。
自分の好きなことをして、自分の力で生きたい人だった。
父は若い頃から、森下の家の空気が苦手だったらしい。
食卓に並ぶ会話が、いつも会社のことだったからだと
母が昔こっそり教えてくれたことがある。
誰と会った。
どこと提携した。
次は誰を動かす。
どこの家と繋がる。
そんな話ばかりだったそうだ。
子どもの頃の父は、それを黙って聞いていた。
でも、大人になるにつれて
その沈黙が反発に変わっていった。
大学へ進む時、父は祖父の希望とは違う大学を選んだ。
祖父は怒った。
祖母は黙っていた。
そして大学で、父は母と出会った。
母は、普通のサラリーマンの家庭で家柄も違った。
森下家とはまったく違い
よく笑い、よく喋り、思ったことを顔に出す。
家柄や肩書きより、その人が何を好きかを大事にする人。
父は、そんな母に惹かれた。
結婚したいと家に連れてきた時、森下家は猛反対した。
理由は、いくつもあったのだと思う。
家柄。
育ち。
将来。
会社。
長男としての立場。
祖父は母を認めなかった。
祖母も、表立って味方はしなかった。
父は怒り、家を出た。
「俺は森下のために生きるんじゃない」
父はそう言ったらしい。
母は、そんな父についていき
二人は結婚し、森下家とは疎遠になった。
それでも、私が生まれると、少しだけ事情は変わった。
孫。
その存在は、家の古い怒りを少しだけ緩めた。
祖母は時々、私に会いに来た。
最初は父も嫌がっていたらしい。
でも、母が言った。
「この子から、おばあちゃんを取り上げる必要はないでしょう」
その言葉で、父は渋々認めた。
私の記憶の中の祖母は、いつも静かだった。
派手に笑う人ではない。品のいい祖母
抱きしめる時も、母のように強くはなかった。
でも、私が話すことを最後まで聞いてくれた。
学校であったこと。
友だちと喧嘩したこと。
テストで失敗したこと。
将来、何になりたいかわからないこと。
祖母はすぐに答えをくれなかった。
ただ最後に
「それで、紗希はどうしたいの。
自分で考えてどうしたらいいか答えを出す事が大事よ」
私はその問いが好きだった。
森下の家も、嫌いではなかった。
大きな門。
大きな家。
長い廊下。
庭に咲く椿。
畳の匂い。
祖母が淹れてくれる苦いお茶。
父はあまりいい顔をしなかったけれど
私は時々、森下の家に顔を出した。
祖母に会いたかったから。
父に内緒ではなかった。
でも、父はいつも複雑そうな顔をした。
「森下にあまり近づくな」
そう言われ父と言い合いになった事もある。
「お父さんとの関係は私に関係ない。
おばあさまもおじいさまも悪い人じゃないよ」
私が言うと、父は
「悪い人じゃないから厄介なんだ」
その意味は、子どもの頃の私にはわからなかった。
わかったのは、就職を考え始めた頃だった。
大学三年の時
祖母に呼ばれて、私は森下家へ行った。
応接間には祖母だけでなく、祖父もいた。
祖父は相変わらず大きな人だった。
声を荒げるわけではない。
けれど、その場の空気を自然に自分の方へ傾ける人。
祖父は私に言った。
「紗希、卒業後のことは考えているのか」
私は正直に答えた。
「まだ、はっきりとは」
祖父はしばらく私を見てから、言った。
「森下に入ればいい」
その言葉で、部屋の空気が少し硬くなった。
祖母は黙っていた。
私は驚いて、すぐには返事ができなかった。
森下に入る。
祖父の会社に。
それは、ただ就職先を紹介するという話ではなかった。
森下家の内側へ入るという意味だった。
私は、森下が好きだった。嫌いではなかった。
でも、父がどう思うかはわかっていた。
その夜、家でその話をした時、父は激しく怒った。
「ふざけるな」
父があれほど声を荒げたのを、私は初めて見た。
「俺を継がせるのに失敗したから、今度は紗希か」
母が止めようとした。
でも父は止まらなかった。
「お前は森下の道具じゃない。あの家に入ったら、人生ごと持っていかれる」
私は反論した。
「そんな言い方しなくてもいいじゃない。おじいさまは、私の将来のことを考えてくれてるだかでしょ」
その瞬間、父の顔が傷ついたように歪んだ。
「紗希まで、あっち側に行くのか」
その言葉は、私の胸に刺さった。
あっち側。
私は父を裏切りたいわけではなかった。
森下を選びたいわけでもなかった。
ただ、自分がどうしたいのかを考えたかっただけだった。
けれど、父にとって森下家は、ただの実家ではなかった。
逃げてきた場所。
否定してきた場所。
自分を縛ろうとした場所。
そこへ娘が近づくことは
父には耐えられなかったのだと思う。
その後、父と祖母の関係はさらに悪くなった。
電話で言い争う声を、私は何度も聞いた。
「紗希を巻き込むな」
父の声。
「本人が決めることです」
祖母の声。
「それが森下のやり方なんだよ」
「あなたは何年経っても、逃げたことを正当化するのね」
その言葉を聞いた時、父は電話を切った。
家の中は、しばらく凍ったようだった。
私は、どちらにも何も言えなくなった。
森下が好きだった。
父も大切だった。
どちらかを選ぶような空気に
あの頃の私は耐えられなかった。
結局、私は森下には入らず別の会社に就職した。
企業不正調査に関わる仕事。
皮肉なことに、証拠を集め、人の嘘を見抜く仕事だった。
祖母からは、一度だけ短い手紙が来た。
「紗希、あなたが選んだ道なら、それでいい」
ただ、それだけ。
私は返事を書けなかった。
父の顔が浮かんだから。
祖母の顔も浮かんだから。
それから少しずつ、森下家とは距離ができた。
結婚する時、祖母には報告した。
式にも来てくれた。
亮平は、祖母に丁寧に頭を下げた。
祖母はその時、亮平をじっと見ていた。
帰り際、私にだけ小さく言った。
「あの人は、自分をよく見せるのが上手いわね」
私はその時、少し笑ってしまった。
「褒めてるの?」
祖母は答えなかった。
今ならわかる。
祖母は、あの時から亮平の中にある
何かを見ていたのかもしれない。
でも私は見なかった。
見ないことを選んだのかもしれない。
亮平を信じたかった。
普通の家庭を作りたかった。
森下という名前から離れて
藤堂紗希として幸せになれると思っていた。
でも、その普通の家庭は、亮平の浮気を完璧に隠そうとしている嘘の上に置かれていた。
そして今、私はこうして戻ってきた。
あの時、閉じた扉の前に。
祖母はまだ静かに私を見ていた。
「お父さんは元気?」
祖母が聞いた。
私は少しだけ目を伏せた。
「元気です。相変わらず、森下の話はあまりしません」
「でしょうね」
祖母の声には、寂しさよりも諦めに近い響きがあった。
「お父さんは、私たちを許していないもの」
「おばあさまは、父を許していますか」
祖母はすぐには答えなかった。
窓の外に目を向ける。
庭の松が、風にわずかに揺れていた。
「親子はね、許すとか許さないとか、そんな簡単な言葉では片づかないの」
祖母は静かに言った。
「私たちは、あの子を縛った。あの子は、私たちを捨てた。どちらも本当です」
私は黙って聞いていた。
「でも、紗希」
祖母は私へ視線を戻した。
「あなたは、お父さんの代わりに私たちを許す必要も、恨む必要もありません」
その言葉が、胸に落ちた。
「あなたは、あなたのためにここへ来た。子どもたちのために来た。それでいい」
私は小さく頷いた。
祖母は湯呑みを置き、背筋を伸ばした。
「さて」
その一言で、空気が変わった。
祖母の顔から、昔話をする祖母の柔らかさが消えた。
代わりに、森下家の人間としての顔が現れる。
静かで、隙のない顔。
「相手は、桐島屋と言ったわね」
「はい」
「そして、あなたの夫は、その名前を利用できると思っている」
「そうだと思います」
「相手の女も、自分の家を価値として見せている」
「はい」
祖母はわずかに笑った。
「浅いわね」
その一言は、鋭かった。
私は息を呑んだ。
祖母は続けた。
「桐島屋がどう出てくるか。あなたの夫がどこまで登るか。今は止めなくていい」
「止めなくていい?」
「高い場所でなければ、落ちた時に痛みがわからないでしょう」
祖母の声は穏やかだった。
でも、その内容は冷たかった。
「あなたは、まだ何もしなくていい。桐島屋の事はこちらに任せなさい。準備しときます」
「準備……」
「森下は、あなたの怒りのためには動きません」
私は顔を上げた。
祖母はまっすぐ私を見ていた。
「でも、あなたと子供を守るためなら動きます」
その瞬間、胸の奥にあった硬いものが少しだけほどけた。
私は深く頭を下げた。
「手を貸してください。お願いします」
祖母は私の頭を見下ろし、静かに言った。
「顔を上げなさい。紗希」
私は顔を上げた。
祖母は続ける。
「まずは、あなた自身が壊れないこと。子どもたちを不安にさせないこと。そして、相手に復讐を気づかせないこと」
「はい」
「この事は征一郎にも話します」
祖父の名前が出た瞬間、背筋が伸びた。
祖父。
あの大きな人が、この件に関わる。
その重さを、私はよく知っている。
祖母は少しだけ目を細めた。
「怖い?」
私は正直に答えた。
「少し」
「それでいいの。怖さを知らない人間は、力の使い方を間違えます」
祖母は席を立った。
「今日は帰りなさい。子どもたちが帰る前に、母親の顔に戻らなければならないでしょう」
私は頷いた。
「明日以降、こちらから連絡します」
「はい」
祖母は優しい人だ。
でも、それだけの人ではない。
森下の門を出る時、空は薄く曇っていた。
私は一度だけ振り返った。
長い塀。
重い門。
黒い表札。
森下。
それは、私が逃げた名前だった。
同時に、今の私が子どもたちを守るために
手を伸ばした名前でもある。
私の切り札
私はバッグの中の封筒に触れた。
もう、眠らせたままにはしない。
亮平。
玲奈。
あなたたちが桐島屋の名前で未来を語るなら
私は森下の力を借りてその未来を壊す。
声に出さず、私はそう思った。
そして駅へ向かって歩き出した。
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